二章 反撃:彼女にとっての生物学

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二章 反撃:彼女にとっての生物学

 生物統計学の講義が終わると、利玖は第二部室棟に向かった。温泉同好会の部室がある第一部室棟から、少し東門寄りの所にある。  第一部室棟と違って、二階がない平屋造りだが、代わりに一部屋が広い。学生の行き来が多い区画から離れている為、演劇サークルなど、活動にあたって音を発する機会が多いクラブの部室はこちらの棟にまとまっている。  バンドサークルの部室の戸を叩くと、中から熊野史岐が顔を出した。  植え込みの葉が真っ白に光って見えるくらい、朝から陽射しの強い日だったが、基本的にどの部室にもエアコンはついていない為、史岐も今日は袖口の広いTシャツを着ている。 「あれ。よくここにいるって分かったね」 「あなたのファンクラブ会員の誤解を解くついでに伺いまして」 「芸能活動をした覚えはないんだけど……」  史岐は部室の中に利玖を招き入れた。今、部室にいるのは彼一人のようだ。  バンドサークルの部室と聞いて、ミュージシャンが曲を収録するスタジオのような設備があるのを想像していたが、彼らの活動内容を窺わせるのは壁際に積み上げられた楽器のケースや、マイクスタンドくらいのものだった。あとは事務机が二つと、古びた本棚が置かれている。本棚の中身は、ほとんどが流行(はや)りの漫画の単行本だった。  温泉同好会の部室とさして変わらないレイアウトを見て、きっと本格的な練習をする為の場所は別にあるのだろう、と利玖は思った。  史岐は事務椅子に腰を下ろして、利玖にも座るようにすすめた。  机の上には、講義中に配られた資料と思しきモノクロの印刷物と、A4サイズのルーズリーフ用紙が広げてある。ざっと見ただけでは詳しく分からなかったが、プログラミングについて書かれた物のようだ。 「今、大学に来た所?」 「いえ。生物統計学の講義を受けてから来ました」  史岐は、ぽかんと口を開けた。 「講義って……、その状態で? 昨日の今日で一限に出たって事? 僕が言うのも何だけど、恐ろしい精神力だね」 「恐ろしいのは棚田先生の講義です。一度休んだだけで、試験の問いの意味すらわかりなくなります」  利玖は「それはさておき」と言って、シャツの襟を引いて、首につけたチョーカーを見せた。 「昨日、噴水の前で起きた事については、あなたの言い分を信じてみようと思います。あんな嘘をついてもあなたに利益はありませんから」 「単に君とキスがしてみたかっただけかもしれないよ?」  利玖は答えずに、窓の外を見つめていた。史岐のからかいが気に障ったわけではなく、はなから彼の声など耳に入っていなかった。 「今、このチョーカーを外して、わたしがそうしろと命じたら」  昨夜から組み立てていた断片的な仮説を、再構築するように、慎重に言葉を選ぶ。 「池の魚は、水の外でも息をして生き(ながら)えるのでしょうか。西門のイチョウは、秋でもないのに黄葉して実を落とすのでしょうか」 「さすがにそれは無理。せいぜい、自分の生死を握っている人間に『やらなきゃ殺す』と脅されるようなものだね。その生物の体の限界や、物理法則を超越する事は出来ないよ」 「では、自死を強いる事は可能なのですね」  史岐の指がぴく、と動いた。 「肺で呼吸して生きていけるように、体を作り変える事は出来なくても、渾身の力で池の外に飛び出すように命じて、放っておく事は出来るのでしょう」  史岐は、長く息を吐き出すと、億劫そうに立ち上がった。  そして、戸口まで行き、中から鍵を掛けると、脇にある小窓にカーテンを引いた。 「君が憑かれたのは『五十六番』だよ」  史岐は振り向き、自分の喉に手を当てた。 「同じ妖が僕の中にもいる。本体はこっちで、君の中にいるのはいわば半身、といった所かな。熊野の血筋以外の人間が憑かれると、君みたいに本来の声を失う」  利玖は、表情を変えず、視線も史岐に据えたまま、部室の作りを冷静に頭の中に呼び起こした。  