皇太子宮に雪が降る

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 皇帝に突然求婚され、無理矢理故郷から離されて、一生を後宮で過ごすこととなる。  これらの物語は手を換え品を換え、可哀想な妃と女遊びの激しい皇帝の物語として語り継がれ、ときには劇として踊り継がれてきていた。  しかし、本当に稀にだが例外は存在する。  皇太子宮。  皇太子が住まう城の庭を、先日嫁いだばかりの秋英は眺めていた。  息を吐けば白く濁り、喉から奥が凍りそうなほどに冷たい。火鉢は部屋の温度を下げないようあちこちに配置されてはいるものの、それでも庭を眺めれば見ているだけで体が凍てつきそうだった。 「秋英、これが雪だよ」 「初めて見ました、殿下」  秋英に声をかけたのは、本日の業務を終えてきたばかりの皇太子の春羽であった。  ふたりで庭を眺める。庭木はすっかり雪で埋まり、本来ならば色鮮やかな木々が伸びているにもかかわらず、今は白一色だ。  春羽にお茶を用意しながら、秋英は眺めた。 「本当に積もるものだったんですね。私、雪はころころ降ってきて、当たると痛いものだとばかり思いました」 「雪は真綿のように軽くて、雪が降りはじめた翌日は積もるものだとばかり思っていた。不思議なもんだね」 「そうですね」  ふたりは温かなお茶を飲みながら、寄り添い合っていた。  初恋同士の夫婦であり、その営みは穏やかなものであった。こういうのは後宮でも稀の話である。 ****  秋英は元々、豪商の娘であった。  そうは言っても、本人はその自覚もなく、お転婆に庭をあちこち走り回っている娘であった。  彼女の故郷は四季の変化が穏やかで、そのせいか都の豪商や貴族が別荘をあちこちに建てて、夏と冬の間ここで過ごすことが多かった。  彼女の地方の料理も四季の穏やかさを現したような素朴な料理であり、風の噂でここで別荘を建てた豪商が売れると判断して彼女の故郷の料理を売りはじめたらしい。一度食べてみたいものだと、そう思っていたとき。 「秋英、今度来るお客様はお前と同い年だから、相手をしてあげなさい」  唐突に父が、別荘にやってくる人の面倒を見ろと言い出したのだ。  父は商売の片手間で、故郷に別荘を探している都の人々を相手取り、別荘の斡旋業もはじめていた。遣り手の父の見つけてくる別荘は評判もよく、今度やってくる人もまた、父の噂を聞きつけた人なのだろうと、そう思っていた。  その日やってきた人は、ずいぶんと物々しい行列でやってきた。  故郷の人々は怪訝に思ったものの、都の貴族や豪商と付き合っても、都は遠過ぎるし、父のように別荘の斡旋でもしてない限りはあまり旨味がない。結局は皆、遠巻きにしていたのだ。  物々しい馬車から降りてきたのは、秋英とほとんど年の変わらない少年であった。利発そうな瞳、結んだ口。  父は秋英に「殿下だ」と紹介された。  それにはさすがに秋英もぎょっとした。  父に引き合わされたのは、この国の皇太子、春羽だったのだから。  春羽は秋英が普段遊ぶ相手とは明らかに違った。  体が弱くて、あまり走り回れないのだ。その替わり花や植物が好きで、筆と紙を持ってきては、驚くほど精密な絵を描く。  初めて見たときは、秋英は感激して声を上げた。 「すてき! あなた将来画家になれるわ」 「……なれたらよかったなあ」  春羽は困った顔をして言うので、秋英は驚いた。 「僕は将来、皇帝にならないといけないから。そのために、弱いからだをいっしょうけんめい強くして、病気も治さないといけないから」 「でも、からだが弱いとダメなの?」 「ダメなんだ。体が弱いと、すぐにたおれてしまうから。たおれてしまう弱い皇帝はダメだって母上が言ってた」  それはすごく悲しいことのように秋英は思えた。  なによりも、彼の母はここにはいないのだ。 「あなたのお母様は?」 「母上は後宮から出られないから、ここに来たのはぼくとめんどうを見てくれる人たちだけ」 「さびしくないの?」 「そういうものだから」 「でも……」  秋英は春羽の瞳を見ていて、なんだかとても悲しくなってしまった。  自分がなにを憐れまれているのか、本気でわかっていない顔なのだ。わからないことは、悲しいことに秋英は思えた。 「家族は看病するものではないの?」 「……そうなのかな。