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「……たつみさん、あの、ね、このさきにこーたきさん、待っとうよ……」
「ん。……わかった」
「アタシ、たつみさんの、やく、たった……?」
「今までの女の中でお前が一番やね」
巽の言葉に音子は力なく微笑んだ。
「たつみさん、あたしのこと、すきに、なってくれた……?」
「……うん。なった」
「……じゃあ、いっかぁ……。ごめんって、いってくれた……し」
ぐにゃりと力尽きた音子を降ろし、銃身の指紋を拭い、その小さな両手に握らせた。なんの感情もない瞳が夜の闇に浮かぶ三つの死体を一瞥し、巽はゆっくりと走り出した。
音子は行く当てのない女だった。生まれて今までのほとんどを、親からも、出会った人間からもいたぶられて過ごしてきたらしく、痛みを感じる部分がイカれていた。死にかけていたところに偶然出会った。市川の舎弟のデリヘルで、どんな特殊プレイも嫌がらない女だと紹介された。全身ボロ雑巾のような女だったが、笑顔を絶やさなかった。全てを諦めた先に覚えた笑顔だったのかもしれない。傷だらけでも、何度捨てられても、相手に縋り、信じていた。そこの抜けたバケツのような心だったから、いくらでも優しさを欲した。優しさと愛情なら嘘も誠も貪欲に飲み込んだ。この先もあの細くて小さくてボロボロの身体と心が満ち足りることはなかっただろう。全部分かっていた。同じような傷を抱えた者だったから。しかし、ここで死ぬ訳にはいかない。諦めて生きている音子とは違い、自分は今まで自分を虐げてきた者全てに復讐をするのだ。終わりない悲しみのために落とし前をつける。そのために泥も反吐も飲んできた。こんな小さな感傷に浸っている場合ではない。
たった数メートル、軽く走っただけで息が上がった。追っ手がなくてよかったと心から思った。見慣れた上瀧の黒い車が見えた。運転席に回り、窓を一度叩いた。運転席の彼は少し顎を振って促した。助手席のドアを閉めると、車が急発進した。
「出たら左、遠回りになるけど山のほう入って」
巽の指示通りに車を走らせる。パトカーが違う道を行くのが見えた。
「大丈夫とや」
上瀧が呟くようにいった。
「あっちの峠道は検問出るかもしれんけど、こっちは大丈夫と思う」
「お前のことたい」
「あ、ああ、俺? 俺は大丈夫よ」
「お前の女やったっちゃろうが。涙の一つくらいくれてやれ」
「やったらなおさらここでは泣けん」
「なんや今さら」
「女のためやけん」
そして、互いに黙り込む。巽は暗い窓の外を見やる。哀れだと少しは思うが、そんなに悲しくはない。あまり考えていると、悲しくなってしまうかもしれないが、わざわざ掘り当ててまで泣くこともない。
「女が死んで、諒平くんなら泣く?」
「いいや? 俺には死んでくれるような女はおらんけんな」
「これからできるんやない?」
「そんな女、現れんでよか」
巽が頷くような、力ない笑い声を漏らした。
「大濠のマンションに連れてってくれん? あそこまだ知られてないんやろ?」
「しゃあねえな」
上瀧は煙草を取り出してくわえた。箱を巽に向けると、巽も一本抜きとり、くわえた。前を向いたまま、懐をまさぐり、ライターを取り出すと巽がそれを取り、火をつけた。
「いつかさ、一緒にタイでも行かん?」
「旅行の話や?」
「ううん」
「もう隠居生活の話か」
「うん。まとまった金持ってさ、煩わしいもん全部捨てて、のんびり暮らすん、よくない?」
「そうやな」
一気に周りが白くなり、窓を開けた。生ぬるい風が入ってきた。
部屋につくなり、巽はベッドを占領し、勝手に寝てしまった。上瀧はシャワーを浴びて歯を磨き、身体の水気だけ拭うと、そのままタオルを腰に巻き、ソファに仰向けになった。巽に押しつけがましく感傷的なことを言ったが、トカゲの尻尾切りにされた女の顔は、もうぼやけている。なんだかいやに目が冴えていた。頭の奥がきつく痛んだ。目頭を揉んでみたものの、眠ろうとするのが無駄な足掻きのようで、起き上がった。
キッチンに行き、シンクの前に立ち、グラスに入れた水を飲み、煙草に火をつけた。暗い室内に目が慣れてきた。ベッドルームから呻き声が聞こえてくる。煙を深く吸い込みながら、ぼんやりと黒と群青に浮かぶ室内を凝視した。白く濃い紫煙が揺蕩う。目に見えるものがすべて曖昧だった。寝室に向かう足どりはふらついている。
ベッドの上で体を丸めて苦しげに呻く巽に歩み寄る。ゆっくり煙を深く肺へ送りながら、心地よい眩暈を感じる。拳銃があればよかった。脂汗を浮かべ苦悶に歪む巽の顔を見下ろしながら思った。頭を一発ぶち抜いてやれば、こいつは二度と苦しまない。煙を吐く。汗にまみれた首に両手をかけた。
「……マニアックなプレイがお好み? 諒平くんの女は大変やね」
巽が目を開いて、上瀧の手を払った。
「なんで起きるとや。楽にしちゃろうかと思うたとに」
「冗談やろ」
「いや、その方がよかろうと思ったけん」
「いいわけなかろうが」
巽は身体を起こして息を吐く。
「俺を殺すならお前も死ねよ」
「いや、そのつもりやけど、お前とは死なん」
「俺が諒平くん殺そうかな」
上瀧が左の唇の端を引っ張り上げるような笑みを見せた。
「別によかけど、オジキが先やろ」
「……つまらん」
巽は白けた顔をして身体の向きを変えた。
「親父さんの葬式どうするとや」
「組の奴らが段取りとるやろ」
「喪主はお前やないと跡目の面子が立たんやろうが」
「わかっとる」
巽はそういうと、薄掛けを頭から被った。とりあえず今は話したくないということだ。
「ちょっと事務所に顔出してくるけん、大人しゅう寝とれよ」
一緒にいたところで何がある訳でもない。巽は自分が身を隠す場所が必要なだけだ。上瀧は着替えて部屋を出た。
****
別府が死に、入院していた病院が襲撃され、看護師と、数年前から行方不明になっていた女が殺害された。藤崎も毒を盛られたが回復した後、行方がわからなくなっている。犯人もまだ捕まっていない。
それぞれの管轄は慌ただしくなっていたが、茉莉は別の詐欺事件の捜査があるので関わることはできない。鷹岡の姿もない。別府の遺体は葬儀屋が預かっているそうだが、後継者の巽が襲撃されたのもあり、葬儀は未定となっている。
しかし、茉莉は翌日、休日で天神の百貨店に来ていた。担当していた事件の主犯グループが検挙され、一段落ついたのだ。だから、“自分へのご褒美”という名目で、佐々木や嘱託職員の年下の女の子たちを見習い、女子力向上のため、ハイブランドのメイクコーナーへやってきた。
まずは伝説的なファッションの女帝、元祖赤リップの老舗のメイクアップカウンターで勝負メイクに使うリップスティックを選ぶ。が、ここの赤は茉莉には似合わなかった。塗ってもらって鏡を見た瞬間、コレは無いと思った。似合わなさ過ぎてショックを受けた。
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