この胸が震えたら

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 社会人二年目の春。  清葉が幽霊として傍にいてくれるようになってから、五年が経った頃だ。  今日は桜の美しさに胸を震わせて、清葉と花見デートしよう。  清葉に桜を見せたい。  そう思って並木道を歩いていた時。  風に飛ばされて、俺の足元に落ちてきた白い帽子を拾い、見上げた先に女性が立っていた。  清葉と同じ、長い黒髪を靡かせ、俺に微笑む。 「ありがとうございます」  彼女を見た瞬間、胸が大きく震えるのと共に清葉が現れた。  俺は何が起こったのかまだ理解できずに、呆然と清葉を見つめる。  清葉は少し寂しそうに、でも優しく微笑んだ。  まさか。  そんなことあり得ない。  俺が清葉以外の女性に胸を震わせるなんてことは。  駆け寄った女性に黙って帽子を手渡す。  同世代みたいだけど、少し大人びて見える凜とした人だった。 「桜、綺麗ですね」  柔らかな声に胸が弾む。  桜を見上げる横顔は、とても美しくて。  ハッと我に返り、俺は今来た道を走って戻った。 「ごめん清葉!」  どうしてだ。 「これは何かの間違いだ」  どうして俺は、彼女に胸を震わせた? 「違う」  俺が愛してるのは、 「違うんだ」  清葉だけなのに。 「ちょっと、落ち着いて。秀貴」  立ち止まり、息を整える。  追いかけて来てくれた清葉が、冷静な声で言った。 「どうして逃げたの。……チャンスだったのに」 「チャンスって?」 「秀貴が、恋をするチャンスだよ」 「何言ってんだよ!」  人目も憚らずに叫んだ。  俺が清葉以外の女性と恋に落ちるだって?  馬鹿げてる。  そんなこと、あってはならないんだ。 「聞いて、秀貴」  清葉は泣きそうな声で言った。 「あなたはそろそろ、私離れした方がいい」 「なんだよそれ……」    とてもじゃないけど受け入れられなかった。 「私、秀貴が死んだ目をして、心を空っぽにしながら生きてほしくなかった。だから神様に頼んで、少しだけ傍にいさせてもらったの。……だけどもう、大丈夫。今の秀貴は、ちゃんと胸を震わせられるから。私がいなくても」 「そんなこと言わないでくれよ」  清葉は清々しい顔で笑った。 「決めた。次にあの女の人に胸を震わせたら、私はもう、いなくなるね」 「ちょっと待ってくれ! 清葉!」 「じゃあ、またね」 「清葉!」  清葉は笑顔で手を振り、俺の前から消えていった。
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