187人が本棚に入れています
本棚に追加
※
「ゆきさん、今日は急にごめんね」
「……本当にね」
皮肉を籠めて返してみると、篠生さんは片頬を上げた。
「厳しいなぁ。まだ怒ってる?」
「いいえ」
蒸し返しても仕方がないので、肩を竦めるにとどめる。文句を言ったところで、折角のお酒が不味くなるだけだ。「乾杯」とグラスを重ねる。白ワイン。辛い系で、わりと好きな味だ。篠生さんはスプリッツァー。スペインバルのカウンター型の半個室で、私たちは隣同士で座っている。
「それで、話って?」
「ああ、実は」
グラスを置いて、彼が視線を向けてきた。間接照明のムーディな灯りに照らされた篠生さんは、特別格好良く見えて、どぎまぎしてしまう。
「ようやく転職先が決まったんだ」
「あ……」
「どうしても、最初にゆきさんに報告したくて」
「よかったね……おめでとう」
三か月前、彼が精神状態を崩して以来、度々転職の相談に乗っていた私は、自分のことのようにほっとして、嬉しくなってしまう。以前はどこか、張り詰めたような空気をまとっていた篠生さんだけれど、隣で笑う彼には、重荷から解き放たれた柔らかさがある。
「どういう仕事なの? どんな業種に就きたいのかわからないって、ずっと言っていたけど……」
「それがさ、アゲハミュージックの販売」
アゲハミュージック。楽器・楽譜の販売や音楽教室で有名な大手メーカーだ。
――というか……
「販売? 思い切ったわね」
「うん」
スプリッツァーを一気に仰ぐ。
「品管で仕事するうち、考えるようになったんだよね。ユーザーの生の声を聞いてモノを販売するのが、結構合ってるのかもなって」
「すごいね、篠生さんは」
素直に感心してしまう。
「逆境にあっても、しっかり前を向いてる。やっぱり篠生さんには、皆の憧れを集めるだけの理由があるわ」
「…………」
褒めたつもりだったのに、何故か睨まれてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!