ウクライナの夜

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 目次 サヨコの場合   るるこの場合  ターニャの場合   サヨコの場合    そらの場合   るるこの場合   サヨコの場合   るるこの場合   ターニャの場合     るるこの場合   サヨコの場合    ターニャの場合   そらの場合 サヨコの場合 そらの場合 ターニャの場合 そらの場合 るるこの場合 そらの場合 サヨコの場合  一、  二階のそらの部屋からは、まだ、椅子をキイキイと動かす音が聞こえている。  「今何時だと思ってるのよ?」 そんな言葉は、もう、お互いの間には全く意味をなさない外国語の様にしか響かなくなってしまった。全てそうだ。   夫が猫撫で声で、話かける。  「どうだ、気分がよければ、少し一緒に買い物にでも、行かないか?」  こんな言葉も、ウクライナとロシアの大統領が、他国から演説しながら、投げかける言葉のようだ。言葉としては、通じているのかもしれない。でも、通じていないのだ。お互いの目指す方向、意図する事。全てが噛み合っていない。言葉を交わすほど、交渉は決裂し、事態は悪化の一途をたどり、ご近所や、親戚縁者からは、当然の如く武器の供与も資金援助も、食糧支援さえも得られない。  集まって来るのは、既にもう、好奇や憐れみの目でさえもなく、無関心さでしかない。    しかし、そうは言っても、こちらの国内の情勢も深刻な事態なのである。いわば、総理大臣と、官房長官が、国会会館の廊下ですれ違っても全く挨拶さえもしないような事態に陥っているのである。  いつから、こんなことになってしまったんだろう。なぜ、こんなことになってしまったんだろう。  「生まれてこなきゃよかったんだよ。」  「なんで産んだんだ!」  「お前らが、勝手に気持ちいいことして、子供作っただけだろうがよぅ!」 そんなことを言われたくて、子供を持ったんじゃない。反論すれば、壁に穴が開く。  新築の家の壁の石膏ボードは、中学生が本気で拳を叩き込めば、簡単に穴が開く。  石膏ボードに空いた穴の向こうには、無限の闇が広がっている。どこか知らない世界に繋がっているが、こちらからは闇しか見えない。恐ろしい。怖い。  そらの心の中も、こんな風になっているのだろうか…。私からは、そう見える。  心の闇。そんな言葉が、陳腐にさえ聞こえる。  闇なんて、ただの空洞だ。  物理的に言えば、光がないだけ。  そらが小さい頃は、いろんなことを教えてあげた。 「光にはスピードがあるんだよ。一秒間に地球を七周半もするんだよ。」  そんな情報は、彼にとっては、本当に面白くも、有り難くもない、つまらない情報だったのだろう。母親として、身の回りのこと以上に、色々な知識を授けてあげなければいけないと思っていた。自分もそう育ったのだし。  余計なことを言いすぎたのだろうか?世話を焼きすぎたのだろうか?  わからない。  わからない事だらけ。壁に暗黒の空間を作りたいのは、こっちなのに。  「なんで、産んだ⁉︎」  じゃあ、殺してあげる。駅のホームから突き落としてあげようか?流行りのタワーマンションの方がお洒落かしら?ナイフ?首?心中がいいかもしれない。だって、もう我慢できないもの。  本当に我慢できない。  「ご飯よ」  と、声をかけることさえできないなんて。  そりゃ、年頃の男の子は、昔は「飯、風呂、金。」しか、言わなくなるのよ。と、言われていたのは聞いたことがある。でも、そんな時代じゃないし。男の子だって、たまには一緒ににご飯を作ったりなんていう、ほのぼの育児漫画日記みたいなことはできると思ってた。  ママ友に相談しろって?そんな簡単な話じゃない。ママ友なんて、誰もいないもの。いないんじゃないのかもしれない。話したくない。 「私立のどこそこ高校に合格したの。」そんな報告なんか、聞けるわけない。  子供がスポーツ大会で優勝した。  書道大会で、マラソン大会で、スピーチ大会で…。  そんなこと、そらとは比較しないつもりでも、本当に知りたくない。鼓膜が裂ける。脳みそにヒビが入る。  カウンセリングの時の、ネクタイはしていなかったが、体に合ったジャケットを着た本当に全身から優しさが滲み出ている男性が言った。  「その子自身の、親御さんから見て、ダメだなと思うところも含めて、認めてあげましょう。」 その時は、何か心に沁みたように感じた言葉だった。でも、結局今になって思い返すと、 何を言っていたのかわからない。  叫びながら、玄関から走り出したい。闇も怖いけれど、こんな空気の澱んだところには、もうこれ以上居たくない。どこかの知らない闇に向かって走り出して、闇に飲み込まれて、二度と帰ってこれなくなればいいのに。  ギイギイ、ガタンガタン、バタン。ドンドン。そして正気とは思えないような、笑い声。本当は、この笑い声が、一番怖い。  わざとやってるの?  そらの部屋の扉をこじ開けて、叫びたいに決まってる。  「お願い。静かにして頂戴!」  通院するべきは、そらの方じゃない、と、思いながら自分が通院しているメンタルクリニックから処方されている不眠時頓服薬をを、コーヒーで、胃の奥に流し込む。あ、なんで、眠れないのにコーヒーで飲んでるんだろう。  寝付けないのも辛いけど、どうせ眠れたとしても時計が深夜ちょうどを少し過ぎた頃に目が覚めてしまう。  でも、少しでも眠らないと、外の闇と、壁の穴の向こうの闇が押し寄せてくる。  二、  「朝ごはんできたわよ。起きなさい。」  そらの部屋のドアの前で声を掛ける。  過去の様々な経験を思い出すと、恐ろしくて部屋に入ることができない。でも、そんなことをしていると、また夫に怒鳴られてしまう。 「お前がそんな風だから、こんなことになってるんじゃないか。お前は、一人じゃ何にもできないんだな。」 何を言っているんだろう。一人で何もできないのはあなたじゃない。あなたが、そらを直接起こしたことも、食事を作ったこともないじゃない。どうしていけしゃあしゃあとそんなことが言えるのだろう。 「俺は疲れてる。」 「俺は仕事をしてるんだ。」 「俺は稼いできているんだ。」 だめ。それ以上言わないで。私だって、私こそ疲れてる。私だって、働いている。私の稼ぎはいらないと言うのなら、私はそらにつきっきりでいればいいの?  そらの相談のために、一体幾ら使ったと思っているんだろう。こんなことにならなければ、私だって、幾つも仕事を掛け持ちしたりすることなんかったじゃない!そのうち、先祖の供養が…なんて人が現れた時には、まるでストーカーみたいに付き纏われて、今度は家族三人とも家から外に出られなくなるし。  確かに、こんな状態、呪われている以外には考えられない。なんの呪いなのよ。もう地面から頭を出してしまった筍食べた祖先の呪いでもあったのかしら。そんな呪いなんて、豆腐の角に足の小指をぶつけるぐらいでチャラじゃない。そもそも、筍といえばキノコと戦って入ればいいのにしゃしゃり出てさ。でも、そんな呪い、あるのかしら…。  一回のお祓いだか供養だかなんだか、最初は無料でできるんですよって、それだってこっちは「いえいえ、結構です。」って、遠回しに嫌がってたのに。なんだか、古いなんの由緒もないような普通の借家。いや、あれは普通以下だったわね。今時汲み取り式のトイレ、それも違う、便所だわ。そんな借家なんて、逆にどうやって探したら見つかるのか、謎を通り越してるわよ。無理やり連れて行かれて、なんなら、拐われて行ったようなものじゃない。白いハイエースで乗り付けてきて。ああ言う輩を、半グレって言うんじゃないかしらね。  全く、結局どういう人たちだったのかは、よくわからないけど、危うく天国に家が建つところだったわよ。  もちろん、おまじないだって、少しぐらい、「なんだか怪しいわねぇ。」「ちょっとお高いのね。」と思ったって、効けばまだいいわよね。                   はじめのうちのそらは、朝になると、お腹が痛い、頭が痛い。だるいだの、吐き気がするだの…。そりゃ、そう言うことはあるって聞いてた。何年生の壁だの、ギャング世代がなんだとか…。それが、おまじないだ、なんだかんだと連れ回しているうちに、殆ど口も利かなくなった。  やっと口を開けば「なんで産んだ!」「生まれてこなければこんな事にならなかたのが分からないのかよぉ。」って。本当にこっちにも耐え難い言葉だった。  そしてイチバン効いたのは、「死にたい…。」だった。  こんなに追い詰めて、無理やり学校へ行かせて教室に荷物のように投げ込んで、放り込んで。お互い馬鹿野郎、と心の中で罵り合って、もしそのまま学校から生きて帰ったこなかったらどうしよう…。  それまでは、そんなことを考えたことはなかった。でも、その時は、本当に背筋にすうっと、冷たい風が吹き込んできた。  もういいよ。  頑張った。多分。十分頑張った。  生きる術を学ぶはずの学校へ行って、二度と帰ってこなくても、誰も責任は取ってくれない。 