11人が本棚に入れています
本棚に追加
目が覚めると、見覚えのない天井があった。
頭が痛い。明かに、昨夜の酒のせいだ。
本当はまだ寝ていたい。だけど、ここがどこなのか気になる。
ゆっくりと、俺は上半身を起こした。
柔らかいベッドの上。かなり大きなベッドだ。ダブルベッドどころか、キングサイズだろう。俺の部屋のシングルベッドより、はるかに広い。
ベッドの上部には、部屋の機能を操作するパネルがある。エアコンや明り、室内の音楽を操作するパネル。
間違いない。疑いようがない。
ここは、ラブホテルだ。
やばい。酔った勢いで、どこかの女とワンナイトでもしてしまったのか。
でも、ベッドには、俺以外に誰もいなかった。もしかして、一人でラブホテルに入ったのだろうか。
まあ、見ず知らずの女とホテルに入るよりはマシか。
どこかホッとしながら、俺は部屋の中を見回した。右側には、小さな冷蔵庫。ゆっくりと視線を動かしてゆく。お茶などを入れるポットやカップ。ガラス張りの風呂。部屋の入口のドア。
反時計回りに、部屋の中を見回して。
ソファーのところまで視線を運び、俺の身体は硬直した。
ラブホテルらしい、合皮で包まれたソファー。そこで、足を組んでスマートフォンを操作している女がいた。ホテルのバスローブに身を包んでいる。
彼女が――麻由美が、俺の方に視線を向けた。俺の人生を変えた女。たぶん、今一番会いたかった女。同時に、一番会いたくなかった女。
麻由美は、冷めた目をしていた。どこか怒っているようにも見えた。
「ああ、起きた?」
彼女の言葉をきっかけにして、俺の頭に記憶が流れ込んできた。まるで、濁流のように。昨日の記憶だけじゃない。もう八年も前の記憶。
俺と麻由美が出会った頃の記憶。
俺と麻由美の出会いは、自動車学校だった。仮免を取得して、公道で運転講習をしたとき。
俺が十八歳。麻由美は二十歳だった。
教官を交えた会話の中で、すぐに意気投合した。自動車学校で互いを見かけると、声を掛け合うようになった。
運転免許試験場には、一緒に行った。一緒に合格して、喜び合った。
当時の俺は、高校卒業後、フラフラとフリーターをしていた。就職活動なんてしなかった。ただ適当に生きていた。一生、そんな生き方でいいと思っていた。
自分に劣等感も後ろめたさもないから、気兼ねなく麻由美に告白できた。
「こんなふうに知り合ったのも、一緒に免許取ったのも、何かの縁だからさ。俺と付き合わないか?」
軽い口調で告白したが、麻由美に対する気持ちは真剣だった。出会ってから、ほんの数週間。でも、本気で好きだった。惚れた気持ちは理屈じゃなかった。
遺伝子が相手を求めて、好いた惚れたの気持ちになる――そんな話を聞いたことがある。たぶん、俺の遺伝子が、麻由美に惹かれていたんだ。だから、こんなに簡単に惚れてしまった。
麻由美は、どこか楽しそうに笑っていた。少し茶色に染めた、長い髪。小柄な身体。胸は大きくない。見かけによらず、少し気が強い。俺より年上だけど、愛らしかった。
「いいよ。宮下君、優しいし、楽しいから」
麻由美は、すでに会社員として働いていた。自動車学校にも、仕事の後に来ていた。今のご時世では、高卒で正社員として採用されるのは難しい。彼女も例に漏れず、最初は契約社員として働き始めたそうだ。そこから頑張って、正社員登用までこぎ着けた。
麻由美と過ごす日々は楽しかった。バイトが終わって、彼女の家に行く。二人でゆったりと過ごす。一緒のベッドに入って、裸になって、戯れる。
こんな日が続けばいいと思っていた。このままでいいと思っていた。
けれど、麻由美は、このままでいいとは思っていなかった。
付き合い始めて八ヶ月ほど経ったあたりから、麻由美に聞かれるようになった。
「私との将来、考えてる?」
今なら分かる。麻由美は、互いに安定した職に就き、安定した生活を送り、結婚を視野に入れたかったのだ。将来、子供ができるかも知れない。そんなことすら見据えていたのだ。
