三章 半日余りの船旅

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 十八時半になると、二人は部屋を出て、売店や展望デッキを見て回りながら食堂に向かった。  夜を迎えた船内は、昼間とは打って変わってラグジュアリィな輝きに包まれていた。  利玖達に割り当てられたツインルームがあるのは六階で、四階から始まる旅客デッキの最上層にあたる。その三階層を貫く形で、中央部は階段を備えた見事な吹き抜けになっていた。手すりから少し顔を出すと、四階にあるインフォメーション・コーナーのパネルや、パブリックスペースのソファを見下ろせる。  星図を思わせるランダムな配置で天井に埋め込まれた丸い照明の下を、二人は並んで歩いた。  道すがら、利玖はポシェットから取り出した財布を覗き込んで、(こころ)(もと)なさげな顔つきになった。 「こういう所の食事って、きっと相場より高いですよね」 「まあ、安くはないだろうね……」  いくら事前の取り決めで、経費は全額、美蕗──ひいては槻本家が負担する事になっているとはいえ、大学生が三人、雁首を揃えて年下の女学生に食事をおごってもらう場面を想像すると居たたまれない。しかし、相手が美蕗では、自腹を切らせてくれと頼むのも恐ろしい気がする。  いざとなったら、適当な理由をでっち上げて、美蕗がいる間は安い飲み物だけで場を凌ぎ、あとでこっそり自動販売機のホットスナックを買いに行こうと決めて、二人は食堂の入り口脇で美蕗達を待った。  美蕗と柊牙は、十九時ちょうどに現れた。  美蕗は、袷を纏っていなかった。人目を気にしての事ではなく、単に、雑多な食堂で汚れがつくのを嫌ったのだろう。それに、袷を脱いだ所で、私服の大学生の中に一人だけ黒ずくめのセーラー服の少女が混じっているという状況には変わりないので、すでに十分過ぎるほど目立っていた。 「部屋の使い心地はいかがかしら?」  利玖が「とても良いです」と答える。 「ベッドもふかふかですし、いつでもテラスから海を眺められるのが何と言っても最高です」 「それは何よりだわ」  美蕗は微笑み、それから史岐に向かって、厚みのある封筒を手渡した。 「メニューにカレーライスがあったわね。それを四つ取って来てくれるかしら」  封筒の口を少し開けて中を覗き込んだ史岐は、ぎょっとして美蕗にそれを突き返した。 「(さつ)の種類間違えてるぞ」 「間違えていないわ」美蕗は涼しげな表情で髪をはらう。「余った分は向こうに着いてから使いなさい。日帰りとはいえ色々と入り用でしょう?」 「日帰りでどうやったらこれだけの額を使うんだよ」 「矢淵宅にはわたしと柊牙さんの二人で向かいます。もちろん送迎は、史岐、あなたにお願いする事になるけれど、それとは別にやってほしい仕事があるの。その分の色も付けてあるものと思って頂戴」 「色って……」  史岐はなおも言いつのろうとしたが、結局、壮絶な表情で唇を噛むと、封筒を持って券売機へ向かった。その哀しげな背中を見て、利玖も潔く抵抗するのを諦める。  空いているテーブルを探して三人で席に着いた途端、柊牙が倒れ込むように机に突っ伏したので、利玖はびくっと身を引いた。 「……船酔いですか?」  声をひそめて、美蕗に訊ねる。うつぶせになっているので表情はわからないが、柊牙の全身からは、一切の干渉を拒絶する意思が滲み出ていた。  美蕗は軽く首をかしげただけで答えなかった。  しばらくすると、史岐が、四人分のカレーライスが乗ったトレイを両手に持って現れ、柊牙の様子に気づくと「おい」と言いながら彼の足元を軽く蹴った。 「やめろ……、揺らすな」柊牙が呻き声を漏らす。 「そうされてると皿が置けないんだよ。ほら、起きろ」  柊牙はむっくりと体を起こしたが、他の三人が食べ始めてもスプーンを手に取る事すらせず、木目でも数えているかのようにじっと机に目を落としていた。  何を訊かれても生返事だったが、美蕗が、 「食べ終わったら先に戻っていて構わないわよ」 と言った途端、目の色を変えた。 「それ、本当に?」 「ええ」  美蕗はスプーンを置き、紙ナプキンを口元に当てる。 「食べ終わったら、利玖さん達に入港後の段取りを説明します。あなたには、もう部屋で話したでしょう? 同じ話を二度聞かされるのも退屈でしょうし、わたしが戻るまで眠るなり、煙草を吸うなり、好きに過ごしていていいわよ」 「うわあ……」  柊牙は感極まった様子で手のひらを打ち合わせると、スプーンを握り、猛烈な勢いでカレーライスをかき込み始めた。  利玖と史岐がぽかんと見つめる前で、一度も皿を置く事なくカレーライスを平らげると、 「じゃあ、戻ってちょっと寝る」 とだけ言い残して食堂を出て行った。  利玖と史岐は、無言で顔を見合わせた。  何らかの異常が起きている事は自明である。  原因は言うまでもなく、目の前で優雅にカレーライスを口に運んでいる少女であろう。 「明日の予定を説明するわね」  食べ終えると、美蕗は早速切り出した。  といっても、彼女はスプーンの先にほんの少しだけ乗せたルーとライスを、雲上人みたいにゆっくりとした動作で食べていたので、その頃には利玖達の皿はすっかり空になっていたし、食堂の客も、初めにいた数の半分くらいにまで減っていた。 「小樽に着いてもすぐには移動しません。朝の四時半では、どこを訪ねても非礼になってしまうわ。店も開いていないでしょうし、どこかに車を停めて時間を潰すのが良いでしょうね」 「ずっと港の駐車場にいていいのか?」  史岐の問いに、美蕗はにっこりと微笑む。 「場所はどこでも、あなたの好きな所で結構よ」  史岐は息をつき、視線をわずかに上へ向けた。おそらく、美蕗にとってそれは「良きに計らえ」と同義の言葉なのだろう。 「九時になったら、わたしと柊牙さんを矢淵宅まで送ってもらいます。明日は義兄の隆俊(たかとし)さんしかいらっしゃらないそうだけど、柊牙さんが直接話して約束を取り付けたから大丈夫。魚の怪異に取り憑かれて困っているだなんて言うわけにはいかないから、食事会の時に大事な物を忘れてきてしまったようなのでそれを取りに行かせてほしい、という口実だけれど」 「迎えは何時に行けばいい?」 「さあ……、どうかしら」美蕗は首をひねる。「そう簡単に再訪出来る場所でもありませんし、打てる手は一通り打っておきたいわ。義兄さんからもお話を伺いたい。そうなると、一時間じゃ済まないかしらね」 「あの……」利玖が控えめに発言した。「先ほど、史岐さんに頼みたいお仕事があるとおっしゃっていましたよね。わたしは別行動を取った方がいいでしょうか?」 「いいえ、構わないわよ。人目を避けなければいけないような仕事ではないもの」  そう言うと、美蕗はおもむろに立ち上がった。使い終わった食器には触れようとさえしない。  それらは史岐が嫌々、しかし、過去に何度となくそうしてきたのだろうといった風情で、自分の皿とまとめて重ねた。
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