るるこの場合 一、  「おはよぉ。おはよぉ。」 「始まるよん。るるこだよ。まあ、朝ってか、夜中だけどね。」 「ありがとう!すけさん。」 「待っててくれましたね。」 「ねーねー。今朝、みんなのスマホ鳴った?」  「例の怖い空襲警報みたなの。起こされちゃったよね。しかもさぁ、揺れなかったよねぇ。」 インターネット配信の中堅配信者の『るるこ』である。本人は自分の顔を晒さず、アバターと呼ばれるアニメのキャラクターのような、オリジナルのイラストに自身を置き換え、自身の顔は見せずに、声のみで話す。  アバターは、時に左右に首を傾げたり、眉をひそめたり、瞬きをしたり。配信者の顔の動きをとらえてアニメのキャラクターのように動くため、サムネイルと呼ばれる動かないタイトルとイラストのみの、いわゆるラジオ配信より格段に人気がある。  そして、これこそが時代では、と、思われるのが、リスナー。リスナーすなわち視聴者は、十代、二十代ばかりではない。若い頃からネットに親しんできた世代なのか、あるいは、若い世代と同じように最近になって、スマートフォンでネットに触れるようになり、物珍しさと寂しさからネットに居場所を求めているのか。答えは容易には出ない問いではあるだろうが、リスナーたちの声を聞いていれば、案外、寂しさから、スマホに手を伸ばす後者のリスナーが多いように見受けられる。  さて、この配信というシステムの人気の特徴は、基本的に配信者はマイクとカメラに向かって一人で喋っている、独り言を言っているような状態なのだが、同時に、それを聞いている視聴者は、その場でスマホやパソコンを通し、リアルタイムで配信者に向けて、質問をしたり、合いの手を文字や絵文字で送れるという点である。また、配信システムによっては、視聴者と配信者が直接、テレビ電話のように、会話をすることができるものもある。配信を専業にしているものとなれば、一度の配信で、何千、何万もの視聴者を集めるのであるから、配信者に名前を呼ばれ、コメントを読み上げられるとなれば、要するにアイドルと話せるようなものである。  もちろん、中には、アバターに頼らず、自身の顔を晒して話すものもいる。だが、部屋に作り付けてあるキッチンや水廻りの造作で部屋を特定され、頼んでもいない宅配ピザを何枚も送りつけて来られたり、ひどい時は、直接建物の外で配信者の行動を見張る輩がいる場合もおり、女性の場合などは、細心の注意を払い顔を晒すことを避ける配信者も多い。  配信の歴史は、ここ二十年にも満たないといったところだろうか。その頃から、常にトップを走るものもいれば、ほんの数回や、数ヶ月程度で離脱していく配信者もいる。  そうやって、何千人ものリスナーと深夜放送の逢いに行ける、その場で話せるアイドルよろしく、毎日配信をする配信者は、残念ながら一部のものである。大多数の配信者は十人にも満たないリスナーと、昭和のアマチュア無線や電話感覚で話すだけのものも多い。  そもそも、仕事をしながら、片手間に配信をするものが多い様子だったのだが、最近では、配信者に対して投げ銭を有料でコメントと共に送ることもできるため、配信業を専業で行うものも中には現れている。  るるこは、そんなほぼ専業で配信をしている人気配信者の一人である。                                                   少し掠れたハスキーボイス。年齢不詳な広範囲の話題。他の配信者と違う、おっとりとした語り口。真面目な表情の声色で繰り出すユーモア。  まるで、滝のように流れるコメント。  るるこは、とぼけた様子で話しているが、選ぶコメントから、確実に、ほぼ全てのコメントに目を通している様子が伝わってくる。 久しぶりにコメントをするリスナーがいれば見逃さない。  「お久しぶりだね。そらくん。仲よくしてくださいね。」 丁寧に声を掛ける。  二、  「今日は、前回のリア凸のお話し、しようか?」  コメントが流れる。  「りあとつって、なに?」  「ごめんね、ごめんごめん。わかんない言葉使っちゃった。リアルで凸る。リアルで突撃。って感じかな。 この前池袋にいった時、どこどこにいるよーって、配信したら、みんなきてくれたよね。」 しかし、るるこは先程ご紹介した通り、動く二次元アイドルのはず。誰が顔を知っているのだろうか?  「え?るるこ着ぐるみ?」 そんなコメントが流れるのは当然である。しかし流石である。軽妙に答える。  「そうだよ、いつものままだから、すぐわかるよ。」  るるこはいつも、リア凸の時は、そういう。見ればわかる。そらは、見ればわかるがわからなかった。  だから、見に行ってみた。  アバターは、青緑色のボブカット。そもそもそんな髪の色はカツラか染めてあるはずだ。一番の特徴は髪の色なんだから、そんな髪の色なら、かなり遠くからでも分かるだろう。      ターニャの場合    一  ところで、ロシアの庶民の間では、意外かもしれないが、日本という国は、そこそこ人気がある。有名どころのアニメや漫画は、ほとんど翻訳本が出版されている。  ターニャは、ロシア語に翻訳された、ある日本の漫画とアニメを見てから、すっかり日本ファンになっていた配信者だ。  日本語の学習は、初めロシア語で読んでいた漫画の日本語版をインンターネットでなんとか探し出して読んだり。或いはまた、自学自習用の学習書をネットの友達と学習し合い、ほぼ独学で学んだ。ネットの普及している今だから、聞く、話す練習も出来てしまうのが、いいところ。もちろん、翻訳機といったものはあるのだが、自分で読み書きしてみたいとおもうのは、人の性なのであろうか?  そしてターニャは、とあるインターネットの国際交流サイトで、日本語と英語、ロシア語の話者の番組を持っていた。ターニャはるること違って、顔出し配信。アバターを使わない、かおを晒すタイプの配信をしている。    「プリビア!」  「カクデュラ?」  「ハラショー!」  「みんな、ハラショー?」  「ハロー!」  「やっほー」  挨拶は、三カ国語が入り混じる。  それでも、ターニャは、できる範囲で日本語を使う。  「え?私がなにじんかって?」「ロシア人」  「今日ね、来るんだよ。本棚さん。本がね 日本語でしょ、英語でしょ、ロシア語でしょ?いっぱいでしょ?入らないでしょ?」 流暢な日本語は、聞いているだけでは、日本人が少々ふざけて話しているように聞こえる程度で、異国の地で、我流で学んだ日本語とは思えない程だ。  「今日は、お待ちかね。凸待ちしまーす。悩み事、ターニャに聞きたいこと、なんでも凸待ち。」 凸待ちでは、リスナーが、配信で一緒に配信者と話す。  「ターニャはロシア人だから、今日は、ロシアのことも話すよ。おっけー。」    「んんん?その話は、今度にしよう。言えない質問おおいなぁ…。言えないわけじゃないけど、話すのにもっといい日があると思うよ。」  「じゃあ、ロシアのクリスマスのお話するね。ロシアのクリスマスって実はいち月七日って、知ってた?」  「え?正月からの、クリスマスなんだよ。だから、クリスチャンの少ない、日本のクリスマスのこと聞いた時は、びっくりしたよ。クリスチャンじゃなくてもクリスマスお祝いするんだって?お祝いと言っても、教会へは行かないだってね。 デパートのクリスマスの飾りはとっても綺麗なんですってね。でも、そのクリスマスの飾りも、その日の夜に、全部お正月の飾りに変えちゃうんですってね。」  時々、リスナーのコメントを拾いながら、他愛のない話を広げていくターニャ。配信者は、こうして、リスナーのコメントを上手く使って、話を広げていく。ロシアの正月、氷点下の雪原の中で打ち上げれるお祝いの花火。  家族で開けるシャンパン。洗いたての糊の効いた特別の日用のテーブルクロス。クロスを広げたテーブルの上に載せられた、お正月、クリスマスの特別料理。  ターニャの話は、目の前に映像が浮かぶようだ。  二、  「さて、ロシアの話もいいけど、凸待ち待ってるよ。」 その時、タイミングよく、着信音が鳴る。  「はーい!ターニャのお悩み相談解決凸待ちだよ!」 若い男性の声。むしろ少年の声と言っても良いだろう。  「どうしました?そうだんかな?なんでも言ってみて?」  少年は、緊張のあまり大きな声が出せないと言った様子だ。声も、少し震えているかもしれない。  かいつまむと、親子関係と学校へ行けないことへの相談のようだった。  「それはさ、学校って、別に行かなくてもいいんじゃないの?困るかもしれないし、行かなくて正解って思うかも知れないのは、結局自分じゃん。」  「勉強は、した方がいいよ。でも、せっかくだから、学校に行ってたらできない勉強した方がいいんじゃん。」  「なんだろ、動物園行って、ずっと同じ動物観察してとかさ、学校いってたら、できないじゃん。」「それから、そのあと図書館行くじゃん、で、その動物のこと調べればいいんだよ。もちろん、動画で調べてもいいよ。でもさ、本物をちゃんと見に行くんだよ。