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「じゃあ真田くんから始めて。しりとりのりからで」
隆介はふと起き上がり、そんなことを言った。六月も終盤に差し掛かり、夏も近づいている。この日、彼らは近くにある競馬場で大敗北を期し、多摩川にある河川敷で慰め合っていた。
しかし、隣で寝転がっていた真田くんは、「ところで、去年の暮れあたりにあった、韓国での事故のこと覚えてるか」といきなり呟いた。
「は?」隆介は口をあんぐりと開けた。このときの真田くんは、どうやらしりとりなどする気になれなかったらしい。
「いや。ハロウィンの時期に梨泰院って地域で、百人以上が圧死するっていう事故があっただろ」
「あー、うん。あった。狭い道に人がごった返して、先頭のいくらかの人が倒れてしまったから、後ろからドミノみたいにたて続けに倒れたっていう」と隆介は説明する。
「そう、それだ。悲しい事故だったよな」
「まあそうだね。二度と起きてほしくない事故だと思うけど」と隆介は返事を待った。のだが、真田くんは話を続けることなく、夕焼け空を見上げた。
どうやらそれで話は終わりらしい。隆介も彼に倣って空を眺めることにした。雲一つない綺麗なオレンジ色で、カラスの鳴き声がよく響く、気持ちのいい夕方だった。
真田くんの名前は真田幸広といい、有名な俳優の名前を入れ替えたような名前をしている。都内にある某私立大学に通っている大学三年生で、隆介と同じ法学部の学生である。茶色掛かった地毛の短髪に筋肉質な見た目をしている。背丈も比較より少し高いようで、平均身長に近い隆介よりも五センチほど大きい。なぜだかいつも、熊の顔が刺繍されたTシャツを着ている。それがイラスト調の熊なら可愛げがあるが、リアル調な熊なので、少し気味が悪いところがある。とても目に付きやすい男である。
隆介はある日、なぜそんな目立つ服を着ているのか聞いてみたことがある。
すると真田くんは得意げな顔で、「誰かが俺に用事があるとき、通り掛かった人に『熊の服を着た人を見ませんでしたか』と尋ねれば、『熊の服の奴ならあっちにいたよ』とすぐに答えられるだろ。嫌でも目に付くから、印象に残りやすいんだ。俺は、そうした忠犬ハチ公みたいなトレードマークになりたい」と答えた。彼は少し変わった男である。なお、いまでこそTシャツを着ているが、秋から冬に掛けては熊の刺繍が入ったセーターに衣替えをする。彼は寒い時期でも徹底して熊になろうとしていた。むしろ冬場だからこそ、熊が活発になるのかもしれない
それから一、二分ほどがたち、隆介はすることがなくなったからと、川べりをランニングしながら息を切らしている中年の男を眺めていた。すると、真田くんはふたたび口を開いた。
「話は変わるけど、Netflixで梨泰院クラスっていうドラマがあったよな」
真田くんという人間は、昔からいい加減な性格をしていて、ときどき突拍子のないことを言い出すきらいがあった。友人の文也から言わせれば、当初はこんな性格ではなかったというが、隆介にはまるで信じられなかった。
そんな隆介という男は、濱口隆介という、映画監督にいそうな人物である。背丈は真田くんよりほんの少し小さくて、文也よりは一周り大きい。黒い髪にマッシュヘアという、いかにも若者らしい見た目をした男である。
隆介が真田くんと知り合ったのは、大学に入学してからのため、まだ二年と少しの付き合いである。彼の変人さには未だ慣れないところや、未知のところもあった。しかし最近では、真田くんを昔から知っている鈴村音々や、彼の恋人である百瀬日葵のお陰もあって、彼がどのような人格をしているのかは飲み込めるようになっていた。特に日葵は真田くんへの対処法について「幸広はああいう人間だよ」と教えてくれていた。
そんな一言では物足りないというか、助けとしては乏しいだろう。しかし隆介は、真田くんとどうでもいい話をしていくうちに、徐々にだが性格もわかるようになっていた。真田くんはこういう人間なんだ。真田くんはこういう人間だから、いちいち取り合うだけ無駄だ。隆介は時間の経過とともに真田くんについて学んでいたため、このときも無視をすることが最善だとわかっていた。
しかしこの時の隆介は、話に付き合うことにした。暇だったからだ。
「あったなあ。おれは見てないからわからないけど、結構面白いみたいで、評判も良かったらしい。日本でもかなり話題になっていたようだし」
「うん、まぁ俺も見てないから深くは語れないけど、日本でも六本木クラスっていうタイトルで、民放がリメイクしてたな。そっちも俺は見てないんだが」
「そうか」
ふたたび沈黙が訪れた。
結局のところ、彼が何を言いたいのかはわからなかった。隆介はふたたび正面に向き直り、コンクリートブロックにつまずいて転がっている中年の男を心配していた。そのとき、隣で真田くんが、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して、ゆっくり起き上がった。「文也から電話だ」
「あ」隆介はその名前を聞いて、彼の存在をこれまですっかり忘れていたことに気が付いた。
文也というのは今井文也という、隆介と同じ法学部三年の男である。同学年ではあるが、隆介たちより二つ年上で、真田くんとは同じ中学校出身かつ同じ部活に所属していた。容姿としてはあまり特筆すべきところはない。強いて書くなら、小柄な坊主頭だ。