窓のロックは一つだけ。入ってきた時には開いていたが、席に着いたのと同時に史岐に閉められた。会話が外に漏れないように気を回してくれたのだろうと解釈した自分は、少しお人好し過ぎた、と思う。  だが、窓には外側に柵が取り付けられていない。ロックを外して、外に出る事さえ出来れば、昨日のように逃げ切れる。 「なんという情報量。抜き打ちの大特価タイムセールですか? 生憎とこちらの手持ちが少ないのが残念ですが……」  史岐の視線がわずかに逸れた隙をついて、利玖が窓のロックに手を伸ばした瞬間、史岐の足が、入り口近くの自立式の灰皿を蹴り倒した。  金属製の灰皿がコンクリートの床に叩きつけられて立てる、けたたましい音に、利玖は思わず動きを止めてしまった。 「やっぱりお嬢様育ちだな。これぐらいの物音で()じ気づくんだから」  史岐は、震えている利玖に近づき、頭上に覆いかぶさるようにしながら窓のロックを手で押さえた。 「佐倉川って名前を聞いた時から、もしかして、って思っていたけど、君の実家、地下に図書館が丸ごと一つ埋まってたりする?」  利玖は答えなかった。  兄から、もしこういう事態になったら、知っている事を全部話して身を守っていいと言われていたが、とてもそんな気にはなれなかった。 「次から次へと……、大盤振る舞いですね。言ったでしょう。わたしは何も払えませんよ」 「いいよ。半身を返してもらったら、君には全部忘れてもらうから」  利玖はつかの間、息が出来なかった。 「……あっさり自分が堅気の者ではないと告白しましたね」 「そりゃあね。家同士の問題になったら僕一人の手に負えないもの。その前に幕を引けるなら多少乱暴なやり方だって選ぶさ」  それを聞き、利玖は妙に冷静な心で、なるほど、と思った。  佐倉川家は、たいした権力も富も持たないが、ある特異性から一部の界隈には名の知れた旧家である。  次代当主には兄が内定している。一方、利玖は、母から一通りの礼儀作法は仕込まれたものの、進学の為に実家を出たいと言ってもほとんど反対されなかったし、今でもこうして自由気ままな一人暮らしを許されている。  家がどうのこうのといったしがらみとは無縁でいられる分、情報も与えられていなかった。熊野という姓を聞いても、思い当たる事は一つもない。──急に、その事が無性に悔しくなった。 「あの」 「ん?」 「食堂のテーブルにネズミが登ってきたら、声を上げてしまいますよね。『こっちに来ないでほしい』と思いながら」 「……は?」史岐が固まった。「え、何。ネズミ?」 「今年から二年生ですので、フィールドワークがあります。得てして生物とは、人間が思った通りの動きなどしてくれないものです。ましてや、たかが学部二年生の立てた仮説など……」  史岐は興を削がれたような顔で、椅子に座り込んだ。 「……あ、すみません。こういう話はお嫌いですか」 「いや、別に、嫌いとかじゃなくてね」 「そうですか。まあ、そういうわけで、観察対象がなかなか思った通りに動いてくれないとします。予想と結果が大きく違えば、それはそれでレポートの書き甲斐があるというものですが、そもそも観察自体が成立せずにお手上げ、という事もざらにあります。わかっていただけますか?」  本当はちっともわかっていなかったが、史岐は面倒臭くなってきて投げやりに頷いた。記憶処理を施す罪悪感も少し手伝って、気が済むまで喋らせておこう、という気になっていた。 「観測者としては、仮説を立てた以上、多少は『こういう風に動いてほしい』という思いが生じる事でしょう。いえ、生じます。これまでも幾度となく、実験室でそういう学生の叫びを耳にしてきました」 「そいつは大変だ」  史岐は、今日の十七時までに提出しなければならないレポートがまだ完成していない事を思い出す。資料に目を落としていても、特に昨夜の一件以降は、考えが分散してしまって進まなかったが、今なら難なく書き上げられそうな気がした。 