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「出向、ですか」
「そう。急で悪いけど、来週から。製造部の品質管理課に」
月曜の早朝。役員室にて、梅村部長が目を合わせないまま告げた。きっと、彼も気まずいのだろう。
「品管というと……営業とは全く業務内容が異なるような」
「様々な業種を経験することは、決して無駄ではないと、私は思う。常務も、篠生君なら任せられると、信用しての決断だろう。品管は慢性的な人手不足に悩まされてる部署だしね」
「それは……光栄ですが」
――光栄なわけがない。
この人事異動は実質左遷である。それも私怨が百パーセントだ。おおかた、桜庭さんが俺と仕事をしたくないとごねたのだろう。まあ気持ちはわかるが……。
おいおいふざけんなよおおー、と心の中の俺は叫んでいる。
だが、これ以上、ボロを出して失望されるわけにはいかない。意識して、慇懃に微笑んでみせる。
「承知いたしました。新しい部署でも、会社に貢献できるよう、善処します」
――張りつめていた糸が切れる、という表現がある。
足元がぐにゃりと歪んだ気がして、俺は縋るようにして乗り慣れた営業車に滑り込んだ。
会社の地下駐車場。ここなら誰の目にも留まらない。
エンジンを掛けないまま、運転席に深く沈み込む。
――考えろ。落ちた気分を持ち直す方法を。
これまではどうして乗り越えていただろうか。
入社して六年間、そりゃあ理不尽なことは幾度もあった。新商品のプレゼンが飛んでしまい、暗記するから忘れるんだ、実際に商品を使って体で理解しろと先輩に叱咤され、化粧品を夜な夜な塗りたくって勉強した新人時代。上司と桜庭さんと部下の間で板挟みになる現在。それでもここまで来られたのは、折れるわけにはいかない理由があったからだ。
理由……これまでの俺にとってそれは、家族の存在だった。
あれは既に十年以上前のことになるか。高校受験を目前に控えていたのに、俺は連日、仲間とカラオケ三昧だった。民謡の先生だった祖母による個人指導の甲斐あって、歌はそれなりに得意で、仲間内では『天才ボーカリスト』などと持て囃されていたあの頃。将来はロックバンドのボーカルになるなどと、豪語していた記憶がある。
ところが、俺の青臭い野望は泡となって立ち消えた。親父が死に、母さんが勤めに出て、妹が心を閉ざし、小学校に行かなくなったのだ。
――このままではいけない。
俺は公立高校を目指して必死で勉強し、慣れない家事に勤しみ、殻に閉じ籠った妹を励ました。
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