学校に行ってないやつのの特権は、自分の目で見に、いつでも行けることだよ。」  少年は、か細い声で何度も頷く。頷く声もつまったような声だ。でも、痛いところを突かれて泣きそうになっている様子ではない。初めて、心のうちを会ったことのない、異国の女性に吐露し、心の奥底の膿を切開されて、根こそぎ排膿している、そんな様子である。  「ご両親はねぇ。自分もまだ子供の立場だからわからないけど。もうちょっと、冷静に話ぐらい聞いてくれてもいいようには思うけど。」「親といえども他人。他人のことは変えられないって、どの国でも言われてることだよ。君が変わったら、変わるのかも知れないよね。わかんないけどね。」 少年は、何度も頷きながら、通話を切ろうとした。ターニャは何気なく聞く。  「言っても平気だったら、お名前どうぞ。」  「そらです。」  「素敵な、いまそら、作ってね。」  二人は少し和やかに笑って、通話を終わらせた。   サヨコの場合 三、    朝起きてリビングに行くと、そらがいる。ここで声をかけると、ひと揉めする。わかってる。でも、そらが、部屋から出てくるチャンスは滅多にない。  そらは、私と目を合わせないようにしているのか、虚空を仰ぐように、目の焦点を合わせないようにしているように見える。  私が部屋に入って来たのは、気づいていないかのように、リビンングとキッチンを仕切るように中央に据えられたソファーの背の後ろに立って、部屋の空気の一点を見つめて、立ちすくんでいる様子だ。  そらの目には、何が見えているのだろう。本当は何も見えていないのだろうか…。  「あら、おはよう。」「久しぶりに会えて嬉しいわ。」せめて、それぐらいの事を言えばいいのだろうけれども、現実に口から出る言葉は、トゲトゲとしたことば、  「何してるの」  ああ、言ってしまった。 お互い、誰も欲していない言葉。  踵を返して居なくなるか、全く聞こえないふりをするのか、或は、攻撃してくるかも知れない。逃るべきなのか…。  「お子さんとは、常に真正面から対峙してくださいね。」 そんなの無理。逃げる、無視する、怒鳴る。 だからうまく行かない。それもわかる。でもここで、「久しぶりね、元気そうでよかった」なんて、言える親なんかいるの?冗談抜きで、会ってみたいものだ。  そらは突っ立っている私の横をするりとすり抜けると、ふらふらと玄関に向かい、靴を履きだす。  「出かけるの?気を付けてね。」 そんなセリフも、もちろん言えない。 現実は、  「どこ行くのよ」 こんな聞き方をされて、まともに答える人間の方が少ないだろう。  「どこに行こうと勝手だろ。」は、セットだろう。そう答えられれば、まぁ、得点は高い方だろう。  そらは、一切なんの返答もせず、玄関から出て行った。  サヨコは完全に無視された。当然得られるはずの「どこに行こうと勝手だろ。」と、いう返答も得られず、完全に無視をされた。こんな事なら、反抗される方がマシじゃない。                                                                                                                                                                                                            当然返ってくると身構えて居た、反抗的な返答さえ、なかったのだ。サヨコは文字通り空気のように無視をされた。この衝撃は、なんと現したら良いのだろう。  衝撃のあまり、サヨコはその場にしゃがみ込んでしまった。 そらの場合  一、   今日はるるこの、数ヶ月ぶりのリアル凸待ちの日。配信者が場所を指定して、現実にリスナーが来るのを待つ。  ただし、るるこはブイチューバー、顔は晒していない。リスナーが知るのはアバターの顔だけである。そしてるるこは不親切にも、来ればわかるとしか言わない。  着ているものも、髪の色や、瞳の色なども話さない。  そして、ここはとある展示場施設。そこを知っているものが来ても、誰かと待ち合わせしているなら、詳細に場所を聞いて居なければ、迷子になりに行くようなものである。  そらが、現場周辺をうろつく。朝から母親に金切声を浴びせられて、少々気分が悪い。 「青い髪なのかなぁ…。」 見ればわかるんなら、それしか思い浮かばない。コスプレイヤーみたいなイメージだ。 ナイロンの青いカツラに、カラーコンタクト。アニメの中から出てきたそのままのイメージだ。でも、全然そんな風じゃないかも知れない。配信者なんて、そもそも信用できない人種は、あまり信用しない方がいいかも知れない。  こんなに、人恋しそうな顔して歩いていれば、誰が見ても待ち合わせ。それも相手が見つかっていない…。関係ない人に声をかけられてしまうかも知れない。もう少し待ち合わせっぽい雰囲気を消したいのだが、無理そうだ。  これじゃあ、一生会えそうもない。指定の入り口にいるのに、他の凸待ちしているらしきリスナーも見当たらない。  ユウキは疲れて、座り込んでしまった。いろんな人が通りすぎていくのが見える。  ベビーカーを押す若いお母さん。休日なのにしっかりとスーツを着込んだ男性。やはり休日なのに制服姿の女子高生だろうか、少女たち。ユウキには、制服姿の生徒の姿は眩しいような、目や脳裏に突き刺さる。それはそうだ。  そらの制服なんか部屋の隅で埃をかぶって、何ヶ月も何年も経っている。  別に制服が嫌なわけではない。そうではなくて学校のことを考えると身の毛がよだつ。そして結果として腹痛だったり、頭痛だったりの身体症状が現れて、学校に行けない。学校のことを考えると、夜寝付けない。夜寝付けないから、朝起きられない。無理に起きればまた身体症状が出る。  母親にも、学校の教師にも説明したはずだ。でも、内容が伝わって居ないのは明白だ。なぜ、こんな、原稿用紙二、三行の話が伝わらないのだろう。それがストレスになるのだろう、またどこかが痛くなる、胸がドキドキする。本当に碌なことがない。  あ、るるこを待ってたんだ。見つからないってか、あまり見つける気もなかった。外に出る、自分の中での口実が欲しかったように思える。  親にどこへ行くとも伝えてないのに、理由なんか必要なかったのだろうけれども…。  他人にどこへ行くという対外的な理由ではない。自分が外へ出る理由。  さて、ちょっと外に出るのに、こんなに搾り出したり、捻り出したりした理由は必要だっただろうか?  外に出る時は、自分の部屋の扉を開けて、家のドアを開けて、一歩踏み出すだけだ。でも、それがここ数年の間に、とてつもなく困難な事になってしまった。家の外どころか、部屋から出ることすら面倒くさいのだ。面倒臭いのか、怖いのか…そら本人にさえわからない。とにかく部屋から出たいとは思うのだが、それができない。学校に行くなんて、言語道断。無理だ。学校に、そもそも行けていない。  だから、今日は無理くり用事を作った。この用事のいいところは、相手とちゃんと約束をしたわけではないというところだ。  何時何分どこそこにと、約束を決めてしまうとプレッシャーになって結局部屋から出られない。  相手は不特定多数の人間を大体どこら辺かで待っている。間に合えばそこへいく。今のユウキには一番ストレスのない待ち合わせだ。行ければ行く。随分自分勝手な待ち合わせのようだが、自分勝手なわけではない。基本的には、外には出られないのだから。  でも、今日は空振りだったかも知れない。それはそれでいい。きちんと約束したわけではないし、架空のお姫様のような人間だ、会えない方がいいのかも知れない。  リア凸自体、何ヶ月かに一度程度は開催しているだろう。会うのはいつでもいい。自分が外に出ていることの方が大事件だ。あれだけ家から出られず困って居たのが、こんな事をきっかけに治るんなら、随分治療代は安く済んだものだ。というより、あれだけ辛かったのは何なんだろうと思うと、拍子抜けしてしまう。  自分のことで、両親はどんどん不仲になっていく。自分が学校へ行けば解決することはわかっているが、それができなくて困っている。負のループとは、まさにこのこと。  何か頑張れば、全てが悪い方に引っ張られていく。  そんなふうに、自己回顧していると、何かものすごいオーラのようなものを背後から感じた。オーラとしか表現の仕様がない。本当に不思議な感覚である。  これは、振り向くまでもないなぁとさえ思った。そして、見ればわかるよ、という言葉を噛み締めた。そんな、見ればわかるどころか、近づいて来ただけでわかる人っているんだなぁ…と、感慨に耽ってしまって、振り向くのさえ、忘れていた。いや、もう実物なのか何なのか知らないけれど、見る必要さえ無いような気がした。  これは、姿形の問題ではなさそうだ。存在自体だ。わざわざ振り向いてその姿を見て、どうだというのだろうか?もう、姿形には、偶像的な意味がかろうじてあるだけだろう。