モノクロの記憶 フェアレディZ

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モノクロの記憶 フェアレディZ

 白と黒の幼い頃の記憶を辿る。 昭和初期に建てられた保育園は黒い瓦屋根に木の壁、木の窓枠、木の廊下、畳敷の保育室。静かだ。けれど蝉が鳴いていたような気もする。  ベージュ色のカーテンがそよぐ午後、畳一面に布団が敷かれ、同じクラスの子どもたちは手足を伸ばして寝息を立てていた。私は午睡(ひるね)が苦手で、その日も薄くて硬い布団の上で毛虫のようにモゾモゾと時が経つのを待っていた。 「順子ちゃん、起きまっし」  長い髪の毛を背中で束ねた保育園の先生が唇の前で人差しを指を立て、私の肩を叩いた。私は訳もわからないまま木の廊下に立ち、手際よくパジャマを脱がされると黄土色の制服に着替えさせられた。胸には桜の形をしたビニールの名札が揺れていた。 きたむら じゅんこ  先生はエプロンのポケットから透明なビニール袋を取り出した。 「おやつ、持っていきまっし」  動物の形のビスケット。振り向いた保育園の中はとても静かで、白と黒の映画を見ているようだった。先生と手を繋ぎ玄関に向かった。白い逆光の中で鮮やかなオレンジ色のワンピースが私を迎えた。 「あ、ママや!」  ママは玄関の木の板に片膝を乗せ、私の小さな足の甲を持ち上げると白い運動靴を履かせて足首で弛んだ白い靴下を整えた。 「ありがとうございました」 「先生またね!バイバイ!」 「さようならまた明日ね。」  ママは軽く会釈をし、私の手を引いてコンクリートの階段を降りた。玄関先の花壇にはサルビアの赤い花が風に揺れていた。 「歩ける?」 「うん」  ママは覚束ない私を気遣うように階段を降りたが、路面に足が着いた途端それは豹変し、私を抱え上げると小走りになった。肩に掛けられた赤い通園鞄が前後に激しく揺れた。 「ママ、どうしたの」  電信柱を三本数えたコンクリートブロックの壁まで走ったママは息も荒く、私を抱えていた腕は汗ばんでいた。 「大丈夫?」 「うん、大丈夫よ」  イチジクの木が生い茂る路地には、平らな車が低いエンジン音を立てていた。その色はサルビアの花のように真っ赤だった。  運転席から降りて来た男性は、黒に黄色の開衿シャツにジーンズ、黒いサングラス、赤茶色の革靴は先が尖っていた。 「順ちゃん、久しぶり」  私はその人が誰か分からなかったが頷いた。男性は運転席に座り黒い革のハンドルを握り締め、ママは周囲を見渡し乍ら助手席のドアを閉めた。狭苦しい後部座席から見たフロントガラスの空は鈍色をしていた。  男性が運転していた車種はスポーツカーのフェアレディZ。昭和四十七年、当時その車はとても高価で、一般人が簡単に手を出せるような品物ではなかった。
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