賭けに負けた彼が、付き合おうと言ってきた

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※※  騎士達の憩いの場である食堂。  食欲をそそる匂いと喧騒の中、掲示板に張られた紙の前で同期のシェラとアーディオは揃って腕を組んだ。 「『次回から、カードゲームに金、および換金可能な物を賭けるのを禁止する by騎士団長』だって。何したの?」 「いや、何もしてないって。っていうか、賭け事が一番好きなのは団長だっていうのに」  シェラは洗いざらしの銀色の髪をかき上げながら、ルビーのように赤い瞳をアーディオに向ける。女性にしては背が高いとはいえ、百九十センチのアーディオを見るにはどうしても見上げる格好になってしまう。  むっと唇を尖らせながら、アーディオは茶色の短髪を掻きむしった。黒曜石のような瞳は、まだ未練たらしく掲示板を見ているが、もちろん張り紙の文字が変わることはない。  サーディオット国の男性騎士の中でポーカーが流行り出したのは一年前。この国では賭け事が禁止されていて、つい最近も闇カジノを摘発したばかり。  しかし、組織的なものはともかく、仲間内で少額を賭ける程度は暗黙の了解として処罰されることはない。騎士団でもそれは同じで、昼飯代からはじまり入手困難な観劇チケットなど、最近は高価な物も対象になっていた。  どうやらそれがいけなかったらしい。 「ちょっと羽目を外しすぎたかな」 「一応、私達取り締まる側だしね」  呆れ顔のままシェラは掲示板の上の時計を見る。  時刻は九時。就寝まであと一時間だ。 「じゃ、私はもういくわ。あっ、そういえばアーディオ、訓練が終わったあと可愛い女の子から手紙を貰ってなかった?」 「この前のトーナメントで団長に勝って優勝したからな。最近はもてもて、選びたい放題さ」 「それは良かったわね。せいぜいいい子を探してね」 「……」  友人としての感情しか入っていないシェラの言葉に、アーディオは僅かに落胆の表情を浮かべるも、すぐにいつものようにカラリと笑った。 「お前もな」 「私はいいの。結婚に興味なんてないもの」 「……好きな奴もいないのか?」 「そんな感情、未だかつて持ったことないわ」  はは、と笑うとひらひら手を振りシェラは女子寮へと繋がる廊下へと向かう。  その時は、ただの張り紙が人生を変えるなんて思いもしなかった。    ▲▲▲▲ 「で、どうしてあんな張り紙を作った団長まで参加するんですか?」  夕食後、男子寮の談話室の一角で始まったポーカーの一席に、当然といった顔で着いた団長に問い掛ければ、これまた当然とばかりの答えが返ってきた。 「俺は金銭的な賭けを禁じただけで、ポーカーを禁じてはいない」  ガハハと笑う団長は、腕っ節はよいが何かとお騒がせな男だ。  ほお、と俺は目を細め団長を見るも、そんな視線に気づくことはない。  一つ年下のザークが、これ以上言っても仕方ないと諦めたのかカードを配り始めた。もちろん四人分だ。  配られたカードは悪くもなく良くもなく。  しかし、俺には奥の手がある。数日前に闇カジノで捕まえた奴から教わった、いろいろギリギリな奥の手だ。あれを試すには丁度よい。  そう、ほくそ笑んでいると、ザークがとんでもないことを言い出した。 「団長。やっぱり何も賭けないのは面白くないですよ。あの張り紙、言い換えれば、金、換金できるもの以外なら何を賭けてもいいんですよね」 「ああ、そうだ。酒の一杯ぐらいまでなら目を瞑ってやる」  おいおい、身内に甘くないか、と思わなくもないが、それには賛成だ。健全なポーカーなんてむしろ不健康じゃないか。 「だったらこういうのはどうですか? 負けた奴は女性騎士にキスをする」  にやにやと笑うザークに思わず声を荒げてしまう。 「そんな風紀を乱すようなこと、団長が許すはずないだろう!!」  そうですよね、と団長に同意を求めると、なんだか面白そうな顔をしているじゃないか。おい、ちょっと待て。 「そう頭ごなしに否定するな、面白いじゃないか。口説いてもよし、拝み倒してもよし、土下座してもよし。ただし騎士道に反することは禁止、これでいこう」 「それなら、相手は誰にしましょう?」  