と、言うより、姿を見て、その魅力から逃れられなくなってしまうのが恐ろしかった。 年令さえもわからないのに、年齢を言うのはなんだけれど相当に歳上という可能性だってある、そう簡単に恋に堕ちたりするものなのか…。まぁ、そら                                  自身、その姿を見ずとも、怪しい気持ちになっていることを、自分で感じているのだろう。 るるこの場合   三、  どんな場所を歩いていても、視線が降り注ぐ。 突き刺さる。でもそれは、いつからのことだろう。もう慣れっこである。  寧ろ、視線を注いでこない人間がいる方が気になる。  少年は、わざと視線を外しているようだっった。そんなことをされると、余計に気になってしまう。気になるといっても、声を掛けたりはしない。近づくこともしない。 少年の視界にやっと入る程度のところに佇む。そのうち少年は無視しつつけることが困難になるだろう。   おもむろに少年は、立ち上がる。カバンを背負い、もうここには用事はないといったそぶりである。「そんなに簡単に帰れるのかしら。」るるこは、心の中で呟く。獲物を狙い照準を定めたさまだ。  それでも少年は人混みに紛れて立ち去るようなそぶりを見せている。  「でも、あなたは私に会いに来たの。わかるのよ。」るるこは、また心の中で呟く。  少年が、ほんの少し首を傾けた。勝負は決まった。少年の視線は、るるこの視線に絡めとられる。もう、立ち去ることはできない。             それまでの焦点の定まらない視線とは打って変わって、少年は見開いた瞳で、るるこの視線のもと、すなわち、るるこの瞳をガッチリと捉えている。  すると少年は、突然迷子になっていた子犬が飼い主を見つけたかのように、 破顔して、子犬の笑顔で、るるこに向かって走ってきた。  少年と言っても、中学生か高校生か。まだまだか細いが身長だけは一人前にある。その少年をるるこは、抱きすくめた。 「待たせちゃって、ごめんね。るるこのことすぐわかったでしょ?」  少年は恥ずかしそうに俯いたまま、首を縦に振っている。るるこのオーラはなぜか少年自身にしか届いていない様子だ。周囲の雑踏に二人は紛れ混んでいる。誰も二人を気にしていない。  「いい子ね。待たせてごめんね。」 るるこの声は少しハスキーで落ち着いた低い声。好き嫌いはあるだろうが、好みであれば、落ち着く声だ。いわゆるアニメ声とは全く違う。  四、  そらは、始めて、あるは、本当に久しぶりに安堵というものを感じた。何も心配しなくていいという感情。  るるこは、ごく自然にそらの右手を左手で取り、そのまま左腕をそらの腰に廻し、歩き出した。  雑踏の中の二人は、ごく自然なありふれた恋人同士だ。  店のウインドウを覗き込む。指差しながら少し話し、また次の店を覗く。るるこの先ほどまでのオーラは感じられない。それゆえ、二人はいつの間にか、雑踏に呑み込まれていってしまった。  ほんの数時間前まで、カーテンも開けられずに、自分の部屋にこもっていた少年が、ごく自然なカップルのように雑踏に紛れてしまった。どんな魔法を使っても、聞いたことのない結末だ。もちろんこれが人生の結末なわけではない。  世間には、「引き出し屋」という商売がある。最近出てきた商売だから、聞いたことのない人の方が多いだろう。「ひきこもっている」子供を、あの手この手で部屋から引き出す。「引き出し屋。」何度も足を運び引きこもり達と信頼関係を結んで、徐々に本人達の気持ちを外に向かせるなら、一日何万円で、かかった日数という何十万円コースでも高いとは言っていられないのが現状だ。お金でも出さなければ、誰も助けてはくれない。  酷い業者になると、即日引き出し、職業斡旋などと謳うところもある。これは本当に注意が必要だ。本人への説得は殆どなく、暴力的に部屋や家から引きこもり達を「引き出す」どころか、「引き剥がす」そのまま攫うように連れ出し、そのまま貧困ビジネスに繋げる。  貧困ビジネスも、やや複雑だ。定職を持たず自立できない成人に生活保護を取らせる。そして住居や食べ物を与えるが、保護費の殆どが住居光熱費に消えてしまい、小遣いは月にほんの数千円から酷ければ数百円。この貧困ビジネスに関しては、ホームレス問題で世に明るみになったと言えるだろう。様々な理由で働けない人々を一人一畳や半畳の部屋に押し込め、保護費から生活費を引いたその利鞘を稼ぐのが貧困ビジネスと言って過言ではないだろう。  両親が健在で、例え年金生活をしているにしても、親は子供にそのような半畳一間などという生活などしてほしくはない。部屋から出てこなくとも、お小遣いはやはり少なくても、まだ住み慣れた子供部屋に、のんびりと暮らしていて欲しいのが親心というものだ。 サヨコの場合  四、  そらが部屋から出てきただけでもびっくりして、サヨコの心臓は止まりそうだった。本当に胸の鼓動が普段の倍ぐらいでドキドキしていて、全く平常に戻らない。そして、窓の外はもう西の空が橙色になっている。本人がいれば文句も言えるが、その本人がいないのでは、誰に文句を言ったらいいのかわからない。そもそも、この怒りはなんだろう。自分は何に対して怒っているのだろう。       怒る必要はあるのだろうか…。  理屈を出してきても、正しい回答に辿りつけるような平静さがない。  本当は、部屋に篭っている状態に、平素、怒りを抱いていたのではないのか?誰にでもできる普通のことができない状態に怒りを抱いていたのではないのか。誰にでも出来ること、例えば、朝起きる、夜寝る、出掛けるときは、行く先を告げる、等が誰にでも出来る事だ。何処に行くとも言わずに出かけたことは誰にでも出来ることをやっていないと言えるだろう。なんにしても、サヨコが望まない方向へどんどん進んでいくのだ。  私は、そらの身を案じて小言を言っているのに、声を掛ければお互いの関係は悪化するばかり。今となれば、そんな事までは望まないけれども、そらの進学先のことで、思わぬ良い学校に進学が決まり、お金の心配でもしたかったものだ。  それほど裕福ではなかったので、子供はそら一人と決めて、大切に育てたつもりだった。大切にし過ぎたのだろうか。  もう、悔しいし、悲しいし、この怒りをぶつける場所もわからない。ちゃんと夕食までに帰ってくるのだろうか?携帯電話は持っていったのだろうか。連絡はつくのか、連絡はしてくるんのだろうか。  何を考えても、ただイライラが止まらない だけ…。 ずっと部屋から出てこないとイライラさせておいて、今度はいきなり帰って来ないなんて有るのだろうか。遊んでいるのか、何処かで恐喝にでも遭ってやいないだろうか。  ずっと部屋に籠っていた世間知らずなのだから、どんな目に遭っていてもおかしくなかろう。でも、まだ暗くなってもいないのに、警察に捜索願を出すのもおかしな話だろうか。夫に相談したいが、こんな時に少しも役に立たないのは目に見えている。  足元から力が抜けて、サヨコは床に崩れ落ちてしまった。  頭の中が真っ白とは、まさにこの事である。何か善処策を考えなければいけないのに、次々不安だけが襲ってきて、まともにものが考えられない。 るるこの場合  五、  るるこ、と、そらは手を取り合って歩いている。るるこが体を寄せると、そらは少し体をぴくりとさせる。るるこは、それがちょっと面白くて、何度か続け様にそらの体に自分の体を押し付ける。  そらは、もちろん嫌なわけではない。むしろ嬉しい。でも、本当はどう反応するのが正しくて、るるこに失礼がないのか全くわからない。やめてくださいよ、と、言うべきなのか、そんなことを言っては失礼なのか…。ただ、全身が勝手に反応して、なんだかピクリとしてしまい、恥ずかしくてしょうがない。そらがそんなことでずっと悩み葛藤していると、るるこが突然、口を開いた。  「配信者の、ターニャさんって知ってる?」 ターニャには、先日お悩み凸待ちをしたばかりだ。聞かれていたのだろうか。これは更に話が恥ずかしい方向へ行くのだろうか?そらは身構えた。  るるこは、そらが身構えたことに全く気づかない様子で、世間話をするように話出した。  「彼女、実は今、日本に居るんだけど、部屋を突き止められちゃって、大変なのよね。」  配信者の個人情報が流失すると、想像できる範囲でも、かなり大変なことになる。  配信者ではなくても、しつこい電話や、部屋の周辺の待ち伏せなどは、近年ストーカー行為として問題になっている。  「一番最近は、御中元に、虫を送られたんですって。」  自分が軽い気持ちで人生相談した相手が、まさかそんな重大な事で悩んでいるとは思いも寄らなかった。まだまだ人生修行が足りないことがよくわかると言うものだ。       「もう、引っ越さないと、命だって危ないって言ってるんだけど、次が見つからないとか、色々言って、引っ越さないのよね。」  これは、相談に一枚噛んで欲しいと言う話なのか、世間話として、軽い共通の話題として話し出したのか、どうもよくわからない。これは、二つを見誤ると、面倒なことになりそうだ。  