2-1 目の前の分岐点

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2-1 目の前の分岐点

 11月23日、土曜日。午前6時。  今日は勤労感謝の日だ。黒崎も会社が休みだし用事もない。久しぶりにウィンドウショッピングに出かけて楽しもうと話し合った。お昼ご飯も外で食べようと話した。  今、庭の畑でトマトを収穫している。今朝のサラダに使うためだ。11月の終わりに近づいて、日の出が遅くなった。東の空が僅かに白くなってきた程度だ。 「ネギはまだだね~。明後日ぐらいかな?」  よいしょっと。立ち上がり、寒さ除けのカバーをかけた。そして、テラスのそばにある水場へ行き、トマトを手早く洗った。まだ水は冷たくない。そう思ったのは束の間で、ぶるっと身体が震えた。するとその時だ。テラス窓が開いた。アンが尻尾を振っている。黒崎が顔を出した。どうしたのだろう? 「どうしたんだよ?」 「……ここに居たのか」 「ここにしか居ないじゃん。心配症だねえ……」 「寒いだろう。昼間にしろ」 「愛されてるね。朝どれのトマトが好きなんだよ」 「早く入れ。風邪を引く」  愛されている、その言葉をスルーされた。グイっと腕を掴まれてリビングの中に引っ張り込まれた。玄関から入ろうと思ったのに。  キッチンへ行こうとすると、喉が渇いたと言い出した。お茶か珈琲を淹れてくれということか?99%の正解だろう。しかし、1%の望みをかけて質問してみた。優しい嘘が欲しいからだ。 「黒崎さん。俺のことを探してたのって、何か飲みたいから?」 「そうだ。温かいものが飲みたい」 「はああ?」 「俺がやると後片付けが面倒なんだろう?」 「そうだけどさ~っ。物は言いようだろ?嘘でもいいから優しく言えよ~」 「嘘をつきたくない」 「世の中には『優しい嘘』っていうのが存在するんだよ~」 「どこかの女たらしのセリフだな」  黒崎が肩を揺らして笑い出した。この人は嘘をつかないし、そもそも嫌っている。正直にストレートなことを口にする。外では和らげていても家の中では素のままだ。 「それって、あんたのことだよね?いた!ひゃめひぇ~なにするんだひょ~」  頬をつねられてしまった。ジタバタともがいても離してくれない。まるでスッポンのようだ。 「どの口が言っているんだ?」 「この口だよ~っ」  口の悪さと唇の厚さなら負けない。威嚇するように口を尖らせてやった。さらに手が伸ばされたから、一歩下がった。さらに進んできたから下がった。それを繰り返しているうちに、冷蔵庫へ追い詰められた。背中にはひんやりした感触がある。 「なんだよ~、向こうへいけよ」 「鏡を見ろ。感情を全身で表現しているぞ」 「ふふん。喜怒哀楽が分かりづらい人には……、そう見えるんだよ」 「このやろう」 「わあ~っ、新聞でも読んでいろよ~、悪いことしてないじゃん」 「お仕置きだ」  後ろから羽交い締めにされた。両足が宙に浮いたから、両手で冷蔵庫にすがりついた。ソファーに行けば、くすぐりの刑に遭ってしまう。 「オッサン、お茶を飲めよ。淹れるから~」 「誤魔化されないぞ。ん?」 「どうしたの?」 「テレビでやっている。バンドのことだ」 「なになに?」  テレビの前に行った。情報番組が流れていて、自分たちのステージの様子が映し出された。テロップには”夢に向かって”と出ていた。  チャンネル表示は、ライスシャワーMAXだった。音楽専門チャンネルで、ミュージシャンをゲストにしたトーク番組だ。ベテルギウスのベーシストの布川さんが司会役であり、佐久弥がゲストで出ている。その中の話題に取り上げられたのか。 「佐久弥、普段通りだねえ」 「ああ。ステージに上がると印象が変わる」 「豹変するよね……」  すると、映像が切り替わり、悠人に抱きついて泣いている自分が映った。デビューステージ直後のものだ。あれから3週間しか経っていないのに、もっと前のことのようだ。
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