あの子

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あの子

***  今にも泣き出しそうな空の色だった。  その日は今日みたいに、午後から雪が降るって天気予報だったから、あまり長居をさせたら申し訳ないなと思いながら、俺は待ち合わせ場所である駅のロータリーで、あの子を待った。  しばらくすると、ダウンジャケットを身にまとい、チェック柄のパンツをはいたやせっぽちの女の子が、まっすぐこちらにやってきた。  賢そうな子だったよ。アーモンド型の目があの人にそっくりだったけど、背筋をぴんと伸ばして堂々と歩いているせいか、あの人とは真逆の雰囲気を持つ子だって思ったな。 「はじめまして」  思ったより低い声が耳に届くと同時に、俺は頭を下げた。 「お母様の事、大変申し訳ございませんでした」  そう言ったきり頭を上げない俺に驚いたのか、彼女は少しの間、押し黙っていた。  本当は、近くにあるファミレスかどこかへ行って、飯でも食べながら話をするつもりだったのに。彼女の姿を見たら、記憶の奥底に沈めたはずのあの日の事とか、忘れられやしない後悔の念やらがぶわっと湧き上がってきて、動けなくなっちまったんだ。 「顔をあげてください、とりあえず、ファミレスにでも入りませんか?」  それはとても、十五歳とは思えない落ち着いた声だった。 *** 「実は今日、本当はあなたの事をぶん殴るため、ここに来ました」  ドリンクバー用のティーカップに口をつけた後、彼女は静かな声でそう言った。  天候のせいか店内の客の姿はまばらで、彼女の静かな決意を聞き逃さずにすんだ。 ――手紙に書かれていた感謝の言葉は、俺をおびき寄せるための嘘だったか――  その可能性は既に考えていた。胃のあたりがずっしりと、鉛を飲んだように重くなる。  殴って彼女の気が済むなら、喜んで殴られようと決意を固めた。いっその事、殴られて詰られた方が気も晴れると思った。でも、彼女は意外な言葉を口にした。 「あなたが自分の事を、英雄だと思ってくれていたならば、心置きなく殴れたのに。あの日の事を武勇伝として語って、私に感謝を強要するような人だったなら、私は……。それなのに――」  カップをおろし、宙を見ながら言葉を探す彼女の姿はまぎれもなく十五歳のこどもで。俺は、出合い頭に謝罪したことを後悔した。自分の中の罪悪感をあの子に押し付けたせいで、彼女は大人として振舞わなければならなくなってしまったからだ。またしても、己の浅はかさを顔面に叩きつけられた気がした。 「――あなたは今にも死んでしまいそうな顔をしている。幸福を追い払って、自ら闇の中へ突き進んでいるように見えます。 そんなあなたは、殴れない。  もっともっと――高慢不遜でいてくれませんか? 仕事に就いて、毎日を充実させて――幸せになって。 そんなあなただったら、私は心置きなくあなたに罵声を浴びせられる。あんたのせいで、私の家族は奪われた! って言いながら、殴りかかれるかも知れない」  目を丸くして絶句した俺に向かって、彼女は続ける。 「施設暮らしは――色々、あります。こんな辛い思いをするなら、あの時母に殺されていた方が良かった――そう思った日も、ありました。そして、私をそんな環境に追い込んだ要因であるあなた達を恨んだ事もありました。  でも、あなたは私の命を助けてくれた。それは確かな事実ですし、それに対する感謝の気持ちを憎しみで塗りつぶせるほど、私はこどもではいられなかった」  そう言い終えると、彼女の美麗な瞳が強い光を湛え、俺を射た。その強い意志の力に、気圧されたよ。 「私は、生きていて良かったと思っています。理想を言えばきりがないけれど、これから叶えてゆける事だってあるはず。それには最低限、命がなきゃね」  照れくさそうに微笑んだかと思うと、彼女は姿勢を正して、ゆっくりと頭を下げて。 「あの日は助けてくださって、ありがとうございました。  これからは、過去の後悔に目を向けるのではなく、あなた自身の幸せを追い求めてくださいませんか。  あなたが幸せになった時。いつの日かきっと、私はあなたを殴りに行きます。  そのためにも――どうか」  そう言ったんだ。  俺は、人目を気にせずぼたぼたと両目から涙が出るのをそのままに、何度も何度も謝罪したよ。    彼女が何と言おうとも、犯してしまったことは決して赦されないと思う。  じゃあ俺に何ができるかって言えば、俺の人生を必死で生きるしかないんだよな。  そう心に刻みながら、無様に涙の海で溺れていたよ。 ***
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