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 上瀧はどうしているのだろう。自分は末端だからと言っていたが、藤崎巽は幼なじみだったはずだ。関係ないはずが無い。今からでも事務所に行きたいと思ったが、今朝の鷹岡の言葉が引っかかる。上瀧へのアクションは置いて、経過観察に回ろう。色んなことを差し置けば、ただただ上瀧に会いたいが、そうもいかない。茉莉は蚊帳の外で一時間の残業後、帰宅した。  ふと、鷹岡に連絡してみようかと思ったが、佐々木の件もあるのでやめた。  近所のコンビニに寄り、いつ呼出がきてもいいようにノンアルコールビールにして、アラビアータとハムチーズのブリトーを購入した。途中、雑誌コーナーで女性ファッション誌の『フェロモン女子の作り方』なるものに惹かれ、雑誌を手に取ってみたが、土台が違いすぎて危うくコンビニの立ち読みで悪態をつきそうになった。濡れツヤチークも生っぽキメ肌も自分がやったら馬鹿にされそうな気がする。そもそも上瀧(あの男)は褒めたりしなさそうだ。それとも、恋人には優しかったりするのだろうか。知らない部分を想像するのは楽しいが、少し経つと虚しくなる。  呼び出しはないまま、普通に寝て朝が来た。  ****  その夜、巽が目を覚ました。まだ二十時過ぎだったが、辺りは田圃が多く民家や商店が遠いせいで、もっと夜更けにも思えた。上瀧は巽の微かな指の動きに起こされた。 「……起きたや。看護師呼ぶか?」  酸素マスクをつけた巽が微かに首を横に振った。病室の外には秦が控えている。巽が手を挙げ指先で手招く。上瀧は巽の耳元で声を潜めた。 (……市川の車からお前に盛ったらしい毒が見つかったって伊川から聞いたぞ)  巽がなにか言いたげに視線を動かした。 「無茶しやがって」  上瀧の悪態を、目尻で笑って受け流す。  巽は自ら毒を飲んだ。そして市川に疑惑が向かった。もうそれだけで充分な“大義名分”が出来た。秦はそこにいるが、もうすでに他の人間が動いている。上瀧は秦のところに行き、人を呼ぶように云った。秦は余計なことは言わないが、明らかに表情と動作が変わった。愚かしいほど忠実な部下が片時も離れず傍にいるというのに、巽はなにゆえ自分に拘るのだろうかと思う。幼なじみが裏切らないとでも思っているのだろうか。そんな甘い幻想を妄信するほど、追い詰められているのだろうか。  薄暗い非常階段から重たそうな足音が聞こえた。見ると先程の頭の悪そうなピアス女が立っていた。 「貴様なんしようとや」 「巽さん、起きた?」 「あ? お前誰や?」 「別に誰でもないけど。巽さん起きた?」 「誰かわからんもんを通すわけにいかん」 「アタシはネコ。言っとくけど、この名前、アタシがつけた訳じゃないけんね。音の子って書いて音子なん。巽さんはアタシが働いてた店の偉い人で、アタシのことボコってたカレシから助けてくれた。だからそのお礼をしてきたっちゃん」  看護師がやって来て病室へ入っていった。後からきた秦が音子を見て怪訝な顔をした。 「お前こんな所でなんしようとや」 「アンタに関係なかろ。巽さんに言われたことをしただけやもん。文句言われる筋合いない」 「はよう帰れ気狂い女が」  どうやら知り合いのようだが、互いに対する嫌悪が強い。忠犬と野良猫の間で攻防が無言で起こっている。さらに後からきた看護師に面会時間は終了したので付き添いの方以外はお引き取り下さいと言われ、上瀧は秦に後は頼んだと告げて、帰ることにした。上瀧の後をネコが追いかけてきた。 「ね、ね、どこまで行くん? 車やろ? アタシも乗せてくれん?」  聞こえない振りをしてエレベーターにいくのをやめて、階段に向かったが、ネコは、ねーねーといいながらついてくる。ねーねーとまとわりついてくる。 「しゃあしかな。邪魔たい、退け」  舌打ちをして言うと、ネコは一瞬目を見開いて、あっという間にその目を潤ませた。が、そんなことくらいで上瀧の心は動かない。ネコの動きが止まったので、身を躱してさっさと階段を降りた。  降りてすぐの踊り場で内側の胸ポケットで携帯電話が震えた。見ると巽の番号からだった。 「あ?」 「すんません上瀧さん、秦です。カシラから伝言で、ネコを、さっき女を、退院するまで預かって欲しいとの事です」 「あァ?」 「すんません。以上です」  と、通話が切れた。耳障りな電子音を聞いていても仕方がない。上瀧は電話をしまい、溜息をついた。 「おい、そこの女。ついてこい。聞こえとうか。こっち来い」  そういうと、ガコガコとラバーソウルの重たげな足音が降りてきた。 「事情が変わった。一緒に来い」  そう告げると、ネコはほっとした様な表情を見せた。車に乗り、事務所の一番若い丸山に電話をかけた。巽から預かった女の世話を頼むと、少し緊張した声で頷いた。丸山は事務所にいるのでそのまま待機でいいのか尋ねてきた。そうしてくれと返して電話を切った。 「お礼にドライビングフェラする?」  人差し指と親指で円を作り、そこからタンピの刺さった舌先を見せつけるようにのぞかせる。 「黙って後ろに乗っとけクソボケが」  上瀧が低く云うと、ネコはそれ以上擦り寄って来なくなった。 「ねーねー。まだ怒ってんの?」  後部座席から声をかけられたが、答えるのも面倒くさく、黙っていた。暗い田舎道で対向車もない。 「巽さんなら褒めてくれるのにぃ……」  上瀧は答えない。運転席越しにドンッと鈍い衝撃がつたわる。ネコが蹴ったのだ。 「貴様大概にせんとぶちくらすぞ」 ブレーキを乱雑に踏み、ギアをパーキングに入れて振り向く。一発くらいひっぱたいてやろうかと思ったが、期待いっぱいに頬を紅潮させた笑みを浮かべているのが気色悪くなり、その気が萎えた。 「なんか? その顔」 「無視されるより殴られたほうがいい」 「キショいな、お前」 「巽さんはそんなこと言わんもん。殴ったりもせんけど」 「巽がどうとか聞いとらん」 「アタシ、男の人に平手打ちされるの好きなんよ。すごく痛くてほっぺた熱くなって、頭がクラクラして、だんだん気持ちよくなる」 「お前の嗜好やら興味ないっちゃけど、聞いてやらないかんとや?」 「聞いてくれるん?」  ネコは嬉々として顔を寄せてきた。上瀧は顔を避けて煙草を取りだし、火をつけた。 「アタシ、巽さんみたいに優しい男の人、初めて会ったとよ。やけん、嬉しくてね、巽さんの為ならなんでもするって決めとーと」 「ほう。そらせいぜい励め」 「うん」  この女は本当に馬鹿なのだと思った。相手がどんな人間か確かめもせずについてくる。こんな単純で頭の悪い女を巽は何故傍に置いたのだろうか。使い捨てにするにも危うい。 「オニーサンの名前は?」  再び車を走らせて数分も経たず話しかけられる。 「知ってどうするとや」 「話す時に呼べんやん」 「呼んでもらわんでちゃよか。黙っとれ」 「ひねくれとーね」 「まだ喋るんか」
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