普段は大人しい先輩のカイムまで話に乗ってきた。俺以外に止める奴はいないのか。 「どうせなら、難攻不落な女の方が面白いな。この前のトーナメントで三位になったシェラなんてどうだ。女性騎士の中では一番の腕っ節の強さに加え、男前な性格だから頼み込めば頷いてくれるかも知れない」 「……冗談ですよね?」    俺が真顔で凄むと、団長は肩を竦め「何をそんなに熱くなっている」とのたまう。  思わず本音を言いかけるも、こいつらに知られたくなくてうぐっと呑み込んだ。 「強引なことをしないというなら、断られたとしても仕方ありませんよね」 「いや、それは面白くないだろう。そうだな、その時はペナルティを設けよう。ちょうどここに北方騎士団の副団長から届いた手紙がある。秋から春までの半年間一人応援に寄越せと書いてあった。賭けを達成できなければそこに行ってもらおう」  一見真っ白な封筒は、隅に同色で花の絵が描かれそこだけ立体的になっていた。なんだ、あの熊みたいな男は普段こんな可愛い封筒を使っていたのか。しかし、中に書かれていた内容は全く可愛くない。  真夏の今ならともかく、冬は氷点下が続く極寒の地だ。  しかも最悪なことに、飄々ととんでもないことを言い出した団長に、他の二人ものっかりだした。  待て待て、お前達の脳は筋肉で出来ているのか。どう考えてもそんな賭けおかしいだろう。  しかし、カードは配られている。  こうなってしまっては席を立つのは許されない、それが俺達のルールだ。  こうやって  俺の意志とは関係なくゲームはどんどん進んで行った。  ※※  次の日、シェラは憂鬱な顔で食事を口に運んでいる。  昨晩、食堂から女子寮へ戻ろうとしたところ、偶然出会った団長に書類の束を渡され、就寝時間までに纏めるよう頼まれた。ついでに男子寮に入る許可証も貰い、一時間で仕事を終え持って行くと、思わぬ事を聞いてしまったのだ。 「……まだお金を賭けた方が可愛らしいってものよ」  沸々と怒りが湧いてくる。ブスッとした顔でパンを齧りながら、それでも対象が自分であって良かったと思う。 (他の女性騎士が賭けの対象になることを思えば私で良かったわ。頼みにきた奴を徹底的に打ちのめしてやる)  アーディオと騎士団長が相手なら、少々苦戦を強いられるが、やってやろうじゃないかと拳を握る。  そのせいか、今日の練習は気合いが入った。いつも以上の気迫に周りの皆が引くほどだ。  真夏の激しい練習に汗びっしょりになったシェラは、水瓶から柄杓で水を掬い頭からそれをドバドバと浴びる。同じように水を浴びている騎士はいるも全員男。女でこんなことをするのはシェラぐらいだ。  勢いよく顔を上げると、頭の上で括った銀色の髪が弧を描きながら水滴を空へと散らす。次いでばさり、と髪を解き、木にかけていたタオルで雑に拭く。その姿にボーッと見惚れる騎士達を押し退け、一際大きな体格の男がシェラへと近づいてきた。 「おい、ちょっといいか」 「えっ、どうしたの、アーディオ。怖い顔をして」 「シャツまで濡れているだろう。上着を羽織れ」  木の下に投げ捨てていたシェラの上着を押し付けるように渡すと、そのまま手を引いて女子寮の方へと連れて行く。自然、男の姿は減っていった。 「ここまで来ればいいか」 「急にどうしたっていうの?」 「それはこっちの台詞だ。無頓着にもほどがあるだろう」  はぁ、と大きくため息を吐くアーディオを、シェラは意味が分からないとばかりに見上げる。アーディオはルビーのような瞳に見つめられ、ちょっと気まずそうに視線を逸らす。  そして、奇妙な間のあと、  少し緊張した声を出した。 「ちょっと話があるんだ。少し良いか」 「……」  その一言だけでシェラは全てを理解した。 (なるほど、賭けで負けたのはアーディオだったのね)  冷めた視線を送れば、ボリボリと頭を掻き明後日の方を見るアーディオがいる。心なしか耳が赤い。 「……分かったわ。でも、着替えてきてもいいかしら?」 「あ、あぁ。もちろんだ。では夕食後に倉庫裏へ来てくれ」  なんともそれらしい場所だな、と思いながらシェラは頷いた。  頷きながら考える。  髪から滴る雫を拭きながら、二階の自室へと向かう階段を登りながら、考えた。 (もし私が断れば、アーディオが北方騎士団に行ってしまう)     さっきまでは、ガツンと言ってやろうと思っていた。叩きのめしてやろうと思っていた。でも、実際にアーディオを目の前にしたら、なんだか胸がぎゅっと痛くなった。どうしたんだろう。 (私の判断ひとつで、アーディオは不本意な配置換えをされてしまう。この痛みはきっとその罪悪感からくるものだわ)  そう結論づけ、罪悪感とキス、二つを天秤にかけて、はたと気づく。 「よく考えれば、唇と唇をちょっとくっつけるだけでしょう?」  言葉に出せば、ますます大したことのないように思えてきた。単なる粘膜の瞬間的接触。それなら同僚のよしみ、人助けとしてやっても良いのではないだろうか。 (一年前の異民族の侵入の際に、私を助けてくれたのはアーディオだった)  突然取り囲まれ、深手を負っていたシェラはここまでかと覚悟した。でも、遠くから蹄の音が響き、怒声と共にシェラの前に立ち塞がる敵を薙ぎ倒したのは、他ならぬアーディオ。命の恩人だ。    シェラの年は婚期をとうにすぎた二十五歳。婚約者もいなければ恋人もいない。結婚に興味はないし仕事が好きだからそれはいいけれど、人生に一度ぐらいキスしてもいいかも知れない。何事も経験だというし。    お互い助け合うのが騎士道だ。今こそ借りを返す時。シェラは正々堂々とアーディオの願いを受け入れることを決心した。  それなのに。  ことは思わぬ方へ進んで行った。  月明かりだけが頼りの倉庫の裏で、シェラは目の前のアーディオを見上げながらポカンと口を開ける。  決してキスを待っている訳では無い。 「えーと、言っている意味が分からないんだけど」  そう聞けば、アーディオは恥ずかしそうにこめかみを掻き、しかし再び表情を引き締めた。 「シェラ、ずっと好きだった。俺と付き合ってくれ」  繰り返された飾りっ気のないシンプルな言葉は潔く、真っ直ぐに見つめる瞳には熱が篭っている。  てっきり、「ちょっとだけキスさせてくれ」と頭を下げてくると思っていたシェラは軽くパニックだ。 (何故? 何がどうなった?)  愛おしそうに自分を見つめるアーディオを、目をパチクリとして見返す。  キリッとしたキメ顔をしてこいつは何を言っているのかと頭は「?」で一杯だ。 「だ、駄目だろうか……」  あまりの反応のなさに、アーディオのいかつい肩がしょぼんと萎れる。目の錯覚だろうか、頭の上の耳も垂れた気がした。 「あ、いや。そんなことは。ちょっと急でびっくりしただけで」 「まあ、そうだよな。すまない、突然言い出して」  シェラはやっと復活してきた思考を駆使して、状況把握に努めることにする。 (アーディオはこう見えて真面目だから、付き合わなければキスしてはいけないと思っているのかも)  皆がサボっている厩舎の掃除だって手を抜かない、そういう奴だったと思い出す。それなら、シェラの答えはひとつだ。 「分かった、いいわ」 「やっぱり時間が必要だよな……っていいのか!?」 「ええ」 「でも、俺のこと、その、好きではないだろう」  片手で顔下半分を押さえているが、指の隙間から緩んだ口元が見えている。どうやら本当に喜んでいるようだ。やっぱり北方騎士団に行くのは嫌なのだろうと、納得した。 「確かに好きではないけれど、人としては好感を持っている」  だからキスぐらいできるぞ、と続けた声はアーディオの歓喜の声に吹き飛んだ。 「そ、そうか!! 俺はそういう真っ直ぐな物言いをするシェラが好きだ! 無論今はそれで構わない」  改めて言われ、シェラの心臓はトクンと跳ねた。そうなんだ、と思わず信じそうになり、いやいや、これはキスへ繋がる前座のようなものだと思い直す。それなのに、心臓のドキドキは速まるばかりだ。どうした、いったい。 「ではこれから宜しく頼む」 「ふ、不束者ですがこちらこそ……?」  勢いよく出された手に戸惑いながら、握手を交わす。 (何、この握手は、健全すぎない?)  いい年して恋愛経験がないからよく分からないけれど、恋とはもっと甘美なものではないだろうか。でも、心底嬉しそうなアーディオの顔を見れば何も言えず、シェラはこくこくと頷く。 