三章 半日余りの船旅

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 インターホンのボタンを押すと、ジーッと耳障りな呼び出し音が鳴って、マイクが接続される雑音が入った。 『やあ、柊牙君。いらっしゃい』  ボタンの近くに付いている小型カメラでこちらの姿は見えているのだろう。矢淵隆俊は初めから、玄関先にいるのが柊牙達だとわかっているようだった。 「お久しぶりです。朝早くにすみません」 『いやいや、構わないよ。元々休みだったからね』  慌てて身支度を整えているのか、声の後ろで大小様々な物音がしている。 『そちらにいるのが、例の教え子さんかな?』 「はい。家庭教師で数学を教えている槻本さんです」  すらっと口から嘘が出た。 「はじめまして」美蕗がインターホンに顔を近づける。「槻本美蕗です。急に押し掛けて、ごめんなさい」  別人のように無垢な声音だった。いつもよりもほんのわずかに舌足らずで、あどけない印象も与える。彼女の年頃を考えれば、そちらの方がよほど自然なのかもしれないが、普段の振る舞いを知っている柊牙は、思わずカメラに映らないように顔を逸らしてべっと舌を出した。  美蕗は学校の文芸部に所属しており、取材の為に北海道を訪れた、というのが彼女のしつらえた設定だった。そう銘打てばたいていの場所に潜りこむ理由を用意できるし、加えて彼女には、どんな人間もひと目見た時に惹き付けられずにはいられない美貌がある。 「次の部誌に、北海道を舞台にしたお話を載せたいと思っておりまして、柊牙さんに無理を言って同じ船に乗せていただいたんです。よかったら、矢淵さんにも少しお話を伺えますか?」 『ああ……、いや、それはもちろん構わないよ』たとえカメラ越しにでも、見つめられて悪い気はしなかったのだろう。矢淵隆俊の声が若干上ずった。『だけど、僕みたいなつまらない男の話が参考になるかなあ』 「そんな事はございませんわ。嬉しい。よろしくお願いしますね」  美蕗はとびっきりの笑顔で会話を締めくくった。  カメラの接続が切れて、隆俊から自分達の姿が見えなくなると、その表情から、見る者の庇護欲を煽る為に演出されていた蠱惑的な要素の一切が消え去った。 「見事なもんで」 「褒められるほどの事ではないわ」  柊牙は肩をすくめ、ため息をつく。 「船の中でも話したけど、佐倉川のお屋敷でああ言ったのは言葉の綾っていうか、勢いで出ただけで、犯人捜しをする気はないんだよね」 「あなたにその気があろうとなかろうと、どうでもいい。わたしが知りたいの」 「ああ、そう……」  実際に、フェリーの運賃から史岐の車のガソリン代に至るまで、すべての支払いを彼女に任せてしまっている為、それ以上強く言えない柊牙である。  すぐに家のドアが開き、矢淵隆俊が現れた。  ふっくらとした体型で髪は黒い。どこか()()(やく)を感じさせる、(ふく)(ふく)しい顔立ちで、荒事とは無縁の人生を送ってきたのだろう、という印象を与える。つまり、柊牙に言わせれば、内面と外面の間にほとんど差異(ギャップ)が存在しない。休日だというのにきちんと糊の効いたシャツを着ていたが、それがかえって、体格の良い柊牙と並んだ時に、垢抜けない中学生のように見せてしまっていた。  中に入ると、見かけよりも、ずっと広さを感じさせる家だという事がわかった。  壁材や床板が新品らしい輝きを保っている一方で、階段の手すりや箪笥、電話台などには、何代にも渡って使われ続けた調度品にしか宿らない厳かな生命力があった。普通、住宅街に並ぶような一軒家にこういう家具を置いても、そうは馴染まないばかりか、空間の方がかえって圧迫されてしまうものだが、矢淵宅は元の敷地面積の広さを活かして部屋も廊下も贅沢に幅を取ってあったので、狭さは感じない。 「僕も探してみたんだけど見つからなくてね」二人をリビングのソファに座らせながら、矢淵隆俊は人差し指と親指で二センチほどの幅を作る。「このくらいの大きさで、銀色なんだっけ?」 「ええ。ステンレスのプレートです」 「そうかあ……、畳の間に落ちちゃったのかな」  交際相手とお揃いで購入したペンダントの飾り部分をなくしてしまった、というのが、柊牙がでっち上げた再訪理由だった。  そういう相手がいる事を母や姉に知られて、あれこれと訊かれるのが恥ずかしいので、自分が取りに来た事は誰にも秘密にしておいてほしい、と頼むと、人の良い隆俊はこれも快諾してくれた。  もちろん、そんな落とし物はしていない。