「でもね、もともとそう言うところがあるんだけど、話が時々妄想っぽいのよね。」 これは、また話がずいぶん変わってしまった。先ほど想像していたのとは、また全然違う方向に話が逸れてしまった。これは、自分は医者ではないから全くわからない話だ。一般的に観ておかしいか、おかしくないかしか論ずることはできない。それにしても、ネットの住民には、話が妄想がかっている人間が、一般のリアル世界よりも多い傾向が感じられる。凸待ちに電話をしてきて、ずっと自分の妄想としか思えない話を延々と述べ続け、最後は配信者に「あなたは医者に行きなさい。」と言われるリスナーは、日常的に見掛ける。でも、配信者自身がそんなふうになることがあるとは、気づかなかった。  そして、ターニャの話は、一旦そのままになった。  六、 しばらく歩き回り、小腹の空いた二人は、ハンバーガーショップに入った。どうせハンバーガーなんだから、そんなに高くないんだから、たくさん食べなさいよ。と、るるこは エルサイズのポテトを三つ頼んだりしている。  料理は誰と食べるかが大事なんだろうなぁ。普段なら、テイクアウトやデリバリーで食べる同じバーガーショップのハンバーガー はそらにとっては、餌そのものだ。  ただ空腹感を満たすだけのもの。それが、 今食べているのは特別なシェフが目の前で揚げたポテトの様だ。そんなポテトが食べられる店があるのかわからないが。 ターニャの場合 三、  ターニャは配信を終えて、自身の部屋のなかで呆然としていた。  小さな電子音が聞こえる。初めは聞こえるか聞こえないかぐらいの音。それが段々大きな音になる。この音は、私に一定の命令を送ってくる。送ってくることは明白なのだが、内容がわからない。  明日の配信のことだろうか。そうならば、急がなければならない。でも、どうしても命令の内容がわからない。そもそも、この小さいピーピーという電子音は何処から聞こえているのだろうか?多分、明日の配信までに内容を確認しないと、大変なことになる。  この古いマンションの近くには、大きな鉄塔が立っている。鉄塔の近くを通ると、もう少しで声が聞こえそうになる。だから、鉄塔の近くのこのマンションから引っ越すわけにはいかない。  どうしても、命令の内容を把握しなければならない。  もともとは、日本のアニメが大好きだった。だから、日本を偵察しなければならないという命令を受けたのだろう。私は苦労して日本に留学しビザの降りる職業を探して、就職先を探した。日本で就職するのはかなり困難だ。ただし、いつまでも日本語学校に籍を おいて置く方法、タレントとして就職したことにして、今は少なくなってしまったが、ロシアンパブで働くなどという方法は、比較的長く滞在できる方法だ。  ターニャは、日本語がそこそこ堪能だったため、就職はなんとでもなった。日本人は、案外肌の色や瞳の色より自国の言葉がどれだけ堪能か、に敏感なように感じる。  日本語さえ、並に話せれば「なんだ、話せるんじゃない」と、それまでロシア人並に無愛想にしていた表情は一気に笑顔になる。  それでも、結果的には配信という趣味が収入になって今に至っている。  配信も、始めたばかりの頃はリスナーは本当に数人だけだった。この数人が現在のように数千人にまで増えたのは、大手配信者るるこのお陰も大きい。たまたまターニャの配信を聞いていたるるこがターニャを気に入りコラボ配信、つまり二人で一緒に配信をしてくれ、気づけばリスナーは現在の様な数に増加していた。  ほんの数人で配信していた頃、ターニャの元にるるこからダイレクトメッセージが届いた。  「突然のメッセ、お許しください。ご存じかどうかわかりませんが、配信者のるること申します。ターニャさんの配信、いつも楽しく聞かせて頂いております。  日本語がとても上手でらして、いつも感心しております。  さて、話の本題ですが、一度私とコラボ配信していただけませんか?ご連絡お待ちしております。」 大手配信者から、この様な丁寧なメッセージ、すなわちメールと同様のものなのだが、これが届いてターニャは心底びっくりしたものだ。 そして、何かの陰謀ではないかと、慎重に考えなければならなかった。しかし、ターニャの様な過疎配信者、すなわちリスナーが数十人以下の配信者に特別な陰謀をふっかけて来るとは考え難いと結論し、コラボ配信を快く引き受けることとした。  四、  それにしたも、飯のタネでもあるから、毎日配信は欠かさないものの、ターニャの神経はどんどんと侵されていた。  それでも、配信で話している時は、自分では、ひどく苦しく感じることはなかった。  でも、それはターニャ自身の感想でしかない。リスナーの様子が少しづつおかしくなっていることは、もちろんターニャも気付いていた。  「ターニャさんのお話、いつも楽しみにしています。」 ターニャにとって、この言葉は、魔の呪文である。なぜ、私の話なんかを楽しみにしているなんていうのだろう。きっと私を苦しませるために言っているのは、間違いない。私の話が楽しいはずなんてないのだ。私はただ日本語の練習のついでに配信をしているだけなのだから。  それに、あなたの話を楽しみにしていますなんて、そんな大切なことを、赤の他人に向かって公表するなんて、正気の人間のする事とは、ターニャには思えない。  やはり、何か世界の裏側でひっそりと動くものがあるのだ。それに気づいているのは自分だけなのだが、この配信で話してしまって公の事実になってしまっては、敵の思う壺なのである。 るるこの場合  七、  待ちに待った、ターニャからのダイレクトメッセージの返事が届いた。  「この度は、コラボ配信のお誘いありがとうございます。断る理由もありません。よろしくお願い申し上げます。」  敬語も完璧である。ターニャは伸びると確信していたるるこは、その思いを新たにした。  二人は、何度かメッセージをやり取りし、コラボ配信の日程を確定して、その日に臨む事になった。 「こんばんは。今日は素敵なコラボゲストにお越しいただいていますよ。」るるこは、いつもの落ち着いた声で言う。   「こんばんは。初めてのリスナーさんも、いつものリスナーさんも、こんばんは。」相変わらず、ターニャの話し声は、声だけ聞いているとまるで日本人の様にしか聞こえない。  さて、この二人のコラボだが、るるこはブイチューバー、ターニャはリアルな姿のまま なので、画面の半分にはアニメのキャラクターの様な姿の女性、反対側の半分には何処かの洒落たカフェで寛ぐ様な様子の金髪の白人の女性が座っているという構図になっている。絵面は、非現実的だが、話すのは人間同士。まさにリアルなのである。  るるこは、まず、ターニャに日本に興味をもったきっかけを尋ねる。  これは、比較的最近よく聞く理由である。 アニメが好きで、そのアニメを字幕なしで観たり、原作漫画をやはり、日本語の原文で読みたいと思ったことがきっかけだった。  ターニャが興味を持っていたアニメに関して、残念ながらるるこはあまり興味がなかった様子で、そのアニメについての話はあまり盛り上がらなかった。  しかし、るるこは、もっと古いアニメや、アニメ全体に関しては、ことの他、深い造詣があった。そのため、番組は、途中からアニメの歴史、昭和、平成史という様相を呈した。  るるこは、正面からだけでなく、一般に余り知られていない有名アニメの裏話、漫画家の裏話なども、いつものゆっくりした、噛んで含める様な話し方で語るので、リスナーの大半は「るるこさん物知り」「るるこさんの話、学校の授業より全然楽しい。」そんな、コメントで埋められていく。  コラボ配信は、1時間程度で終了とした。まだまだ、いくらでも話の話題は尽きそうも無かったが、初回に余り飛ばしては、後が尻切れ蜻蛉になってしまいそうだというるるこの判断だ。それでも、二人は、配信後二人だけで話していた。  その会話の中で、るるこはターニャにわずかな狂気を感じた。  永遠に続く様な、家族や、昔のボーイフレンドへの恨み言。お母さんは、私を意識のない人形のように扱っていた。だから、いつも可愛い洋服を着せられていたけど、私が着たかったのはそんな服じゃ無かった。でもね、お母さんも操られていたから、しょうがないの。お母さんを恨んでなんていない。  一見、若い女性によくあるちょっとした愚痴のように聞こえるが、なんだか話の進み具合が引っかかる。その日るるこは、あまりにも違和感を覚えて、ほとんど話の聞き役に回っていた。   サヨコの場合   五、    時計の針は、午後8時。とんでもなく遅い時間という訳ではない。でも、行き先も、帰宅時間も何も聞いてない身からすれば、この数時間は、とてつもなく長い時間であった。その長い時間は、まだ続いている。  この家のリビングには、秒針のついた時計はないのに、コチコチと、秒針の音が聞こえてきて、頭から離れない。  「ねぇ、何かあってからじゃ遅いじゃない?警察に届けた方がいいんじゃない?」  「だから、お前がそんなだから、こんなことになってるのが分からないのか?」  