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兜の香
騎乗の人となり槍を握る木村長門守重成は迫りくる敵軍を前に騒然となる配下の兵の声など聞こえないように、静かに瞑目していた。
「和国一の美男」と称されたその完璧なまでに整った秀麗な顔貌は紙のように白く、妖しいまでに赤い唇は微かにふるえている。
間もなく無双と恐れられた強兵達が、井伊の赤備えと呼ばれる徳川最強の軍がやって来るのである。
最早死は決定づけられたと言って良い。
(いや、私は死ぬこと等恐れてはいない。合戦では見苦しい振る舞いをせぬよう、見事な討ち死を遂げ後世に名が残るよう幼き頃より励んできたのだ。全てはこの時の為にあったはずだ)
ならば何故、体のふるえが止まらないのか。 それは我が髪から漂って来る鼻孔をくすぐる伽羅の香りが故であろう。
「青柳……」
この香りは出陣前夜に妻の青柳が兜の内側に夫の好む名香を入念に焚き込んでくれたものである。
そして武装を整え、出陣の用意を済ませた重成に無言で兜を手渡す青柳の瞳に宿る清冽な光。
(そう、私は彼女のあの光に魅かれたのだ。あの美しく何者よりも強い光に……)
少年の頃より傑出した美貌と類まれなる気品の為、重成は大坂城内の多くの女性から騒がれ、心を寄せられた。
だが重成は彼女たちに応えることは一切しなかった。
何故ならば己は将来必ず起こるであろう豊臣家と徳川家との戦において、主君秀頼の馬前にて討ち死にするものだと覚悟が定まっていたからである。
(死の運命が定まっている己に女性を愛する資格などあるはずがあるまい)
しかしそんな重成を心を惹きつける女性がたった一人、現れてしまった。
それが絶世の美女と呼ばれていた青柳であった。
彼女が見せた重成に寄せた恋情は、他の女性とは明らかに違っていた。
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