母上は、後宮から出てはダメで、年に一度しか外に出られないから」 「それ、やっぱり変だわ」 「そうなのかな」 「そうよ」  春羽は困った顔のまま、秋英に尋ねた。 「ねえ、もしきみは、ぼくが都に来てって行ったら、来てくれる?」  その言葉に、今度は秋英が困った顔をした。 「私、ここから外に出たことないわ。都がどんなところか知らないのよ?」 「きれいなところだと思うよ。ここみたいに、夏はおだやかで冬はゆるやかな場所ではないかもしれないけれど」 「そうなの?」  それには少しだけ秋英は興味を持った。  春羽は淡々と教えてくれた。 「夏は暑くて、汗ばんで水を飲まないと人がぱたぱた倒れるんだ。暑いから水浴びしないといけないし、水浴びできないときはからいものやすっぱいものを食べて、汗をかいて涼しくなるんだ」 「そんなの初めて聞いたわ……冬は?」 「冬は雪が降り積もるから、とても寒いよ。この辺りはどう? 雪は降る?」  それに秋英はぽかんとした。  秋英にとって、雪はときどき降るものであり、積もるものではなかったのだ。 「雪なんて、降っても積もらないけれど」 「そっかあ。いいなあ。都ではね、雪は一度降ったら、春まで溶けないんだ。毎日降るから、溶けても溶けてもすぐに固まってしまう」 「すごい……」  秋英は目をキラキラとさせて春羽を見た。  春羽が都に帰ってからも、秋英との文通は続いた。彼から贈られてくるのは、都の様子や彼が見た景色の絵。季節の花の絵。そして彼は雪の日も写生して送ってきてくれたのだ。  秋英はその絵をずっと見つめていた。  雪の降る日は大抵寒いのは知っているが、一面雪で覆われた場所はどうなのか、彼女では想像もつかなかった。  穏やかな地元での生活は平和で穏やかで、春羽の教えてくれた季節の激しさは想像もつかないが。そのたびに体の弱い彼は大丈夫だろうかと心配になる。  文のやり取りの中、滋養によくて日持ちのする干し棗や冬虫夏草を一緒に贈り、彼の体調と無事を祈っている中。  気付けば秋英も年頃の娘になっていた。  豪商であり、別荘にやってきた人々から求婚の話も出てくるようになったが、彼女は頑なに断っていた。  彼は皇太子であり、いずれは国の頂点に立つ。自分のことなんてその内忘れるだろうとは、年頃になった秋英にもいい加減気付いていたが。  それでも不思議なことに文通は未だに途切れることがなかったのだ。  そんな中、途切れることのなかった文に、とんでもないことが書いてあるのに、秋英は目を見開いた。 【一緒に雪を見に行きましょう】  長年文通をしていなかったら、旅行の誘いにしか読み取れなかっただろうが、秋英はずっと春羽と文のやり取りをしていたのだから、そんな簡単なことではないとすぐにわかる。  都に来い。  これは求婚の文だった。 **** 「なんと! 娘が皇太子に求婚!」  当然ながら周りは大騒ぎになっていた。  そもそも文通の際、きちんと秋英の父にも娶りたい旨の連絡と贈り物を贈っていたのだ。豪商にとっては子も財産であり、投資物だ。それを取ると言っているのだから、事前に連絡するのは当然であった。  秋英は宴をしている家を抜け出して、庭を見ていた。 「あなたは浮かれないんですね」  その声に、秋英は驚いて顔を上げた。  記憶にあった声は、もっと鼻にかかった甲高い声だったが、今聞いた声は低くて夜にひっそりと溶け込みそうな声だった。  あのときは丸みを帯びていた頬の肉は削げ落ち、精悍な顔立ちになっていた。身長は秋英と大差なかったはずだが、今や頭ひとつ分離れてしまっている。 「……殿下?」 「迎えに参りました……嫌でしたか?」 「私で本当によろしいんですか? もっとお姫様とか、こう、いろいろと……」  彼女はあわあわとしながらそう尋ねると、春羽は彼女の長い髪をひと房手に取り、唇を落とした。 「……あなたがいいと、ずっと根回ししておりました。誰にも文句は言わせません」 「……はい」  一緒に雪を見よう。  それはただの幼い頃に見た夢だと思っていた。  身分が違う。住む世界が違う。きっとどちらかだけを選ぶことなんてできないだろうと思っていたが、彼は彼女の憂いを全て取り払ってくれた。  後宮において、初恋が叶うというのは稀である。  雪が降り積もるように、恋が降り積もり、雪解けの季節に春が来た。  そんな奇跡がここにはあった。 <了>
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