「俺は夜警当番だからそろそろ行く。じゃあな」 「うん、気をつけて」  シェラがいつもの口調で言うと、アーディオは甘く微笑み、すっと視線を落とすと繋いでいた手を掬い上げ、甲に柔らかな口づけを落とした。 「な、なっっ」  にこりと照れ笑いをひとつ残して立ち去るアーディオ。 「えっ、ええっっ? ……キスって唇でなくても良かったの?」  訳が分からず手の甲を見るシェラ。  これで賭けは達成されたのか、それならあの告白は何なのか。混乱のままトボトボと寮へ戻った。     次の日からシェラの身の回りで変化が起きた。  どこで何を聞きつけたのか、数少ない女性騎士からは「やっぱりそうなったのね」「側で見てて焦れったかったわ」と言われ、もみくちゃにされた。全く以て意味が分からない。  男性騎士から向けられる視線は……アーディオが壁になって塞ぐから見えないが「賭けはまだ終わっていない」という小さな声だけはハッキリと聞こえた。 (やっぱり手の甲は無効だったのね)  それもそうか、頑張れアーディオと心の中で応援する。命を救ってくれた恩人のためなら多少の接触は受け入れる覚悟だ。どんとこい。  ただ、困ったことが起きた。  アーディオがやたら甘やかしてくるのだ。  訓練が終わる少し前、シェラはバランスを崩し軽く足を捻ってしまった。ちょっとした捻挫、それなのにアーディオが飛んできて足元にかがみ込んだ。 「大丈夫か?」 「もちろん。私、騎士よ。こんなの怪我のうちには……って、どうしたの!?」  言い終わらぬ間にアーディオはシェラをひょいと抱き上げた。しかも横抱き、いわゆるお姫様抱っこである。 「ちょ、ちょっと降ろしてよ」 「駄目だ」 「皆が見ているわ」 「恋人が怪我をしたんだ、抱き上げるのは当たり前だろう。団長! 医務室に行って来ます」 「分かった、そのまま帰っていいぞ!!」  遠くで団長が軽いノリで手を振っている。  これぐらい平気だと降りようとするも、すでにアーディオは歩き出してしまった。    医務室は訓練場のすぐそばにある。片足引きずりながらも行けるその距離をアーディオは颯爽と走り抜け、バンと大きな音を鳴らしながら扉を開けた。 「失礼する……って誰もいないのか」 「そういえば今日はお爺ちゃん医師の当番だわ。あの人終業時刻前に帰っちゃうものね」  なんでも日が暮れると眠くなるらしい。年寄りだから仕方ないかと皆諦めている。  そんなだから薬や包帯はいつも勝手に使っていて、どこに何があるかも把握済みだ。  シェラが降りようと手足を動かせば、アーディオは視線を巡らせ、ちょっと戸惑いつつベッドの上に降ろした。真下から見上げるような姿勢になり、目が合った途端アーディオはハッと目線を逸らし薬棚へと向かう。  シェラは上体を起こし、ベッドに腰掛けた。  流れる空気がなんだかぎこちない。  包帯、湿布を持って戻ってくると、アーディオはベッド脇にしゃがみ、立てた膝にシェラの足を乗せた。 「ちょ、ちょっと。何しているの」 「手当だ」  ブーツの紐を解き、靴の踵を持って脱がせると、現れた素足に優しく触れる。骨張った指に触れられ、シェラの肩がびくりと跳ねた。  腫れている個所を確認し湿布を貼り、手慣れた手つきで包帯を巻いていく。  シュルシュルと自分の足に巻かれる白い布を見ているうちに、シェラはなんだか居た堪れなくなってきた。 (いつキスさせてほしいって言ってくるのだろう)  期限まであとどれだけ余裕があるのだろうか。   実にじれったい。  今か今、と待つのは性に合わないのだ。  だから一層のこと、思い切って聞いてみることにした。  ▲▲▲▲ 「あ、あの。アーディオ」  思い詰めた表情で俺を見下ろすシェラに首を傾げつつ先を促せば、らしからぬ様子でぼそぼそと呟く。 「私達、付き合ってるのよね。その、だったら、なんというか」 「そのつもりだ。でも、シェラが焦ることはない。俺が思うのと同じ分だけを返して欲しいとは思っていない、いや、いつかそうなって欲しいと思ってはいるけれど、急ぐ必要はない」  賭けに負けたのはわざとだ。  シェラのことだ、事情を説明されれば同情してキスぐらい、と妙な男気を出しかねない。だから、闇賭博で捕まえたやつから聞いた必勝法と逆のことをした。