飛ばない竹とんぼと割れた紙風船

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 私の通学路には畑辺さんという表札の家がある。木造の平屋建てで、畑辺さんは50歳近い女性。天気が良いとよく縁側に座っている。  木々が庭を覆いつくすような夏。塀の向こうに畑辺さんが見えた。いつも一人の畑辺さんの真横に男の子がちょこんと座っていた。色白のとても小さな男の子。  男の子は縁側から竹とんぼを飛ばし、庭に下りてきて私と目が合った。にこりと笑うと小走りで縁側へ駆けて行った。  それから何日かして終業式の帰り道。夏休みの講座のことを考えながら歩いていたら、私は背中をつんつんされた。  ギョッとして振り向くと、畑辺さんと縁側にいた色白の男の子がニコッとして頭を下げた。 「こんにちは。畑辺さんは? 」 「お母ちゃんは今日は出て来ない」  出て来ない? 外に出て来ないってことか。 「ねぇ、いつか一緒に遊んでくれる? 」  男の子に言われて頷いた。 「いつかね。またお母ちゃんと一緒の時に遊ぼうね」 「うん約束だよ。じゃあね」  手を振って別れた。  二日後、講座と部活で疲れきって歩いていると畑辺さんの家の前へ。木々が風に揺れて、その瞬間に木の間から縁側が見えた。  畑辺さんが私に気づいて会釈。私も軽く頭を下げる。あの色白の男の子はタオルケットをかけて寝ていた。 「今日は遊べないね、また今度だね」  そう呟きながら畑辺さんの家を通り過ぎた。蝉が鳴いている。いつもより鳴き声が大きいような気がする。  七月も残すところ二日の雨の日。部活を終えて帰り道に畑辺さんの家の前まで来ると、縁側の前のガラス戸に紙風船が浮かんでいた。ふたりの姿も見えた。 「また遊べないね」  8月1日。部活の帰りに見た畑辺さんの家の庭。あの色白の男の子が木に登っていた。 「ねぇ遊んでよ。こっちから入って」  庭にある1本の木の枝に座っていた。男の子が右手を振った。スルスルと気をおりてくる。とても慣れている下り方だった。  私は塀の角にある木の扉を開いて入った。 「こんにちは。僕はシュウヤっていうの。習うっていう字に漢字の八って書くよ。お姉さんは? 」 「私は立宮亜澄(たてみや あすみ)です」 「亜澄お姉さんって呼んでいいですか」  私は小首をかしげて考えてから言った。 「亜澄お姉ちゃんって呼んでね」  畑辺さんと御挨拶。習八君は縁側で靴を脱いで上がった。 「この前さ、雨すごかったね。だから竹とんぼ出来ないし木登りも出来なかったよ」  唇を尖がらして早口で言った。 「塀からふたりの姿が見えたの。でも雨降っているし遊べないなあって思いながら帰った」  ようやく習八君と遊べる。私は習八君の飛ばした竹とんぼを取りに行く。 「ここをね、この棒をクルクルって早くまわすと飛んで行くよ」  習八君が教えてくれる。畑辺さんは座布団に座ってニコニコして私たちを見ている。 「習ちゃん、亜澄お姉ちゃんと中に入って大福食べな」 「うん、もうちょっと待って」  竹とんぼ教室を終えて、習八君は玄関に駆け込んで、バットとボールを持って来た。バットもボールも、おもちゃ屋に売っている小さい子ども向けのものだった。 「ちょっとだけ遊んでね」  習八君が打ったボールを拾いながら、だんだんと楽しくなってきた。柔らかいボールなので投げやすい。  少し遊んでから縁側に入って、畑辺さんが用意してくれた大福と麦茶をいただいた。 「亜澄ちゃんが来てくれて、習ちゃんはとても楽しそうで、こっちも嬉しくて。立宮って立宮博志さんの関係かねえ」  私は頷きながら伸びた大福を嚙み切ってから答えた。 「私の祖父ですが、知っているんですか」  畑辺さんは食べかけの大福の置かれている皿を見つめながら、何か寂しそうな顔をして俯いた。習八君は心配そうに見つめながら移動して太腿の上にちょこんと座った。 畑辺さんは習八君の頭を撫でながら言った。チラッと見たら涙ぐんでいた。 「ごめんね亜澄ちゃん。博志さんはこの家に来ていた大工さんなの。またお話しするわね」  大福を食べて、習八君とかくれんぼして帰った。習八君のような弟がいたらいいな、と思いながら。あまり遊びに行くと、畑辺さんに気を遣わせてしまうので、しばらくは通っても挨拶だけにした。  お盆の初日。祖父の家に行った時に、畑辺シズさんを知っているかを訊いた。昼食を終えて自室へ戻った祖父に。 「シズさんかい? 」  畑辺さんではなくシズさんと呼んだ。下の名前で呼ぶって事は少し親しい人だと思った。学生時代の友達だったりして。  祖父は窓の外を見つめたまま話さなくなった。窓の外は田畑ばかり。蝉の鳴き声が大きい。 「亜澄はシズさんを知っているのか」  私は登下校時に通ると畑辺さんが縁側にいて挨拶する仲になって話したり、習八君って子と遊んでいると教えた。  祖父は視線を本棚に向けた。 「亜澄、本棚の一番下の右の引き出しを開けてくれ。そこに私の日記が入っている。持って帰って読むといい。また来る時に返してくれればいい」  開けると手のひらサイズのノートが入っていた。普通のノートだった。 「ここで話すと長くなるからな」    祖父の日記は畑辺さんとの事ばかり書かれていた。畑辺さんと習八君が親子なのは良しとして、仕事先の奥さんの畑辺さんから旦那の相談を受けているうちに好きになってしまった事。一生、片思いの日々は誰にも言わないという文章だけは赤ボールペンで書かれていた。私に日記を見せたら秘密じゃなくなっちゃうのに。畑辺さんと出会った私には教えたかったかも。  習八君と野球をして楽しかった事、とても慕ってくれていると何日も書いてある。竹とんぼを作ってあげたら喜んでくれた、おもちゃ箱を作ってあげたとも書かれていた。  そして知ってしまった。8月16日の昼間に起きた事。もう40年ぐらい前の出来事。祖父はこの日の日記には、たった二文字『後悔』とだけ書いていた。   この日、畑辺さんの家に強盗が入った。たまたま近くで仕事をしていた祖父は、慌てて駆けつけたが助けられなかったと何日後かに書いていた。やはり『後悔』の文字があった。  涙をテッシュで拭く。畑辺さん親子はあの家で祖父を待っているのかもしれない。ずっとずっと待ち続けているのかもしれない。  8月17日、私は竹とんぼと紙風船と花束を持ち畑辺さんの家を訪れた。そうしたら、いきなり縁側に畑辺さん親子の姿。 「亜澄ちゃん、いらっしゃい」 「亜澄お姉ちゃん待っていたよ」  習八君に竹とんぼと紙風船をプレゼント。畑辺さんが花が好きだと祖父が日記に書いていたので花束のプレゼント。 「ありがとう、とても綺麗ね。あらっ? 」  玄関先に祖父が立っていた。畑辺さんはその場にしゃがみこんだ。ふたりは居間で話し、私と習八君は竹とんぼを飛ばしてかくれんぼをした。帰りに畑辺さんから手紙を貰った。  翌日。快晴なのに縁側のガラス戸が開くことはなかった。庭先には竹とんぼが落ちていて縁側を割れた紙風船がゆらゆら漂っていた。                (了)
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