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1. Opening―川嶋望
赤い色の小ぶりなスーツケースのキャスターを引きずりながら、空港のゲートに向かう日本女性がいた。
背は高からず低からず。長いゆるくウェーブのかかった黒髪をシュシュで軽くひとまとめにして、右肩から前に流してある。
大きめのサングラスを掛けているので顔は見えないが、出るところは出て引っ込むべきところはちゃんと慎ましくしている、なかなかにスタイルの良い女性のように見える。
搭乗手続は既に済ませてあるのだろう、そのままゲートの向うに姿が消えた。
空港に流れるアナウンスはあらゆる国の言葉でロビーにいる人々に向かってお定まりの定型文を垂れ流している。
薄いベージュのスプリングコートを着た女性が乗ったであろう旅客機が空へと飛び立ったのはその40分程後だったろうか。
その機影が消えた方角に小さな閃光が見えたが、ごった返したロビーにいた人々が気がつくことはなかった。
×××
「ねー、望先輩って海外旅行に行ったんだっけ?」
「そうよ―。ずっと行きたかったんだってフランスにさ~」
「なにも会社辞めなくても良かったんじゃね?」
明るい社員食堂内で事務服を着た女子社員達が昼食後の休憩を取りながら喋っている。
「彼女もさー、お局様って言われる間際の年齢だったから居づらかったんじゃないの?」
「え、何歳?」
「知らなーい。美魔女に年齢なんか聞いたことないよ。仕事は有能だったから、それなりの年齢だったんじゃない?」
「でもさ―独身でしょ? 会社辞めちゃったら後が困るんじゃないの?」
「知らないわよ。まあ、困るのはあとに残された私等ペーペーだわよ。あの人の穴埋め大変だからさー・・・」
「フランスか~いいなぁロマンチック~。行ってみたいわぁ」
事務職の女の子達のお喋りを外回りから帰ってきたスーツ姿のセールスが耳にして振り返った。彼は今から食事のようでAランチを片手に持っている。
「ソレって望先輩の事か?」
「「「「そうそう」」」」
「なんか、墓参りだって言ってたぜ」
「「「「え?」」」」
「付き合ってた彼氏の墓がフランスにあるって言ってたぞ」
「「「ええッ!?」」」
セールスが眉根を寄せて天井を見上げた。
「ほら、随分昔に卒業旅行で海外に行くの流行ってたじゃん10年くらい前にさ」
「あ、バブルの頃? もちょっと後?」
「それで昔の彼氏が、向こうで事故って死んだらしいぞ。何だっけ交通事故?」
「「「「・・・え~」」」」
「それで婚期逃して、ずっと独身だったって聞いた事がある」
「マジ?!」
「郁島、望先輩にコナ掛けてたからな~」
別のセールスが郁島と呼ばれた男の肩をガシッと捕まえる。
「ほっとけよ。ソレと俺のランチが溢れる」
「フラレた時に、食い下がって聞き出したんだべ? そいで諦めたんだよなー」
「そーだよ、ライバルが死んだ奴じゃ勝ち目無いじゃん」
「「「「え~・・・ホントに?」」」」
それって、上手い事フラレただけなんじゃ・・・と女子全員が郁島と呼ばれた男に憐れんだ目を向ける。
「いや、あの人意外に生真面目だったからさ。ちゃんとした理由があるからって教えてくれたんだよ」
「へえー・・・」
「大恋愛だったんだ」
「ロマンチックねー」
「先輩、可哀想」
女子陣がちょっとだけウルっときたが、
「不毛なだけじゃん。あのボインが誰にも触られずに終わるんだぞ?」
「ケツもカッコイイのになぁ~勿体ねえ」
男共の言葉で、茶菓子の包み紙を丸めたボールが彼らの方に飛んでいく。
「おい、やめろランチに入ったらどーすんだよッ!」
「これだから、男は。デリカシーってもんが・・・」
「ちょっと~、センチメンタルって言葉知らないの?」
「先輩の身体目当てだったの? やだー」
「ロマンスの欠片もないわね~」
「「ロマンスより男はエロ!」」
「「「「やだー!」」」」
食堂に設けられたテレビ画面の中のニュースのアナウンサーがフランス行きの国際便旅客機の爆破事故があった事を感情のない声で淡々と伝えていたが、口喧嘩に忙しい彼らは気が付かなかった。
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