つまり、負けたのは意図的だ。  とはいえ、拝み倒して好きな女と口づけするなんて、そんなことはしたくない。  こうなったら駄目もとで付き合ってくれと言ってみることにした。  今までは仲の良い関係が壊れるのが怖くて言い出せなかったが、もし断られたとしても賭けのことを話せば笑い話で終わるだろうとの算段もあってのこと。  男らしくないことは自覚している。  すると返ってきた答えはまさかの承諾。もちろんシェラが恋愛感情を持っていないことは理解しているが、それはこれから頑張ればよいと思っている。  賭けにわざと負けたのは、他の奴とシェラがキスをするのが嫌だったからで、北方騎士団に半年行くことに特に異論はない。俺は高い山の山頂付近で育ったから寒さに強い。  だからそんなことより、念願叶って付き合えた今は、シェラの気持ちを優先したい。無理強いしたくない。  半年間会えないのは寂しいが、会えない時間が愛を深めると、以前北方副団長が言っていたしな。 「……余裕はまだあるの?」  きゅっとシーツを握りしめながら、思いつめた表情でシェラが聞いてきた。何のことだと思いながら、隣に腰掛ける。 「余裕? それはどういう意味だ?」 「だって、あまりにも何もしないから……」  言いにくそうに語尾を弱めながら、まっすぐにこっちを見つめる視線にボッと顔が赤くなる。  少し薄暗くなった医務室、ベッドの上には俺達ふたりだけ。えっ、待て。これはもしかして誘われているのか?  いやいや、シェラが俺に対して持っている気持ちは友情のはず。しかし、この状況。天使と悪魔が囁く中、いつの間にか俺の手は伸び、シェラを抱きしめていた。  細い肩がびくりと跳ね、その初心な反応に理性が復活した。 「余裕はないがシェラが気にすることではない」 「そんな、気にするわよ。本当にいいの?」  どうしてそんなに必死になっているのか分からないし、正直余裕なんてない。シェラの気持ちを優先させると決めているが、触れたくない、わけがない。現にちょっと気を抜いただけで抱きしめてしまっている。  俺は精一杯の理性を総動員して身体を離し、でもこれぐらいはいいだろうと銀色の髪を一束掬いそこに口付けした。 「今はこれで充分だ」 「……えっ、そうなの?」  もちろんそんな訳ないが、ここは強がりで紳士らしく頷く。 「髪の毛でもいいってこと?」 「うん?」  小さなつぶやきは訓練終了の鐘の音で俺の耳には届かなかった。ただ不思議そうに髪を触る仕草と、瞬きする赤い瞳が愛おしく、ちょっと惜しいことしたな、と思ったのは仕方ないだろう。 ※※  アーディオと付き合ってふた月が経った。  キスは、手の甲でも髪でも、頬でも首でもだめなようでシェラ達はまだ付き合っている。  そんなにあちこちに口付けするなら、さっさと唇にすればいいのにと思うのに、なぜかしてこない。  そして、甘い言葉を囁かれるたび、触れられるたび、シェラの鼓動は速くなってしまう。  恋人同士の距離間に戸惑い、慣れ、いつの間にかもっと一緒にいたいと思うようになっていた。  別れたあと、口づけされた場所に触れれば熱を持ったように熱く、胸がぎゅっと締め付けられる。  これはいったい何なんだ。  自分の変化に戸惑いつつも、日々は過ぎていく。  今日も朝から町の見回りをし、午後からは剣の訓練だ。  その訓練の休憩中、柄杓で水を飲んでいると背後からカイムとザークの話し声が聞こえてきた。 「おい、北方騎士団の副団長が来たって話を知っているか?」 「ああ、北の情勢を報告しに来たらしいが、今までは手紙でやりとりしていたのに今回に限って登城するなんてどうしたんだろうな」  二人の会話にシェラはスッと背中が冷たくなる。 (もしかして、このままアーディオを北へ連れて帰る気かも)  やっぱり時間の余裕なんてなかったんじゃない、と腹立し気に手にしていた柄杓を置くと、カイム達に詰め寄る。 「ねぇ、今アーディオはどこにいるの?」 「あぁ。そういえばさっき団長に呼ばれていたな」 「それなら団長は今どこに?」 「うん? どこだろう。北方副団長が来ているから一緒かも知れないな。とすると執務室か」  訓練場の端にある建物をカイムが目で差すと同時にシェラは走り出した。 (この二か月、何やってたのよ!)  真夏の日差しは弱まり、朝夕は涼しい風が吹き始めた。間違いない、きっとアーディオを連れて帰る気だ。  焦燥に足がもつれそうになるのを堪え、シェラは全速力で走り、ノックもせずにバン、と執務室の扉を開けた。 「おっ、シェラじゃないか。どうしたんだ血相を変えて」  驚き目を丸くした団長の隣には、三十歳過ぎの茶色い髪の男がいた。以前見た時は髪がぼさぼさで、髭が顔半分を隠していたけれど、今は短く整えられ髭はない。だから一瞬誰か分からなかったが、左手の甲から腕にかけての傷と熊のような体格を見て北方副団長だと判断した。 (意外と整った顔をしていたのね……って今はそれどころではないわ)  シェラはそのままツカツカとアーディオまで詰め寄ると、仁王立ちで見下ろした。 「どういうこと?」 「何がだ? っていうかそれは俺が聞きたい、どうしてシェラがここに……」  言い終わらない内に、シェラの手がアーディオの胸ぐらをつかみ引き寄せる。そして。  身を屈めると、座っている男に唇を押し付けた。  むにゅっと思ったより柔らかな感触は、余韻すら残さないぐらい一瞬のことだった。  顔を離したシェラは、真っ赤な顔で、棒立ちで、拳をぎゅっと握りながらアーディオを睨みつける。 「賭けに負けたんでしょう? だったらさっさとキスしなさいよ。じゃなきゃ北方騎士団に加わらなきゃいけないんでしょう?」 「どうしてそのことを知っているんだ」 「だって聞いたもの。ポーカーに負けた人が私にキスするって。出来なければ半年間北方騎士団に加わらせるって。だから、だから……」  とうとう唇を噛んで下を向いてしまったシェラに、団長が声を掛ける。 「アーディオが北に行くのは嫌か」 「嫌です」 「どうしてだ」  そう聞かれシェラは戸惑った。確かに初めはアーディオへの同情だったけれど、今は違う。 「半年も離れたくないからです」  その言葉にはじけたようにアーディオが立ち上がる。シェラは自分より頭一つ以上、上にある漆黒の瞳を睨みながら詰め寄った。 「どうしてキスさせてくれって頼んでこなかったの? 付き合って欲しいなんて遠回りしすぎだわ」 「それは、キスだけで終わらせたくなかったからだ。きちんとシェラと付き合いたかった。恋人になってからは、シェラの気持ちを大事にしたくなった。俺は寒いのは平気だから半年ぐらい北方騎士団に行っても大丈夫だし、離れるのは寂しいけれど、その間もお互いの気持ちを温めていけばよいと思ったから」  今度はシェラが戸惑う番だった。言われた言葉を反芻し、自分なりに理解し、確認するかのように恐る恐る尋ねる。 「では、私のことが好きだってことは本当だったの」 「……そうか、そこからか。本当だよ。愛している。だから、俺が北方騎士団に行くのが嫌だと言ってくれたことが心底嬉しい」  アーディオはすっと近づくと耳元で小さく「キスしてくれたことも」と囁いた。  途端首まで真っ赤になるシェラ。  アーディオがそっと腕を伸ばし引き寄せた……時だった。    執務室の扉が内側にばたりと倒れ、聞き耳を立てていた大勢の騎士が部屋になだれ込んできた。 「何これ……」 「何だ、これは」  二人の悲鳴は、それを上回る喧騒によってかき消された。      騒然となった執務室に、パンパンと手を叩く音が響く。 「さあ、賭けの整理をしよう。シェラからキスをするに賭けたやつ。賭け金を取りに来い!!」  団長の声にはい、はい、と数人の騎士の手が上がる。  いったいどういうことだと目を丸くしているシェラ達の前でコインが飛び交い始めた。 「あ、あの。団長。これはいったい」  シェラが戸惑いがちに聞けば、団長はコインを数えながら答える。 「ああ、実は二か月前、宰相から『騎士団のカードゲームによる賭け事が目に余る』と説教をされてな、であの張り紙を作ったわけだ」  どこまで話は遡るんだと思いつつ、シェラは、団長が手にしている賭けた人物と金額が書かれた紙を指差す。 「でも、今、お金のやり取りをしていますよね」 「張り紙の文言を覚えているか?『次回から、カードゲームに金、および換金可能な物を賭けるのを禁止する』だ。