「わたしがそんな風に、身勝手で、横着した思いを口にするだけで……、あるいは、誰かの愚痴に同意しただけで、ある生物の行動が変わってしまう可能性があるという事ですよね」 「まあね」  史岐は利玖の方を見るのも諦めて、講義中に配られたプリントをめくっていた。もう片方の手でペンを持ち、コツコツとノートの紙面を打つ。  いつもこうだ。書きたい事は何となく頭にあるのに、最初の一文が出てこなくて、書き出すまでに何十分も使ってしまう。 「生物学の答えは、いつでも目の前に用意されている」  史岐は、紙面に目を落としていたので、利玖がどんな表情でその言葉を口にしたのかを見る事はなかった。  それでも、声の質が少し変わったように感じて、顔を上げると、利玖は恐れのない瞳で史岐を見つめていた。 「曽祖父の言葉です。わたしが生まれてすぐに亡くなりましたが、生前は、こことは別の大学で生物学の講師をしていました」  利玖は言葉を切って、窓の外に目を向ける。  閉め切っているせいで、室温は緩やかに、だが確実な上昇を続けている。Tシャツ姿の史岐でさえ暑苦しさを感じているのに、長袖のジャケットを着ている利玖は汗ひとつかいていなかった。 「生物学は、読んで字の如く生き物に向き合う学問です。しかし、どのような生命体に対しても、彼らがなぜそのように生き、交わり、()えるようになったのか、直接問うて答えを得る事はできません。わたし達が見ているのは、果てしなく長い生命史のほんの刹那に発露したひとつの結果だけで、そこに至るまでの無限回に等しいくり返しも、種の盛衰を決めるような揺らぎの発生も、(じか)に観測する事は出来ないからです」  利玖は、そっとチョーカーに触れた。 「たかがわたしという存在の、ほんの一言で、本来その生き物が取り得る事のない行動をさせてしまえるとしたら……、いくつの種の、何千万年の揺らぎが犠牲になるのか、見当もつきません」  いつの間にか、史岐は食い入るように利玖を見つめて、彼女の話に聞き入っていた。  史岐は、情報工学専攻の学生である。生物学は、高校の時に試験対策でざっと勉強したぐらいだ。  それでも、利玖の話を聞き終えた時には、それが途方もない望みだとわかっていてもなお生命史のすべてを知ろうともがく、彼女の熱が自分にまで伝わってきたような、奇妙な高揚と気だるさが体を包んでいた。  しかし、すぐにその感覚は霧散した。そして、どうやら利玖は、生き物を思い通りに操るこの力を手放したがっているらしい、というつまらない思考が戻ってくる。 「わかってくれて嬉しいよ」  なるべく優しい印象を与えるように操作された自分の声が、利玖に向かってそう言うのが聞こえる。  利玖は頷き、チョーカーを外した。  そして、それを手に握ったまま、かすかに口を動かした。 「…………!」  伸ばしかけた手が、ワイヤに絡め取られたように、それ以上先に進まなくなった。  青ざめる史岐の前で、利玖は再びチョーカーを着ける。 「わたしへの一切の接触を禁じてみました。宿主にも効くとは気前のいい妖ですね。それとも、その気質は宿主に似たのでしょうか?」  利玖は伸びあがって窓を開けると、風を顔に受けて、気持ち良さそうに深呼吸をした。  リュックサックからハンドタオルを取り出して、顔の周りをぽんぽんと押さえるように汗を拭くと、史岐のペンを手に取ってカチリとボタンを押し込んで芯を出した。 「何か、色々と気負われている事がお有りのようですが、こういう事柄に詳しいのはあなただけではありません。わたしはわたしで伝手(つて)がありますので、満足するまでは、しばらくこのままの状態で調べてみようと思います。他の解決方法を思い出した時にはご一報ください」  ルーズリーフの端に携帯電話の番号を書きつけると、利玖は律儀に一礼して、きちんと扉を閉めて部室から出て行った。  彼女の後を追って外に出る事が出来たのは、それから十分近く過ぎた後だった。  昼飯時になった構内は学生でごった返していて、いくら探しても、利玖の姿を見つける事は出来なかった。
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