先ほどジムから帰ってきて、ビールを飲みながらイカ下足を摘んでいる夫に、何を言っても理解されない。そもそも、そらが出かけて、もしかしたら行方不明なのかもしれないのに、呑気にジムに行ける神経がサヨコには分からない。  無事に帰ってきたら、今度こそ、何も言わずに、だた「お帰り。無事でよかった。」と、言おう。これだけは、自分と約束しよう。  サヨコは、いつも自分と、こんな小さな約束をするけれど、守れたためしはほとんどない。もし、自分との約束が一つずつ守れていたら、事態は少しは違っていたのだろうか。こんな質問にも、答えてくれる人は誰もいない。  本当に、何が正しくて、何が間違っているのかも分からないのでは、正しい方向に向かうことは、困難、無謀、不可能ではないか。しかも、正しい方向というものさえ、定かではないのである。  断固として、学校に行か無いそらの姿を見ていると、学校に行かないことが正しい、少なくともそれが正しい人間もいるのではないだろうかと考えてしまう。普通に考えれば、不登校なんて負け犬のように思うが、果たしてそうなのだろうか。  もしかして、学校に行かない時間を有意義に使うことはできないものだろうか。そこさえ成功すれば、必ずしも学校へ行かなくても人生何とかなるのではないだろうか。そもそも、学校へ行けないことを苦に、自ら命を、などということがあっては、出来たかもしれない様々なことが全ておジャンではないか。  では、そらが学校へ行っていない時間をどうやって過ごしていたか思い出して、どれほど有意義に過ごしていたか述べよと問われれば、全く有意義に過ごしていたようには思えなかった。  ただゲームをして、ゲームがうまく行かなければ、床や机を叩き奇声を上げる。家事の手伝い一つしてくれなくて、何か有意義な時間を過ごしていたのだろうか。やはり負け犬なのだろう。負け犬が、死に場所を探しに、外へ出ていっただけなんだ。  あのまま家にいれば、三〇歳、はたまた五十歳、六十歳まで、実家の居候をしていたに違いないのだ。  出ていってくれてよかったじゃない。こちらから言わなくても、負け犬になっても出ていってくれたんだもの。  サヨコは本音で、そらがこのまま帰ってこないことを祈っていた。 ターニャの場合    五、  るることコラボ配信をしてから、ターニャの身辺は、より怪しい様相を呈するようになった。  明らかに違法とも言える事態としては、コラボの翌日だ。ひとつのピザが届いた。 「お待たせいたしました。ピザのイタリアーノです。」 馴染みのある、ピザ宅配店の名前だ。馴染みはあるが、ターニャは、殆ど宅配ピザを頼んだことはない。その日も当然自分でピザの配達を頼んだ記憶は全くない。でも、まだバイクの運転も覚束ない様子を窺わせる若い少年が、ピザの入った配達用の袋を持って、扉の前で気をつけをして立っている。  少年は、いかにも、言われたことは真面目にこなすことをモットーに仕事をしていますと、背中に書いて貼ってありそうな雰囲気を滲ませている。  当然、彼に不備はないはずだ。誰かが故意にターニャのことを狙って、偽の注文を入れたのだろう。支払いはどうなっているのだろう。色々聞かなくてはいけないと気がつき、渋々扉を開けた。少年は、慌ててピザを取り出そうとしたので、ターニャはそれを制して、ゆっくりと口を開いた。  「うちは、ペドロコフなんだけど、宛先は誰になってるかしら?」  「ペドロコフさんですか?あれー、ターニャさんになってますね。あれ?あれ?」  日本人の名前ではないので、少年は姓も名もごちゃ混ぜになって、わけがわからなくなって、どこへ連絡して確認したら良いのか、きちんとその程度のことは研修で指導されているだろうに、頭が真っ白とはこの事という様子だ。  結局、ターニャが配達店へ電話して、自分のオーダーではないことを話し、ピザは持って帰ってもらった。少年は、自分が厄介なものを運んできてしまったことと、その後始末ができなかったことで、何度も何度もターニャに詫びて、戻って行った。  彼は全く何も悪くないので、ターニャは余計に気分が悪くなってしまった。  そして、暫くして、「警察呼んだ方が良かったのかな。」と、思い出したが、ちょっと時間が経ちすぎているように思えたので、そのまま警察には連絡は入れなかった。  しかし、その事件は、もっと大きな事件の端緒に他ならなかった。  六、  その後も、知らない男性が訪ねてきたり、やはり頼んでいない宅配便が届いたり。もう、恐ろしくてインターホンに出るのも憚られる状態だった。誰を頼ったらいいのかもわからない状態だったが、一人の女性の名前が浮かんだ。るるこだ。彼女なら何かいい案や、頼れる知人がいるのではないかと思えた。  るるこの名前を思い出した時、ターニャは配信を確認せず、メッセージを送ってしまったが、るるこは配信中だったようだ。しかし配信中とは思えない素早さで、返信を返してきた。慌てて、るるこの配信をつけた。るるこは少し手元のキーボードに触っているけれども、全く落ち着いた様子で、配信をしていた。  ターニャはこうメッセージを送った。  「緊急事態です。ご連絡ください。」  「今、配信中なので、少し待ってね。どうしても不安なことがあったら、男性だけど、友人を紹介するからもう一度メッセージ送ってね。」  るるこは、精一杯の愛情を持ってメッセージを送ってくれていることは、ターニャには すぐにわかった。しかし、ピザなどの不要な贈り物の送り主の敵意と、粘着質の強さを感じると、怖くて一人ではいられないような気分になった。  ターニャの身を案じたのか、るるこは程なく配信を終了した。そして、直接ターニャに電話を掛けてきた。  「一人で大丈夫?」  「あんまり大丈夫じゃないけど。どうしたらいいか分からなくて。」  「知らない男性も来たの?」  「うん。怖い。」  「それじゃあさ、そら君って子、紹介してあげる。今まではウチにいたんだけどね。元引き籠りの、現在家出少年なんだけど。いちお男性といた方が安全じゃない?」  話を聞きながら、ターニャは身体にまた、異変を感じていた。るるこのほかに、誰かるるこの向こうでずっとブツブツと喋っているのが聞こえて、頭が破裂しそうに感じたのだ。 そらの場合  二、  るるこは、そらに何も求めてこなかった。部屋を掃除しろとか、棚の上の高い所のものをとって欲しいとか、買い物袋を持ってくれとか、そんなことさえ要求してこなかった。  夜はそらをベッドに寝かせ、自分がソファーで寝るというので、それだけは断った。  それより何より不思議だったのは、明らかにまだ中学生のそらに家族のことを聞いてこなかったことだ。  興味がないのか、わざと聞かないのか。  るるこの家に居ると、ぼうっとしているか、ソーシャルネットワークを眺めるか、少しゲームをするかという具合で、結局実家の自室に籠っているのと大差ない生活を送っていた。  ただ、ひとつ大きく違うのは、本物のるるこの生配信を、目の前で見ることになったことだろう。  るるこは、配信していない時も、ゆっくりと話す方だ。配信中も、普段も、あまり変わらない雰囲気だ。    その日は、るるこが配信している裏で、るるこにメッセージが届いたようだった。  るるこは、配信しながらそつなく返信し、程なく配信も切った。そして、やはり厳かな雰囲気で、そらに尋ねた。  「ターニャさんが、付き纏われて困ってるみたいで、少し身辺警護してあげて。」 藪から棒の申し出に、そらは戸惑ったが、尊敬する、るるこさんからの申し出は断りたくなかった。  「もう遅いけど、タクシーで一緒に行きましょう。」  るるこはキーボードを操作しながら、ターニャに詳細をメッセージする。それからそらに少し背を向け化粧を直し、髪にアイロンを当て、バッグを掴んで「行きましょう。」と、声を掛けてきた。  振りかえってきたるるこは、微笑んでいるようで、あるいは一点を見つめて視線を集中しているようでもあり、その瞳には本当に吸い込まれてしまいそうだった。  そらは、るるこの瞳に操作されているようで、不安な気持ちにもなった。でも、ここまできて、どこへ引き返すというのだろう。  三、  二人は、国道沿いまで歩いて、流しのタクシーを拾った。  るるこは、タクシーの中でも、黙ってメッセージのやり取りをしている。相手は当然ターニャだろう。  そして、メッセージのやり取りがひと段落すると、そらの方を向いた。  「まず、ターニャの家の近くのファミレスで、落ち合いましょう。作戦ってほどのものは特にないんだけど、注意点はいくつか守ってね。歳上ではあっても、相手は女性だからね。」  「ターニャは、今、ストーキングに近い状態に遭ってるから、できるだけ、側にいてあげてね。  何かあったときは、警察に連絡。この時あなたは、ターニャの友人即ち私の親戚と、言っておいて。警察との交渉は、下手すると、全く意味がなくなってしまうから、私にすぐ連絡してちょうだいね。  それから、あなたの任務はターニャの警護。