そんなことを見据えるくらい、俺のことを好きでいてくれたのだ。
「考えてるよ」
流すように、俺はいつもそう答えていた。でも、当時のバイト先で正社員になろうなんて、思っていなかった。今日を生きる金があればいいと思っていた。
「ねえ。本当に、私との将来を考えてるの?」
付き合い始めて十一ヶ月を迎える頃には、麻由美の口調は強くなっていた。
「当たり前だろ。考えてるよ」
正直、うっとおしかった。とはいえ、麻由美を嫌いになったわけじゃない。好きだった。別れるなんて、一切考えないくらいには。
付き合い始めて一年と一ヶ月目に、別れを切り出された。
「ごめん。私との将来を見据えてくれない人とは、もう付き合えない」
麻由美は泣いていた。気の強い麻由美が。俺と別れるという選択は、彼女にとって、泣くほど悲しかったのだ。でも、一緒に生きる将来が見えないから、別れを選択した。
麻由美の泣き顔を見て、俺は何も言えなくなった。別れを拒むこともできなかった。
たった一年一ヶ月の交際期間。たぶん、それまで付き合った中で、一番好きだった彼女。
俺は独り身になった。
ひとりになって、じっくりと考えた。うっとおしいと思っていた、麻由美の言葉。
『私との将来、考えてる?』
最初は、麻由美が何を考えているのか、分からなかった。適当に仕事をして、今日を生きる稼ぎがあればいい。何が不満だったんだ? 何が不安だったんだ? 彼女との別れに気を落としながら、ひたすら考えた。
時間が経つにつれて、少しずつ分かってきた。
俺は、今しか見ていなかった。
でも、麻由美は違った。五年後、十年後を見ていた。一緒に生きていく中で、どちらかが、病気や怪我で倒れるかも知れない。子供ができるかも知れない。未来を見つめたとき、生活の基盤となるものが必要だった。社会的な信用も必要だった。
麻由美と別れて半年ほどで、彼女の真意に気付いた。
俺はバイトを続けながら、転職先を探した。
正社員の募集は、ことごとく不採用だった。いわゆる「お祈り」が、数え切れないほど封筒やメールで来た。
方針を変えて、契約社員の募集を探した。契約社員から正社員登用を目指そう、と。
かろうじて採用されたのは、コールセンターの仕事だった。商品に関する問い合わせを受けるセンター。
まったくの未経験だったが、俺は必死に働いた。仕事の合間に、タイピングの練習もした。通話中に、より速く正確に文字を打ち込めるように。
二十歳のときに契約社員として入社して。その三年後には、一つのチームのリーダーとなった。さらにその一年後には、チームを管理するSV――スーパーバイザーとなった。
正社員登用もされて、麻由美が望んでいる俺になれた――と、思う。
でも、彼女に連絡はできなかった。あれから何年も経っている。もう、新しい彼氏がいるかも知れない。何より、昔の俺を知っている彼女に会うのは、恥ずかしかった。適当に、いい加減にい聞いた俺。
反面、誰よりも好きだった彼女に会いたくもある。
悶々とする日々の中で、俺は、必死に業務をこなした。
部下を持つようになって。麻由美のことを時折考えつつも、気は引き締まっていた。
人を管理するというのは難しい。厳しさだけでは、部下を傷付けてしまう。かといって、甘やかし過ぎてもいけない。個人的な好き嫌いがあったとしても、業務に関連する差別をしてはいけない。
何より大切なのは、部下を、仕事の駒として扱わないこと。人間として見なければならない。どんなに仕事が大変だとしても。
SVになった俺は、よく上司とぶつかるようになった。上司が、部下を、駒として見ていたから。ノルマをクリアするための駒。
そんな中、俺の部下の一人が、妊娠を報告してきた。当然ながら、出産前には産休に入るし、その後は育児休暇に入る。俺のチームから一人いなくなるわけだから、人員の補充が必要となる。
上司にその旨を報告したとき、彼は、準備すると言っていた。今から半年ほど前のことだ。
だが、部下の産休まで一ヶ月を切っても、上司はまったく行動を起こさなかった。
