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たぶん、上瀧なら見なかったフリをしてそのままどこかに行ってしまうだろう。それでは困るのだ。茉莉が女子力を上げる目的は、上瀧を誘惑するためだ。
自分のためなら生ビールを買うか、焼き鳥屋へ直行している。手間のかかる化粧をしたり、見栄えのいい下着を買おうなんて思わない。
しかし、出鼻をくじかれ、自分には化粧が似合わないのかもしれないと少し落ち込んだが、しばらく色んなブランドを見て周り、聞き馴染みのある国内大手のブランドに寄った。
「こんにちは。なにかお探しですか?」
「えっと、口紅を……」
なんといったらいいのかわからず、少し焦ったが、店員はにこやかに頷いた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
と、カウンターのスツールに案内される。全体のメイクを軽く直してもらい、好みの色を聞かれて、よく分からず答えられずにいると、店員が肌色で似合う色がわかる機械の診断を勧めてきたので、それをやってベースからポイントまでのメイク道具を一式購入した。全部で四万円程かかったが、やってもらったフルメイクが気に入ったので、久しぶりに練習しようと思った。いつもと違う自分に俄然テンションが上がった。上がったついでに勝負下着とデートを想定したカシュクールワンピースとローヒールのストラップシューズも購入した。勝負下着は自分史上最多レースのサックスブルーのフロントホックにバックが総レースのものを選んだ。全てを身につけ、着ていたものを袋に包んでもらい、道すがらゴミ箱に捨てた。着飾るのは高校生以来かもしれない。自分のために散財する快感を覚えた。
気分が高揚していてもどかしいのでタクシーに乗り、上瀧の事務所の近くで降ろしてもらった。
****
「上瀧さん、また来とーとですけど……」
事務所に着くなり丸山が部屋の奥を目で指しながら困惑気味に言った。
「マル暴の奴か」
「いや、あの女ッス」
上瀧は頷いて丸山の肩を叩き、ちょっと外に行けと万札を握らせ、他にいた二人も集金と偵察にやらせた。
奥の部屋のソファに座り、上瀧が入ると振り向いた女は、前回よりずっと身綺麗で小洒落ていて少し色めいていた。
「久しぶりやん。どうしたとや」
上瀧が目の前のソファに腰を下ろすと、茉莉はニカッと笑った。
「上瀧さんに会いに来たに決まっとろ」
「なんで? 転職か?」
「転職?」
「夜の仕事」
「それやったら求人誌読むし。私が転職したら上瀧さん養ってやれんやん」
「いらん世話たい」
「そぉ? 上瀧さん、専業主夫に転職どお?」
「米研いだこともねぇとにや?」
「覚えていけばいいやん」
「あと二十年早けりゃな。で? そげん洒落コケて何しに来たとや」
煙草に火をつけてふんだんにふかし、煙を吐く。
「こないだの続きしよ」
「こないだの続き?」
「えー。言わすん?」
上瀧はソファにもたれかかり、茉莉を眺めながら、紫煙をゆったりと吐く。ゆらゆらと揺れる煙から覗く粘膜の艶やかな色がいやらしいと茉莉は思う。薄い唇に、喫煙者のくせに白い歯して、鋭い眼光と目のそばの傷と不釣り合いな清潔感がずるい。
茉莉は自ら横抱きされるような形に、上瀧の上に腰を下ろすと、カシュクールの胸元を指で引っかけて見せる。
「新しい下着。今度はちゃんと可愛いの着けてきたっちゃん。見たい?」
「ほう、そりゃ見てやらんとな」
「見るだけ?」
「見とっちゃあけん、脱いでみせろ」
「いやーん! えっちぃー!」
「アホか。お前が言ったっちゃろーが」
「もっとでれでれしてよ。なんでそんな表情乏しいと?」
「お前んとこの怖いオッサンの顔がチラついてしもうて無理やね」
「えっ誰? みうさん? 伊川さん? 連絡あったん? マジ? なんて?」
「本気で言いよーとや、それ」
上瀧は茉莉の胸元を乱雑に暴き、フロントホックを外す。寄せて締めつけられていた乳房が弾けるように現れた。
「盗聴器とかないよ。私、今日休みやし、別府組の捜査に一つも関わってないもん」
「俺にそれ信じろって言うとや」
「嘘ついてないし、なんも持っとらんもん」
上瀧は茉莉を退かして立ち上がると、向かいに置いていた彼女のバッグの中身をソファの上にぶちまけた。財布と小銭入れとスマホとくしゃくしゃにされた百貨店のレシートと護身用の金属棒が出てきた。
「ほらね」
上瀧の背中にのしかかり、耳輪を甘噛みする。
「次は下半身も調べてみる?」
舌先で耳の軟骨をなぞると額の辺りを手で押し返された。
「お前、こんな時に本気でやりに来たとや」
「なんか騒がしいみたいやけど、私に関係ないもん。上瀧さん、私んち来る? 灯台もと暗しで案外見つからんで済むかもよ」
といって、茉莉は上瀧の下唇を食むように噛んだ。
****
茉莉の言葉を信じたわけではないが、どうしようもない渇きを覚えて、事務所からタクシーで美野島まで行き、彼女のアパートへ行った。
部屋の前で隣人らしき老婆と遭遇し、半ば押し付けられるように茉莉は老婆から四分の一カットのスイカを受け取った。部屋に入ると、茉莉は上瀧の首に抱きつき、キスをねだる。上瀧も特に抵抗もなくそれに応えた。唇を離すと、茉莉は少しバツの悪そうな顔で言う。
「やっぱり着慣れんけん、着替えていい?」
「好きにしろ」
上瀧は煙草を買ってくると言って部屋を出た。案の定先程の老婆が隣の部屋の前で丸い簡素な椅子に座ってじろりとこちらを見た。上瀧は煙草をくわえて火をつけながら老婆のそばに行き、並んで階下を眺めるともなく眺めた。
「アタシにもくれんね」
老婆がいう。
上瀧は煙草を一本引き抜いて、老婆に渡す。老婆が煙草をくわえたタイミングで火をつける。
「バアさん、あんたパチンコやらすると?」
「アタシ? するよ。膝の調子がよか時は清川んとこまで歩いていくと」
「ならちょっと遊んで来ぃ」
万札を二枚引き抜いて渡すと、老婆は一欠片の遠慮もなく受け取り、煙草の煙を吐いた。
「二、三時間は遊んで来ようかね」
「頼むばい」
上瀧が煙草を吸う間に彼女はのそのそと支度をして、アパートの階段を降りていった。
カラカラと磨りガラスの窓が開いて茉莉が振り向いた上瀧に笑いかける。
「なんしよーと」
「ああいう婆さんはしゃあしかろうが。黙らせとかな」
「早よ入ってきてよ」
茉莉の甘えた声に応えるように上瀧は部屋に戻った。
「ん」
茉莉は、前田に貰ったスイカを、一口より少し横長に切り、咥えて、少し顎を上げて上瀧に差し出してみた。
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