三章 半日余りの船旅

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 矢淵(やぶち)隆俊(たかとし)夫妻が暮らす家は、小樽市から海沿いに五十キロメートルほど西に進んだ漁村の中にあった。 『新千歳から行くよりかずっと近いぜ』 とは柊牙の談だが、それでも小樽市から一時間はかかる。ハンドルを任されている史岐は、彼の口から語られる距離についての認識をひそかに改めた。  (なぐ)()は海のない県である。利玖も史岐も、漁村と聞いて具体的なイメージを描く事が出来ないまま向かったが、穏やかに光る海が近い事もあって、思っていたよりもずっと雰囲気の明るい一画だった。  カーブをくり返す道路の海側には、砂利敷きの浜や、獲れた魚介類を加工する工場のような建物がある。時折、漁船が何隻かまとまって係留されているのを見かけた。  反対側には住宅街が広がり、こぢんまりとしていながら、外装の真新しい家屋が並ぶ。矢淵宅もその例に漏れず、立派な二階建てだった。  路肩に車を寄せて停める。  車を降りる直前に、美蕗は玩具のような色で塗られたインスタント・カメラを史岐に渡した。専用フィルムを内蔵し、撮ったその場で写真を現像できる物だ。  史岐は、何を渡されるか事前に予想がついていたようで、戸惑う様子もなくカメラを受け取ると、適当な遠景にレンズを向けてシャッターを切った。 「美蕗さんのご趣味なのですか?」利玖が訊ねる。 「ええ、あくまで手段だけれど」美蕗はふと、いたずらっぽい表情になると、窓枠に手をついて利玖の顔をのぞき込んだ。「利玖さんにも何枚かお願い出来るかしら。史岐に持たせていると、ああやって何でもかんでも撮ってしまうのだもの」 「動作確認だよ」史岐はカメラを下ろすと、後ろへ体をひねって柊牙に声をかけた。 「平気か?」 「……ん? ああ、まあな」  柊牙は、心ここにあらずといった様子で矢淵宅を見上げている。来る前の口ぶりでは、義兄相手に拳骨一つも食らわせかねない勢いだったが、今はなんだか上の空だった。 「無茶するなよ」 「わかってるって」  柊牙は笑って、片手を振ってみせた。  史岐達は、見通しの良い脇道で(ユー)ターンをして来た道を戻った。  途中に、誰も車を停めていない、海の方へせり出した駐車帯があったので、そこに入って今日の予定を立てる事にする。 「柊牙さん達、警察沙汰にならないでしょうか……」  携行缶から出したドロップスを口の中で転がしながら、利玖は呟いた。臨海公園を出てから、もう三時間以上経っているし、史岐が隣で新鮮なレタスとチーズを挟んだサンドイッチを頬張っているのを見ていたら、小腹が空いてきたのだ。 「大丈夫じゃないかな」 「でも、史岐さんも心配されていたでしょう」 「体調が良くなさそうだったからね」  史岐はサンドイッチを持ったまま、片手で器用に缶コーヒーの栓を開けた。 「あんな事を言っていたけど、別に、犯人捜しをする気はないと思うよ。案外、家族を大事にしている奴だからさ」 「相手に非があるとはいえ、ここで柊牙さんが暴れたら、お姉さんのご結婚に泥を塗る結果になりかねない、と……」 「そういう事」  史岐は熱いコーヒーに口をつけて、幸せそうに目を細めた。 「だから、あっちは柊牙に任せて、僕達はのんびり観光でもしていればいいんじゃないかな」 「観光するといっても、もう前金を受け取ってしまいましたよ」  利玖は、美蕗のインスタント・カメラを顔の前に掲げる。史岐は「後部座席に放っておいていいよ」と言っていたのだが、借り物だし、撮影も現像もこなせる複雑な機械だから、ちょっとした衝撃で壊れてしまうのではないかと、利玖が自ら申し出て大事に膝の上で抱えていた。 「それも大丈夫」サンドイッチの最後の一欠片を口に放り込んで、史岐は残ったビニールの包装をくしゃくしゃと丸める。「どこか景色の良い所で、何枚か写真を撮ってくればいいだけだから。観光ついでに済ませられるよ」  利玖が瞬きをしているのを見て、史岐は面白そうに微笑んだ。 「意外だって思った?」 「はい……、少し」 「ああ見えて、綺麗な物は素直に気に入るんだよ。風景画とか写真、造りが細かい工芸品なんかも集めて手元に置いている。いつも羽織っている着物だって、その一つだよ。二回以上袖を通される物はほとんどないんじゃないかな。利玖ちゃんの家にある書庫みたいに、槻本の屋敷には、市民ホールぐらい大きなウォークイン・クローゼットがあるのかもしれないね」  真偽の程はともかく、そんなに大きな衣装箪笥に片っ端から服を詰め込んでいたら、好むと好まざるとにかかわらず過去に袖を通した物を探し出すだけで丸一日かかるだろう、と利玖は思った。  しばらく、カメラを色々な角度から見回して、利玖は前方に目を移した。  車は西向きに停まっている。フロントガラスの向こうでは、沿岸地帯が悠大な左カーブを描いて奥に伸びていた。陸地は、途中で一度、大きく海側に突き出して、その部分が高さのある岬になっている。  遠浅の地形なのだろう。見えるか、見えないかという薄さの岩影が、滲んだインクで記したモールス符号のように海面に張り付いている。それはやがて、沖の方で、ひときわ大きくそびえる蝋燭のような形の奇岩に突き当たった。  利玖は、史岐の腕をつついて注意を引いてから、その蝋燭岩を指さした。 「あれ、見に行きます?」
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