恋人関係を斡旋してるわけじゃないから。そらは、そんなことは言わなくても分かるわ。念の為ね。」  わざわざそんなことに釘を刺されては、本当はどっちなんだろうと思ってしまう。でも、いつどこでストーカーが覗いているのかと考えたら、そんな気持ちになってる場合ではなさそうだ。  警察って、そんな簡単に電話していいんだろうか?110番ということか?とにかく何だかわからないことは、すぐ、るるこさんに連絡するしかなさそうだ。そらは、ターニャの気分を落ち着かせるのと、物理的な警護と、連絡係だ。  「あ、運転手さん、そこのファミリーレストランの側にお願いするわ。」 るるこは、そう言うと、会計を済ませて、そらの後からタクシーを降りてきた。タクシーの中では気づかなかったが、タクシーを降りてきた瞬間の貫禄とオーラが久しぶりに半端ではないように感じられた。 サヨコの場合  六、  時計の針は、午前零時を過ぎていた。  数時間前には、もう帰ってこなければいいとさえ思った。確かに思った。  でも、それは一時の気の迷い。  こういうときは、何処へ連絡すればいいのだろう。兎に角、頭が回らない。  「ねぇ。どうすればいいのよ!」  「あなた、探してきてよ!」  表面上は、夫を責めた。とにかくその場に本当に責めたいそらはいない。  「お前、そらが出て行ったとき、そこにいたんだろ?」  「あなたはいなかったんだから、どんな状況なのかわかってないじゃない。どうしてわからないのに、そんなことを言えるのよ。」  さっきから、二人の口論は堂々巡りだ。  その時、玄関のインターホンが鳴った。  「夜分大変申し訳ございません。警察のものです。ご近所の方から、大きな声が聞こえると、ご連絡がございまして、念の為、伺わせて頂きました。」  そういえば、そらが暴れてどうしようもない時にも、 一度や二度ぐらい、警察が様子を見にきました、と、覗きに来たことはあった。インターホンに出るまで、警察なんてすっかり忘れていた。警官は、二人。濃紺の制服姿で防弾チョッキを身につけているのだろう、胸板がやけに厚く、相変わらずいつ見ても物々しい姿だ。サヨコが開けたドアから素早い動作で、闇に紛れるように玄関へ入ってきた。  二人の警官のうち、一人はまだ若々しい。  もう一人はかなりベテランといった様子だ。  サヨコは震える声で言った。  「中に、入られますか?」 ベテランらしい警官が答える。  「とりあえず、玄関で結構ですよ。男女の言い争う声が聞こえると、相談がございまして。どうなさいましたか?」 若い警官は、傍で、メモをとっている。 警官の、思っていたより柔らかい口調に、それまで張り詰めていた、サヨコの気持ちは一瞬で崩壊し、ついに大きな叫び声を上げてしまった。  夫が慌てて、サヨコを抱きすくめる。  「夫婦喧嘩でらっしゃいましたかね。」 警官が、夫に向かって尋ねる。  「そうですね、中学生の息子がこんな時間になっても戻ってこなかったものですから。」  「そうですか。どちらか、手を出されてはいらっしゃいませんよね?暴力がなければ、現時点では、民事不介入という形になりますね。お子さんは、そら君十五歳ですね。まだ、捜索願いは提出されていませんね。こんな時間ですから、行き先は聞いてらしゃいますか?」 夫がやっとのことで首を二、三回振る。 「それはご心配ごもっともです。それでは、そら君の捜索願いをだされますか?どこか心当たりがあれば、そちらを探されますか?」  その後も、警官は何やら一生懸命尋ねたり、説明していたが、サヨコは興奮と安堵のため、もうその場で何が起こっているのかわからなくなってしまった。 ターニャの場合   七、  ターニャ、るるこ、そらは、ファミリーレストランの角の席、他の客と少し離れた席に座っていた。  深夜にも関わらず、照明も、音楽も空々しく明るい。音楽が急に途切れると、突然明るい声が話だし、新しいメニューを語りだす。ターニャには、情報が多すぎて、全く耐えられない状態だ。  「ここ、すごく煩いから、私の部屋に来てもらえないかしら。」 ターニャは耐えられなくなって、まだ一口も口をつけていない、ドリンクバーから持ってきたアイスコーヒーに、初めて口を付けた。   「まぁ、飲み物は頼んだんだから、行きましょうか。確かに騒々しいわね。」  るるこは口を開き、三人はファミリーレストランを後にした。  レストランを出ても、外も静かな喧騒に包まれていた。昼間なら、もっと、明らかに騒々しいであろう。しかし深夜で、人々が肩をぶつからせるほど歩いているわけではない。が、そこここの街灯は眩しく、深夜営業の店もみな眩しい光を放っている。  ターニャの部屋はそんな表通りから、ほんの数分歩いたところにある、かなり築年数のたったマンションだ。そこだけ急に暗闇に包まれているようにも感じられる。  昭和式のガラスの玄関扉に、丸い大きい、飾りも兼ねた取っ手がついている。ターニャを先頭に、三人はエレベーターに乗り、三階のターニャの部屋で降りた。ターニャの部屋に入るまで、三人は無言だった。  築年数が経っているため、玄関は鉄の重い扉というデザインだ。やはり昭和の団地の造りをも彷彿とさせるものだ。    八、  三人は、無言でターニャの部屋に入った。 鉄の扉は、重い音を静寂に包まれた廊下に響かせた。  部屋の中は少し乱雑で、飲みかけのデリバリーの紙コップや読みかけのプリントなどがキッチンのテーブルの上に載っている。  「何だか、誰か部屋に入ったような気がする。」 ターニャは突然顔色を失った。そして、リビングの隅のソファーにへたり込んでしまった。  少し部屋の中を歩き廻り、窓や玄関を改めたるるこが話し出す。  「ターニャちゃん。窓は大丈夫よ。玄関も入る時に鍵を開けたわよね。今のところは誰か知らない人が部屋に入った様子はないわ。」  「でも、その原稿の位置が少し変わってる気がするの。疲れてるのかしら。」  「何か動画でも観る?」 すると、ターニャはソファーから、のっそりという感じで起き上がって、パソコンの電源を入れた。  最新のゲーミングパソコンは、あちこちから様々な色の光を発していて、「電脳」という言葉がまさに相応しい。街の中を歩いている時のターニャは、ちょっとした光をとても眩しがったりするのに、パソコンがこんなにギラギラしているとは、そらは少し不思議に思った。   モニターには、どこか知らない国の景色が映し出されていた。街中の固定カメラの様である。時々トラックや自家用車が通り過ぎる。しかし、歩いている人はなく、まるでゴーストタウンだ。ターニャがもう一つウインドウを開けると、そこではやはり外国語のニュースらしき番組が映し出されていた。どちらも英語ではないし、全く知らない国の言葉だ。  街の景観も、装飾の施された石造りのような建物、どこかヨーロッパの伝統のある街並みのようだが、なにしろ言葉がちんぷんかんぷんである。  るるこがターニャに尋ねる。  「疲れてるのに、大丈夫?」  「でも、心配だし。」  二人は、その映像を見つめながら、少し話している。そうして、暫く映像を見ながら話していた二人だが、おもむろにるるこが立ち上がった。  「それじゃあ、そらくん、頼んだわね。」 そらは、慌てて、るることターニャを見た。そういえばそらは部屋に入ってから、ぼうっとしていて、部屋の中で、ずっと呆然と立ったままだったことにやっと気がついた。テーブルの近くの椅子を引き寄せると、初めて腰を下ろした。   九、  るるこは、もう一度、そらに目配せすると部屋を出ていった。もう一度、廊下に重い音が響いた。  ターニャのパソコンの画面では、相変わらず口角泡を飛ばすが如くコメンテーターとアナウンサーだろうか、二人の男女が話し合うニュースらしき画面。もう一つは、昼間の様だけれども薄暗いどこかの少し煤けた外国の街。  二人きりで、話すことなく、そらはターニャに聞いた。  「何処?」  「ウクライナ。ロシアの隣の国。」  「何かあったの?」  「ロシアが戦争ふっかけたって、ところかしら。」  「戦争?」 そう言われれば、殆ど静止している動画の中から時々空襲警報のような、不安を煽るサイレンの音が聞こえてくる。   「私、どうしよう…。」                                   「日本にいた方がいいんじゃない?」  「そういうことじゃなくて、私が配信しないと、日本の人なんか、誰も気が付かないんじゃない?こんなことになってるの。」  「それは、ターニャさん疲れてるから、今は傍観者でいた方がいいよ。」  「傍観者って言った?」  「いや、あの、中学生のいうこと真にうけないで。」  ターニャは、そのまま頭を抱えて、一人で何かぶつぶつと呟き出した。  配信ではいつも明るいターニャの負の側面を見せつけられて、そらはたじろいでしまっった。   そらの場合   五、  「あのね、ウラジオストックって知ってる?」  「なんか、名前は聞いたことある。」  「まぁ、ウラジオストックは、今は関係ないんだけどね。