隆介に言わせれば、「文也は読めない性格をしているから、おれ自身未だにわからないところも多い」という。つまり、文也という人間は難ありである。
そしてこの日の前夜、隆介は文也から競馬について連絡するよう言われていた。それを今日、怒涛の時間によってすっかり記憶から抹消していた。
「もしもし俺だけど」と真田くんは名乗る。「おっと、スピーカーモードにしないと」と慌てて隆介にもマイクを寄せた。「隣に隆介もいるよ」
隆介もマイクに向けて声を発する。「おれもいるよ」
「お前らどこいるの?」文也の第一声は不満そうな声だった。忘れられていたことに怒っているのだ。
「多摩川の河川敷だな」真田くんは答え、
「そこにある草の上で寝転がってるよ」と隆介は付け足した。
文也は大きくため息をついた。「何やってんだ」電話越しではあるけれど、スピーカーからはとても大きな息の音が響いた。
「まあいいじゃんか別に」と隆介は返した。「ところで文也は何やってんの?」
「僕? 僕はいま、六法全書の真ん中のページを開いて、顔を埋めてるところだった」
「なんか汚いな」真田くんは悪態をついた。
「そんなことない。鼻が真ん中の凹みに収まるから、ちょうどいいんだ。真田くんも試してみるといい」と文也は説明し、話を戻す。「そんな話はどうでもいいから、お前らはどうしたのかを教えてくれや」
二人は尋ねられて、大きなため息をついた。
「疲れて寝てるんだ」と隆介は答えて、「絶望してるんだよ」と真田くんが続けた。
真田くんは加えて「俺らはもう駄目かもしれない」と頭を抱えた。彼のトレードマークである熊の刺繍は、心なしか哀しそうにしている。
「駄目なのは主に真田くんだけどな」隆介は真田くんの肩を突いた。
「何が起きたのかはよくわからんけど」文也は疑問を呈す。「結局のところどうなったのよ。競馬に行ったんだろ?」
隆介は煮え切らない言い方で、「行ったんだけどね」と答えた。
時は遡り前の日の夜。真田くんは隆介と文也たち三人と組んでいるグループ宛に、あるメッセージを送ってきた。それは「金に飢えているんだ」という無茶な文言だった。
隆介および文也は当然のように「働け」とか「ハイレバに突っ込め」などの茶々を入れると、真田くんの方から突然、競馬の話題が挙がった。他の二人は「最近そういえばイクイなんちゃらが強いらしい」とか「イクイノックスは当たる」などと、無駄な横やりを入れた。調子に乗った真田くんは、何の根拠もないのに「俺はなんだか、運がいい気がするんだ」と自信を持ち始め、悪ノリした文也が「今週の真田くんの運勢は大吉だよ」と囃し立てた。
その結果、真田くんは二人を誘って、「明日は競馬に行こう」と誘い始めた。隆介は断る旨を送ると、「君らの知恵が必要なんだ」と返してきた。隆介の明日の予定は、選択科目の講義しかなかった。それは真田くんも同じで、二人はほとんど同じ科目を履修していた。真田くんは隆介の予定を把握していたこともあって、承諾せざるをえない状況にまで追い詰めてきた。「俺の命を助けてくれ」
隆介はしぶしぶ「はいはい」と送ってしまった。
その後三人で翌日の予定を立てていると、文也がいきなり「僕そういえばおみくじで凶引いたんだ」と言い始めた。隆介は勘弁してほしかったが、文也は「明日は外せない講義があるから行けない」と加えて逃げ出してしまった。
結局、隆介は真田くんと二人で行くことになってしまった。だからこうして電話を通して説明をする流れになっている。
「おれはやっちまったんだ」真田くんは頭を抱えた。
「こいつやりやがったんだ」隆介は重ねる。
「いくら?」
真田くんはゆっくりと息を吐き、はっきりと聞こえるように答えた。「二〇万だ」
「正確には一九万円な」隆介は補足した。
「あー、うん。それは痛いな」文也はそう言ったが、なんだか薄い反応だった。「働き人ならもう少し感じ方も違うのかもしれないけど、大学生の身としてはなかなかのダメージだな」
しかし二人は声を揃えて「違うんだ」と即座に答えた。隆介が加える。「これは文也の思っているような問題じゃない」
真田くんが続ける。「これが自分たちの財布から出した金ならまだ諦めもつくってもんだ。ただ俺が調子に乗りすぎて自滅した形になるから、いわば自業自得と言える。でも、この金は違う。出処が問題なんだ」
「は?」乾いた声がスピーカーから響いた。「盗んできたってこと?」
「いや違う」真田くんは即答した。
隆介は「いや当たらずとも遠からずでしょ」と訂正した。真田くんは予想外の追撃に驚いたのか、隆介のことを睨みつけた。
「早く教えろよ」文也は苛立ちを隠さず言った。
するといきなり真田くんは「くわぁ」と河童のように呻きだした。隆介はわけがわからず戸惑ったが、彼は喉元を両手でかきむしって苦しみだした。「苦しい苦しいよー」と感情のこもっていない下手な演技を始め、「俺の口からはとてもじゃないが言えない。代わりに答えてくれ」と唐突に話を振った。隆介はあまりの無責任さに張り倒したい気持ちになったが、ここではどうすることもできない。
「あ、あぁ」
仕方なく隆介は一連の出来事を振り返ることにした。
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