カードゲーム以外の金銭が絡んだ賭けは禁止していない。ゆえにお前達のどっちからキスをするか賭けても問題ない」  なんだそれ。  うはうはと喜びながら自分の取り分をポケットにしまう団長の後頭部に、シェラが振り下ろそうとした拳はかろうじてアーディオによって止められた。 「離して、一発殴らならないと気が済まないわ。私が、私がどんな思いで……」 「それは俺も同じ気持ちだが、まずはっきりさせておきたいことがある」  アーディオは団長を強引に立たせると、青筋立てながらしかし冷静に聞いた。 「まず、俺に闇賭博犯の尋問を指示したのは団長でしたよね。あいつ、俺にポーカーで勝つコツをペラペラ話してきたんです」 「ああ、俺が話すように頼んだんだよ。で、お前をポーカーに誘い、シェラのキスを賭ければ絶対わざと負けると思った」  悪びれず話す団長に、アーディオのこめかみが引き攣る。  そこからこの賭けが始まっていたのなら、と今度はシェラが問いかけた。 「もしかして私に賭けの内容を立ち聞きさせたのも」 「計画のうちだ」 「今、私がここにいるのも」 「カイムとザークにわざと聞こえるようと話をさせた。もちろん話の内容を考えたのも俺だ」  ガハハと笑う団長の後ろから「団長、トーナメントでアーディオに負けたこと、相当根に持っているな」と囁きが聞こえてきた。  まさか、全ての始まりはそこだったのか。  アーディオが北方副団長に疑いの眼差しを向けた。 「団長と北方副団長は同期で仲が良いと聞いています。まさか、ぐるだったのですか?」 「いや、ちょっと待て。俺は何も知らない」 「では、北方騎士団に半年加わるという話は?」 「はぁ? そんな話なんてないぞ。何のことだ?」 「二か月前、団長が貴方から届いた封筒を私に見せそう言いました」 「二か月前……もしかして結婚式の招待状か? 婚約者が選んだ白地に花の模様が入った封筒ではなかったか」 「そうです……って結婚式?」  この言葉にはその場にいた全員が目を見開いた。  北方のヒグマと恐れられた男が結婚?   「そうだ。明日式を挙げるので、今日は陛下に挨拶に来たんだ。出席者は親しい者だけ。髪と髭は婚約者に整えるように言われ切ったんだがどうだろうか」 「……お似合いです」  ヒグマでもこんな蕩けた顔をするのだと、皆が驚くほどのデレップリだ。 「ま、何があったか知らんが……いや、大体想像はつくな。どうやら俺の招待状も登城も賭けに利用されたようだ。しかし、結果、拗らせていた恋が実ったんだ。終わりよければすべてよしだろう。もっともお前が北方騎士団に来るというなら歓迎する。以前も言ったが会えない時間が愛を深めることだってあるからな」  ハハハと馬鹿笑いする顔はどこか団長と似ている。  仲が良いと脳筋まで似てくるのだろうか。  シェラが眉間を押さえ頭を整理する。 「ということは……」 「全ては俺の計算通り。そしておめでとう、お二人さん」  団長が高笑いをしたところで、鳩尾にアーディオからの重い一発が入った。無礼講だ、これぐらいは許されて然るべきである。    喧騒を押しのけ執務室を出たところで、アーディオはシェラに頭を下げた。 「すまん、俺のせいで嫌な思いをさせた。嫌われても仕方ないと思っている」 「……アーディオのせいじゃないわ。それに、……嫌ってない」  ぶすっとした表情は照れているから。今更ながら自分からキスしたことが恥ずかしくなってきたのだ。 「あとで全員殴っておく」 「それなら今度は総当たりにしましょう。徹底的にぶちのめしてやる……」  ぐっと拳を握るシェラの唇がふわりと塞がられた。  それは、さっきとは違い一瞬では離れてくれない。   角度を変え何度も何度も繰り返され、息が絶え絶えになったところでやっと解放された。 「ちょ、アーディオ」  夕暮れの空の下、アーディオは少し照れくさそうにシェラを見て、愛おしそうに頬に触れた。 「俺達の意志とは関係なく進んだ賭けだったが、真の勝者は俺だな」  訓練の終わりを知らせる鐘が鳴る中、アーディオは戦利品にもう一度キスをした。  
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