でも、ウラジオストックより、問題はその先のハサンね。でも、これも今は直接関係ないわね。」  「このカメラは、ウラジオストックを映してるの?」  「違う。ロシアの隣、ウクライナの首都キーウ。」  「ロシアは知ってるけど、そんな国知らなかった。」  「ロシアから独立した国だから。でも、その前は元々独立した国だったけどね。日本の歴史も色々複雑だけどロシアも広いから、複雑よ。」  「ロシアの歴史か。日本の歴史もよくわかってないからなぁ。」  「学校行ってないんだよね。一人で勉強するのは学校行って勉強するより大変だよ。でも、学校へ行くと、スパイ養成の餌食になるのも、悔しいのはわかるわ。」  「え?ロシアのこと?」  「日本だって同じよ。だから私は逆に見張られている。」  初めは真面目な日本とロシア、ウクライナの歴史の話をしていると思ったのだが、少し話の様相がズレてきてしまったようだ。  「命令も来るのよ。でもね、命令の内容がわからないのよ。困っちゃう。しかも、どこからきている命令かわからないのよ。」  「日本か、ロシアか、わからないってこと?」  「それどころか、ウクライナかもしれないし、北朝鮮かもしれない。全然分からないのよ。」  「分からないなら、命令を聞く必要なんかないんじゃないの?元々、国を出る時に、何か命令を受けてたの?あ、こんなこと聞いていいのかな。」  「もちろん、ここだけの話にしてね。日本に出発する前から、命令は受けてたのよ。」 ここまでは、ごく普通にいつもの口調でターニャは話していた。  でも、突然黙り込み、少し目を見開き、何かが聴こえた様なそぶりを見せると、突然、耳から頭にかけて腕で押さえつけ、叫び出した。  「やめて!やめてー!聞こえるのに、聞こえるのに、何を言っているのか分からないの。」  その声と被るように、パソコンから空襲警報が聞こえる。  「分からない!私だって、ずっと一生懸命やってきた。ね、そら君だって、証明してくれるよね。」 しかし、残念ながら、そらには、どんどんターニャの話がわからなくなってきた。  「るるこさんも、おかしいでしょ?こんな男の子一人置いていって。ねぇ、そら君は、私のことどう思ってるの?」 もう、先日凸待ちで人生相談に乗ってくれたターニャとは別人だ。そらには、何が起こっているのかさっぱりわからない。とりあえず、事態は平常運転では無いことは、確かだろう。ターニャは、泣いたり怒ったりし始めて、まるでネットでメンヘラと呼ばれる、何らかの精神疾患を持つ性質の人間のような状態になっている。  「ねぇ。どうなってるのよ。どうして私のことを邪魔するの?出てってよ。一人にして。」  また、怒り出す。  「出てってもいいけど、誰かに狙われてるんなら、僕、ここにいた方がいいんじゃない?」  「だって、あなたと、るるこさんの企みぐらい、私には見抜けるわよ。いい加減にしてちょうだい。」  いよいよ、話が通じなくなってきた。  「だって、おかしいじゃない。なんでこんなに都合よくそら君が現れるの?呼んだ訳でも無いのに。」 だんだんターニャの怒りはそらにぶつけられてきた。そろそろ、これは我慢の限界と言ったところだろう。しかし、連絡する相手は、警察ではなさそうだ。  また空襲警報が鳴る。そして、しばらくすると、車のヘッドライトが通り過ぎ、バラバラという歪な砲撃音のような音が聞こえる。  たまらず、そらは、るるこへメッセージを送る。しかし、メッセージを送る様子を見ていたターニャはヒステリックに叫ぶ。  「やめてよ!誰と連絡してるのよ。何を企んでるのよ。」  もう、話にならない。るるこの返信は確認せず、とにかく、もう一度るるこが現れるのを待つしかなくなった。     るるこの場合   八、  そらを一人、というかターニャと二人っきりにしたのは、失敗だったのだろうか。少し思い悩んだが、不測の事態だ。  るるこはスマートフォンを取り出し110番に電話を掛ける。  「はい、こちら110番、事件ですか、事故ですか。それとも急病ですか。」  「急病です。私の知人ですが、自室で暴れている様子なので、見回りに行って頂きたいのですが。」 るるこはターニャの様子をかい摘んで話す。警察にその様子が正確に伝わったのかはやや疑問だったが、緊急通報に関しては、全て出動するのが原則だから、警察か消防がターニャの部屋を訪れるのは、間違いないだろう。 そらの場合  六、  そらは、何とかターニャを宥めすかすが、これは困難を極めた。もう、諦めかけた時に、玄関の扉をノックする音が聞こえた。その音で我に帰り、そしてわずかな安堵を覚えた。誰が来たのかは分からないが、もう二人きりの空間から解放されるのかもしれないと思ったのだ。  「警察です。ペドロコフさんのお宅ですか?」 そらは、本当に助かったという気持ちで扉を開けた。  何人かの警察が玄関に雪崩込んでんできた。もう、何と説明したら良いのか分からない。るるこは、まだ到着していない様子だ。  「とにかく、入ってください。」  「あなたは?」  「僕は、親戚の知り合い。」  「そうですか、お電話くださった方は、知り合いだとおっしゃってましたが。」 「そうです、僕、知りあいの親戚です。男性がいた方がいいだろうって。最近様子が変だったもので。」 そらは、震えそうになりながら、やっと答えたが、緊張と恐怖で、知り合いなのか親戚なのか何を言っているのか分からなくなってしまった。  そして、ターニャの奇行を説明しようとしたが、ターニャの言動があまりに一致していなかったので、どこから説明していいのか、さっぱり分からず、無言になってしまった。  「お電話を頂いた方の説明ですと、数日前から様子がおかしかったとのことですが。」  「そうです。」  「どのように変だったんでしょう。」  一人の警官が、そらから話を聞き、一人は書記よろしく、無言でメモをとっている。  他にも二、三人の警官が、部屋の中を触らないようにしながらも、物色している。  「君は、まだ未成年かな?」  「はい」  すると警官はターニャの方に向き直って話しかける。名前や、ここの住所を聞いたりしているが、少し話すうちに、またもや様子がおかしくなってきた。  警官も、予兆を感じて半歩ほど後退りしたが、その後ターニャは頭を抱えて、大声で奇声を発した。しかしさすが場数を踏んだ警官だ、大して驚く様子も見せず、その場で警官同士で話し合う様子を見せて、意見を纏めている。    「あなたは未成年なので、身元引受人になってもらえませんので、知り合いの方が到着するのを待ちましょう。」  警官とターニャとそらで、るるこを待つことになった。その間も、ターニャはぶつぶつと呟いているが、何を言っているのかやはり分からない。 そして、呟いているだけならまだいいのだが、時々頭を抱えながら叫び声を上げている。  そんなターニャを、一人のベテランらしき警官が宥めている。あまり効果はなさそうだが、この状況でそらには出来ない芸当だ。  ターニャはとにかく狙われているだの、命令だのとずっと言っているのだが、どうも話に現実味がない。 七、  そうこうしていると、また、扉をノックする音が聞こえた。それこそ、今度はるるこに違いないと思うと、そらが倒れそうになった。  警官がノックの音に気付き、扉を薄く開ける。るるこは何か、身分証明証を見せて、部屋に入ってきた様子だ。一人の年配のベテランらしき警官がるるこに尋ねる。 るるこさんは、ターニャさんの知人の方ですね。ご友人の、ターニャさんは、どうも様子がおかしいようですので、一時警察でお預かりいたします。一応ご同行願います。」  そらを置いてけぼりにして、目の前で事態はどんどん進み、もうそらは、蚊帳の外だ。  茫然自失としている中、ターニャとるるこは、警官とともに、部屋の中から玄関を出て、いなくなってしまった。    そして、気がつくと、寒々とした部屋に、そらは一人で取り残されてしまった。    そして、そらは、急に現実に引き戻される。大人ってもっと大人だと思っていた。  二人の行動は、そして何だか台本のように感じられてしまった。もちろん一部始終を見ていたそらには、台本ではなかったことはわかる。それでも、何だか大人に騙された様な後味の悪い感じだ。  そして、もう馬鹿馬鹿しい大人の茶番の台本についていくのは、やっていられない気がした。  始発で家に帰ろう。  馬鹿馬鹿しい茶番に付き合うのは辞めよう。親の茶番だって馬鹿馬鹿しいが。  茶番に乗らないために、まずすべきは学校に行くことのような気がした。  パソコンから、また、空襲警報と、砲撃の音が聞こえてくる。この戦争も茶番なのかもしれないが、今は真実はわからない。    家に帰ろう。学校だって茶番だけど、行ってみよう。そして、目の前で壊れていくターニャを見て、配信とも、少し距離を取ることを自分に誓った。    それは、ロシアがウクライナに、侵攻を始めた夜だった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!