この胸が震えたら

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 それからというもの、会社と自宅の往復以外は、極力外出を避けた。  もちろん、あの女性に出会わない為だ。  清葉を失いたくない。  いつまでも俺の傍に寄り添って、一緒に生きてほしい。  胸を震わす時には、いつだって彼女に見守っていてほしいんだ。  それなのに、清葉が俺の前に姿を現すことはなくなった。  不安にかられて、何をするにも胸を震わすことができなくなってしまったから。  美しいものを見ても、美味いものを食べても、素晴らしい芸術に触れても。  俺の胸はちっとも震えないし、清葉にも会えない。  再び、喪失感に喘ぐ日々が続いた。  ……清葉はどうしてあんなことを言ったのか。  俺が他の女性を愛してもいいのか。  清葉はもう、俺のことを愛していないのか。  考えれば考えるほど、彼女のことがわからない。  ただ、会いたくて堪らなかった。  今の俺からしたら随分と幼くなってしまった、制服の彼女に。 「桜、綺麗ですね」  だけど、麗らかな風のように柔らかく微笑む人のことも、どうしても頭から離れない。  雄という自分の本能に、つくづく嫌になる毎日だった。  そして、うだるような暑い夏。  ティーシャツに短パンで、サンダルの足音を響かせながら近くの河原までやってきた。  まだ蝉が鳴いている。  シャワーを浴びたばかりの肌に、夜風が気持ち良かった。  やがてとっぷりと日が暮れ、かわりに空を彩った鮮やかな花火。  大きな轟き音と共に飛び散る光の放物線を、黙って見上げていた。  次の花火は、きっと俺の胸を震わす。  どうか、清葉と会えますように。  そう思って、願をかけた瞬間。   ひらりと俺の足元に落ちてきた、白い帽子。 「あ、すみません」  柔らかく心地の良い声が耳をくすぐって、凍ったように動けなくなった。 「あれ……前にも拾ってくれた……」  俺に近づく、長い黒髪の美しい人。 「待ってくれ……」  震えるな。俺の胸。 「よかった。実は私、もう一度あなたに会いたかったんです」  お願いだから。  震えないでくれ。  大輪の花火が上がるのと同時に胸が大きく高鳴り、清葉が俺の隣に現れた。 「違う……違うよ」  涙で清葉の姿が歪む。  自分の愚かさを悔やんでも遅かった。  どうして震えた。  どうしてこの女性に出会うと、胸が震えてしまうんだ。  清葉は涙を流しながら、俺に目いっぱいの笑みを浮かべた。 「秀貴、今まで私を大事にしてくれて、愛してくれてありがとう」  嫌だ。嫌だ。 「もう、充分だよ」  頼むから。 「新しい恋をして。幸せになってね」  俺の前からいなくならないで。 「嫌だ。嫌だよ清葉、俺は……」 「秀貴」  清葉は、今まで一度も見せたことのないような哀しい顔で言った。 「秀貴、……私、そろそろ天国に帰りたい」  彼女のその言葉で、やっと自分の馬鹿さ加減に気づいた。  俺は自分の感情だけで、ずっと清葉を縛りつけていたのか。 「清葉……ごめん」  きっと辛かっただろう。  もう生身の人間として暮らせないこの世に現れるのは。  ……俺が不甲斐ないせいで。 「ごめん……ごめんなぁ……」  泣きながら彼女に手を伸ばしても、二度と届くことはない。  清葉は優しく笑って首を振る。 「ありがとう! 清葉!」  最後に声を振り絞り、叫ぶように彼女の名前を呼び続ける。  消えていく清葉の残像をいつまでも見つめ、花火の音と共に情けなく泣きじゃくった。 「清葉……清葉ぁ……」  そんな俺を、女性は訝しがったりしなかった。 「大丈夫ですか?」  そっと差し出されたハンカチに、涙が止まらない。  最後まで、俺はだめな男だった。  清葉を困らせるばかりで、清葉の為になることは一つもできなくて。   「花火、綺麗ですね」  泣きながら見上げた夜空は、二人で見たアクションペインティングみたいだ。  散らばる光の絵の具が、俺の心をかき乱す。  何度だって、清葉と共に震わせてきたこの胸は。  もう一度、誰かを愛することができるんだろうか。 「……よかったら、涙のわけを話してくれませんか?」    清葉が空から俺のことを見ているような気がして、慌ててハンカチで涙を拭う。  ……もう、心配かけられないから。 「……秀貴です」 「絵里子です」  俺は彼女に、清葉との奇跡の全てを話し始めた。
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