(二か月目)声なき祈りを

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(二か月目)声なき祈りを

「麻里亜(まりあ)。せいちゃんに、赤ちゃんができました」  作家、坂木倫太郎(さかきりんたろう)とその秘書、村瀬清路(むらせせいじ)――「せいちゃん」は、ダイニングの隅に祀った村瀬麻里亜の遺影と十字架の前で手を合わせた。  麻里亜は生前、坂木の内縁の妻で、村瀬の実母だった。坂木は手を合わせたまま、さらに続ける。 「おれの子どもです」  二人で頭を下げる。  ふだんから眠そうな坂木の目は、今はしっとりと潤んでいた。いや、すでに泣いている。目尻を拭い、緩んだ顔で麻里亜に笑いかけた。 「麻里亜の孫だよ。よかったなぁ、麻里亜。おれもお祖父ちゃんか」 「いやいや、倫太郎さんはお父さんですから」  すかさず真顔で村瀬がつっこんだ。「あ、そうか」と坂木は目を瞬く。隣を向いて、十九歳年下の青年の手をぎゅっと握った。 「せいちゃんがお母さん、おれがお父さんかぁ。はは、実感ないなぁ。……『男性妊娠専門外来』、おれも行きたかった」  村瀬がどこへ行くとも言わず出掛けたのがこの日の午前八時半過ぎ。昼になるまでに戻った彼は、うれしくもあり驚愕もあり……な報せを持って帰ってきた。坂木は重ねてこう言う。 「せいちゃんといっしょに、喜びの瞬間を味わいたかったなー」 「すねてます?」 「ちょっと、すねてる」  頬を膨らませた四十六歳の男のあざとい可愛らしさに、村瀬は笑って坂木の手の甲を撫でた。それからきりっとした顔で言う。 「はっきりしたことがわかるまでは、内緒にしようと思って。妊娠検査薬でわかってはいたんですが、確証がなかったんです」 「そういうところ、元刑事っぽい」 「そうですか?」  坂木はふにゃふにゃと蕩けたゼリーのように笑う。幻の青い鳥を捕まえるように、恋人を抱きしめた。村瀬は鋭い目を細め、坂木の広い背中にしっかりとしがみつく。坂木が無精髭の生えた頬を、恋人の頬に擦りつけた。 「でもまぁ、なんだっていいよ。うれしいなぁ。あ……あの、せいちゃん」  顔を上げ、坂木は村瀬の両肩をつかむと、急に泣きそうな真顔になった。 「せ、籍……入れる?」 「え……」  殺人的な眼力を持つ、騎士のように凛々しい村瀬の顔。その顔が、くしゃっと歪んだ。たった一人ぼっちで道で転んだ幼い男の子が、駆け寄ってくる父親の顔を見て涙を浮かべるように。  思わず、思いがこぼれた。 「い……いいんですか? おれは、『人殺しの息子』です。倫太郎さんに、迷惑を掛けます。……おれ、ほ、ほんとは……」  強面の美貌に涙が一筋伝った。ぎゅっと骨太の体を抱きしめて、 「子ども、こっそり一人で産んで……倫太郎さんの前から、消えるつもりだった」 「せいちゃん……」  坂木の顔が歪む。  村瀬の父親、春彦(はるひこ)は、暴力団の組長の指令を受けて人を殺めていた。その被害者のうちの一人は村瀬の母親、麻里亜だった。春彦は、妻を殺したのだ。  坂木と村瀬が出会ったのも、麻里亜が亡くなった事件に端を発する。麻里亜の遺言で共に暮らし始めた二人は、春彦と対峙するうちに思いを通わせるようになった。やがて、坂木と村瀬は恋人同士になる。  だが、事件のせいで、村瀬は天職だった刑事を辞めざるを得ない羽目に陥った。『皆殺しの天使』とあだ名され、犯罪者たちにも警官たちにも恐れられた刑事だったのに。村瀬は今、坂木に身元を引き受けてもらい、住み込みの秘書として暮らしている。二人の関係は、世間には公表していない。  しかし今でも、坂木が村瀬をかばっているとネットで吊るし上げられたりしていた。  いや――脅迫だ。「人殺しの息子」「のうのうと暮らしていていいのか」「死んで詫びろ」「坂木も同罪だ」。そんな言葉が、善意が、悪意が、二人を今も串刺しにしている。  村瀬の「子どもを一人で産んで、倫太郎さんの前から消えるつもりだった」という告白を聞いた坂木は、恋人の体をきつく抱きしめた。体じゅうの骨が軋むほど、村瀬が苦しくなるほどに。坂木は口を開いた。その声は低く、震えていた。 「せいちゃんがいなくなるなんて、嫌だ」 「でも、おれがいたら迷惑を掛ける。籍を入れて、おまけにお腹の子の父親だなんて宣言したら、なんて言われるか――」 「それでも、嫌だ」  村瀬の首筋に生ぬるいものが触れた。それが坂木の涙だと、村瀬はしばらくしてから気がついた。 「嫌なんだ」  駄々をこねる子どもような恋人の、祈りのような声に、村瀬は「おれも嫌です」と叫びたかった。しかし、声が出ない。  どうしても、出なかった。
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