side:雨風 篠突く雨

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 それからというもの……。  こころに、母さんに、尽くし、必要とされることが俺の生きる糧になっていたように思う。その強迫観念じみた想いこそが、俺自身の支えになっていたのだ。  ――でも、それも今となっては。 『大学の学費、来年度以降は要らないから』  大人びた妹の声を思い出す。  ――もう頑張る必要、なくね?  立ち上がるための理由が見つからない。いっそう深く、座席シートに沈み込む。 「――だあああ! やめだ、やめやめ!」  メビウスの輪状態になった不毛な思考を追い払うように、首を振る。胸ポケットを弄り、お祓いスプレーを取り出すと、ジャケットに吹きかけた。  幽霊歌手事件以来、お守りがわりになっているこのスプレー。  そういえば、椿井さんの生霊は、あれからずっと見ていない。  展望台にて、本物の彼女のライブを初めて聴いたが、観客と奏者の間に生まれる空気感と皮膚に伝わる音の感覚は、やはり格別だった。予定外の協奏には、久しぶりに胸が躍った。桜庭さんのあの言動には腹が立ったが、結果、生まれたのが椿井さんとの協奏だったのだから、ある意味感謝すべきなのかもしれない。  ハイタッチで重ねた手のひら。瞬間、身体に電撃が走ったような気がした。それは乾いた大地に雨が降り、植物が芽吹き始める日のような。彼女ともっと歌いたい、と思った。  ……椿井さんと話がしたい。あの心地良い低音域の声を鼓膜に響かせてほしい。昨夜の協奏のこと、桜庭さんとの間にあったこと。レペゼントワイライトのこと。俺は携帯電話を手に取った。 「……片想いだけどな」 思い至ってしまえば、完全に委縮してしまう、弱り切った俺のメンタル。こんな状態で彼女に接触するのは正直怖い。忙しい、とか言われたら、立ち直れん。  ――なんか俺、マジで情けねー……。  ディスプレイの時計は就業開始時間の十分前を表示する。いかん、さすがにそろそろ事務所に向かわねば。不承不承、運転席のドアに手を伸ばした時、地下駐車場に車が入ってきた。 バックミラーで確認すると、営業車だ。ドアの開閉音のあと、二人分の声が後方から聞こえてきた。 「篠生は災難だな……全く、上層部は何を考えてるのやら」 「品管に出向とかえげつないっすね」  檜山課長と楠木の声だ。  俺の話をしてる……。なんとなく出て行くのは気まずくて、息を殺して耳を澄ませる。
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