三章 人面の鹿神

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「順番が違った」走りながら、匠はそう口にした。「梶木君が足の汚れに気づいたのは、遥さんの発言の後だ」 「わかるように……、言ってくれませんか……」  史岐が苦しそうに言う。体調がすぐれないのを押して、足元の悪い草地を走っているせいもあるだろうが、それを差し引いても、この三人の中では一番運動慣れしていないようだった。 「ここの土地神は、自分の存在を肯定した人間に対して、より強い影響力を発揮する。汐子さんは潟杜にいる間も、臭いや足音を感じていたし、縞狩に来てからはさらにはっきりと『異質な物がいる』と認識させる事に成功している」  濡れそぼった草の上を、何かを引きずったような跡が森に向かって続いている。その跡が藪に入り込む所では、押し分けられた枝葉の一部がまだ元に戻りきらずに、不完全な通り道として残っていた。  匠は、その周囲を手で広げて道を作りながら、話を続けた。 「体育館で異変が起きた時、遥さんは『もし本当に誰かが増えているのだとしたら』と言っている。汐子さんの次に、土地神の存在を肯定したのは、彼女だ」 「じゃあ、部長さんは関係ないのですか?」体を屈めて、棘の生えている枝の下をくぐりながら、利玖は訊いた。 「梶木君は、下見の帰り道で急ブレーキに驚いて起きただけだ。ぶつかった所は見ていない。今思えば、隠れ(みの)にされたんだろうね」 「でも、遥さんの言った事は、ただの仮定じゃないですか」納得していない様子で史岐が言う。 「それでも、言葉に出してしまった時点で決まったんだよ」  最後に自分が通り抜けた後、枝葉を元に戻しながら、匠は自らに言い聞かせるように呟いた。 「妖に関わるなんていうのは、基本的に、理不尽な事なんだ」  ぬかるんだ地面に残された足跡をたどって、獣道ですらない藪の中を進んだ。  草木はまだびっしりと朝露をつけていて、服も靴も、あっという間に水を含んで重くなった。その上、霧で日光が遮られて、空気はまだ夜の冷たさをしっかりと残している。十分に睡眠を取った利玖でさえ、藪を抜ける頃には、ガチガチと歯が鳴っていた。  藪の向こうには、湿地帯が広がっていた。  ぽっかりと木立が途切れて、刃のように鋭い葉が腰の高さまで茂っている。所々に、平べったい大きな葉が皿のように開いていた。 「──縞狩の主!」  ふいに、匠が声を上げた。  利玖は、驚いて振り向き、それから慌てて彼の視線を追った。  湿地帯をふち取る、うっそうとした草むらに入ろうとしていた存在が、足を止めてこちらを振り向いた。  体は鹿よりも二回りほど大きい。  枝分かれした、節のある立派な角が、優美な曲線を描いて後方に伸びている。体毛は、朽ち葉のような白みを帯びた褐色だった。  敵意は伝わって来ない。  ただ、じっと、こちらが何をするつもりなのかを窺っている。  それだけの事が、息をするのも躊躇われるほど恐ろしかった。  縞狩の主の胴が奇妙に膨らんでいる事に気づき、利玖は、そっとそちらに視線を動かした。──その膨らみは、東御汐子の体だった。体毛から、(つる)のような紐状の物体が伸びて、ぐったりとした汐子の体を抱え込んでいる。汐子の片腕の先と膝下は地面に接触して、引きずられている状態だった。  匠が、一歩、前に進み出た。 「その娘が姿を消せば、山には大勢の人間が立ち入り、荒らされる。  数日のうちに必ず準備を整えて、あなたを拝礼する儀を行うと約束する。どうか、その子の事は諦めてくれ」  縞狩の主は、品定めをするように首を振りながら匠の言葉を聞いていたが、再び静寂が辺りを包むと、興味を失ったように、ふっと暗い草むらに足を向けた。 「待っ……」  匠が言いつのろうとした瞬間、止める間もなく、後ろから史岐が飛び出した。  草に隠れた水溜まりに足を取られて、何度も体勢を崩しそうになりながら、湿地の中央近くまで進むと、その場にしゃがみ込んだ。そして、胸元から何かを取り出した。  利玖は、史岐の手元に目を凝らした。  その手に握られているのは、いつも彼が吸っている煙草だった。 「すべて、潟杜で採れた物で作った煙草です」  一句ずつに力を込めながら、史岐は言う。 「熊野の血筋で、妖を継いでいる者だけが吸う事を許される特別な代物です。あなたにお納めします」  縞狩の主は、体の向きを変えると、じゅく、じゅくと草を踏みながら、史岐に歩み寄ってきた。  彼の体に結わえ付けられている東御汐子とも距離が縮まる。雨にさらされ、濡れた髪が張り付いた汐子の顔には、血色がなかった。  縞狩の主が、史岐に向かって首を伸ばした。  獣ではない、面のような翁の顔が、その先についていた。目があるはずの部分では、皮膚が分厚くたるみ、太い皺のようになっている。 「……この山だけじゃない。今まで、あなたのような神格(しんかく)や、大勢の妖がいた場所は、人間の手によって姿形を変えられて、元々はどんな土地だったのかさえ忘れられようとしている。あなた達を敬う気持ちを、祝詞(のりと)や儀式にして伝える事はなくなってしまうかもしれない。  だけど、多くの人間の心には、まだ、山への(おそ)れが残っている。誰に教えられなくても、生きものから生まれて、死んでゆく存在である限り、自分達にはあずかり知らない世界への恐れと懐かしさを抱いている。……あなたに車をぶつけてしまった汐子さんが、その事を誰にも相談出来ずに、ずっと一人で罪悪感を抱いていたように」  史岐は、煙草を示すように高く掲げてみせ、それからゆっくりと足元に置いた。 「汐子さんも僕達も、ずっと覚えている。山を離れて暮らしていても、畏敬の思いを抱き続ける。だから、どうか、これで手を打ってくれ。彼女を、人間の世界から引き離さないでくれ。……頼む」  縞狩の主は鼻先を低くして、煙草の匂いを嗅ぐような仕草をすると、真っ黒な舌を伸ばして煙草を絡め取った。そして、ごくん、とそれを飲み込むと、史岐を見据え、わずかに顎を突き出した。  その瞬間、胴の蔓がいっせいに緩み、東御汐子の体が地面に投げ出された。  衝撃によって意識を取り戻した汐子は、呻き声を上げると、背を丸めて咳き込んだ。  史岐が飛び出していった瞬間からずっと、身動き出来ずに立ち尽くしていた利玖と匠は、その苦しげな声によって、膜を破られたように極度の緊張から解放された。  利玖と匠が汐子の所までたどり着き、ひどい怪我を負っていないか調べている間も、史岐はこちらを見なかった。  こめかみから首筋へ、幾度も幾度も、透きとおった水滴が盛り上がっては滑り落ちていく。  利玖は、そこで初めて、縞狩の主と邂逅した時から雨が止んでいた事に気がついた。  史岐は、全身に異様な汗をかいていた。  限界まで引き絞られた弓弦(ゆづる)のような眼差しで、いつまでも、縞狩の主が悠然と草の間を進み、吸い込まれるように消えていった草むらを見つめていた。
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