部下の産休まで二週間を切った頃、俺の堪忍袋の緒はプツリと切れた。
「人員不足でチームに負担がかかると、ミスが起こる可能性が高くなります。早急に対応してください」
俺の言葉に、上司は面倒そうな顔を見せた。
「ただの可能性だろ」
堪忍袋の緒どころか、他のものまで色々と切れた。
「俺のチームに負担かけて、ミスが起こる可能性を軽視したんだ。何かあったら責任とれよ」
部下を管理し、仕事を円滑に回すのが上司の仕事だ。その仕事を放棄した奴は、上司でも何でもない。敬語を使う必要もない。
麻由美と別れてから七年。真面目に仕事をしてきた。もちろん収入は上がった。社会的な信用を得られる立場にもなれたと思う。でも、その分だけ、負うべき責任も重くなる。ストレスが溜まることも多くなる。
クソみたいな上司にクソみたいなことを言われた日。たまたま、金曜日だった。
俺は一人で飲みに出た。適当な居酒屋に入って、最初に頼んだビールを一気飲みした。二杯目も一気に飲み干した。
空きっ腹にビールを流し込んだから、酔いが一気に回った。ストレスはどこへやら、気持ちが大きくなった。
スマホを取り出して、電話帳にある女に片っ端から電話を架けた。
麻由美と別れてから、三人の女と付き合った。しかし、いずれも一年と経たずに別れた。何か違和感があったんだ。そんな違和感も忘れて、三人に電話を架けた。
「今から俺と飲まない? 一人で飲むのも寂しくてさ」
当然のように断られた。
電話帳を見ていくと、麻由美の名前を見つけた。別れてから七年も経つのに、まだ残っていた。
酔って気が大きくなっているのに、麻由美に連絡するのは、少し躊躇った。躊躇いつつも、通話アイコンをタップした。
麻由美の電話番号は変わっていなかった。
「久し振り」
ありきたりな言葉を交わし合い、麻由美を誘った。返答は、OKだった。今近くにいるから、と。
誘ってから二十分ほどで、麻由美が居酒屋に来た。七年振りに会う彼女は、昔よりも大人っぽくなっていた。スーツを着ている。仕事帰りなのだろう。
別れてから七年間のことを伝え合った。彼女は結婚して、子供がいるらしい。今、子供は二歳。実家の両親が見てくれているという。
麻由美が結婚したことを聞いて、苦しくなった。別れてから七年も経っているのだから、結婚していても不思議じゃない。それでも、どこか苦しかった。
麻由美に仕事の愚痴を言いながら、俺は浴びるように酒を飲んだ。記憶がなくなるほど飲んだが、麻由美が、微笑ましそうに俺を見ていたのは覚えている。
「そっか。頑張ってるんだね。偉いね」
微笑ましそうで、でもどこか寂しそうな、麻由美の顔。
そのあたりで、俺の記憶はプッツリと切れて。
あ、でも。
居酒屋を出たところで、麻由美に言ったんだ。
「麻由美ぃ。帰りたくねぇよぉ。帰したくねぇよぉ」
自分が言ったことは覚えている。でも、それ以降はまったく記憶がない。とはいえ、ホテルにいるということは、そういうことなんだろう。
麻由美はニッコリと笑った。笑っているが、その表情の裏には、怒りも見えた。
「ずいぶん気持ち良さそうに寝てたね」
「……あ……うん」
どんな反応をすればいいか、分からない。
「まあ、気持ちいいよね。好きなだけ飲んで、私をホテルに連れ込んだと思ったら、部屋に入った途端に爆睡だもん」
「……は?」
ということは、俺は麻由美としていないのか。
「ねぇ? 分かるかな? これから抱かれるって気になって、一緒にホテルに入って。それなのに、連れ込んだ本人は、部屋に入った途端に爆睡して。一人で一晩中動画を見てた私の気持ち」
「いや……その……」
麻由美は既婚者だ。だから、抱かなかったということは、結果的にはいいことなのだろう。でも、女としての彼女を傷付けたことにもなる。
自分に対する情けなさなのか、それとも罪悪感か。もしくはその両方か。
なんとも形容しにくい気持ちを抱えながら、俺は口を開いた。
(続く)
最初のコメントを投稿しよう!