さらに言えば、今の柊牙は誰とも明確に交際している状態にはなかったし、仮にそういう相手がいたとしても、ペア・アクセサリィを買って身に着けるような事はしないだろう。窮屈な服と同様に、じゃらじゃらとぶら下がって邪魔くさいアクセサリィも嫌っている柊牙である。  隆俊は、丸っこい手で、茶と焼き菓子をテーブルに並べた。 「ここだけの話、僕も昔、君のお姉さんからもらった腕時計を出先に忘れてきた事があってね。あの時はもう、火山が噴火したような剣幕で怒られたなあ」  それから、他愛のない世間話や、美蕗が即興で作り上げた文学活動の話をしながら茶を飲み、十分ほど経った所で、柊牙は隆俊に一言断ってから和室に向かった。夫妻の結婚を祝う食事会は、そこで行われたのだろう。リビングに接した引き戸が開け放たれているので、ソファに座っている美蕗からも、いかにも探し物をしている風を装って畳に手をついている柊牙の姿がよく見えた。 「どうだい?」 「いや……、ありませんね」  立ち上がった柊牙は、さりげなく美蕗に視線を向ける。美蕗が所望しているような成果は得られそうにないので、もう引き上げてもいいか、と訊いているのだ。  美蕗は(あわせ)の下でそっと手を持ち上げて、台所を指さした。  柊牙は舌打ちでもしそうに顔を歪めたが、隆俊に気取らせまいと思ったのか、咳払いでごまかした。 「すみませんが、台所を見てもいいですか? 片付けを手伝った時に落としたのかも」 「ああ、いいよ」  気乗りしていない足取りで台所に向かった柊牙が、流し台を見た途端、びくっと動かなくなった。  和室では、ひと所にとどまらずにあちこち見て回っていたのに、今は自らの意思で目を逸らす事が出来ないように、その場に凍り付いている。 「あ……、何か、まずい物でも置きっ放しにしていたかな」  腰を浮かせようとした隆俊の視界に、さっと、美蕗が体を割り込ませた。 「まがい魚の伝承は、別の土地から持ち込まれたものなのでしょうか?」 「えっ?」  突然の問いに、矢淵隆俊は目を瞬かせる。 「柊牙さんから伺ったんです」美蕗は(とろ)けるような眼差しで、たちどころに彼の注意を引き付けた。「次回作には怪異伝承を取り入れようと考えておりますの」 「あ、ああ……、なるほど」  隆俊は、紅潮した頬に手のひらをこすりつけながらソファに座り直した。 「先住民族アイヌの間では、動物は、天上の神々が獣の皮を被って下界に降りてきた姿である、という考えがあるそうですね。だから、ほとんどの生き物に『神』をあらわす《カムイ》という接尾がついている。この《カムイ》という言葉自体に善悪の区別はなく、悪しき存在や怪異を語る際にも用いられる。  その法則に当てはまらないのは、シカやサケといった、非常にありふれた食糧として認識されていたものや、本州から移り住んだ人々によって持ち込まれた怪異伝承など。……史料には、そう書いてあったのですけれど、間違いありませんか?」  隆俊は、熱にあてられたように、ぼうっとした表情で頷いた。 「いや……、これは、よくご存じで」 「これでも一応、失礼のないように下調べはしましたのよ」  隆俊は、にやっと笑うと、膝に手をついて身を乗り出した。 「じゃあ、まがい魚はきっと後者だろうな。……実の所、僕は、教訓を含めた創作なんじゃないかと思っているんですよ。食糧が限られていた時代に、大飯食らいが美味い物を独り占めしたら、村にとっては死活問題でしょう? それを防ぐ為に、美味いと思っても食い過ぎるな、まがい魚に体の一部を持っていかれるぞ、と、お化けを信じやすい年頃の子どもに言い聞かせていたんじゃないかとね」 「もっともなお話ですわ」  答えながら、美蕗は視線を台所へ向けた。  柊牙はまだ流し台を見つめている。  体の脇にぶらんと垂れ下がった手が、小刻みに震えているのを見ながら、美蕗はゆっくりと次の質問を口にした。 「矢淵さん。……奥様との出会いはどんな風でしたの?」  隆俊の顔が曇る。  彼が断る言葉を言い出せないでいるうちに、美蕗は声をひそめて素早くささやいた。 「わたし、まだ恋の以呂波(いろは)も存じません。全てが本当の事でなくても結構よ。……教えていただけません?」  矢淵隆俊は、ごくっと喉を鳴らした。  何かを探すように、片手をテーブルの上に彷徨(さまよ)わせ、レース編みのカバーがかかったティッシュボックスを探り当てると、何枚か中身を抜き取って鼻頭に当てた。 「昔の事とはいえ、薄情な奴だと思われても仕方がないけど……」  隆俊は、くぐもった声で、そう前置きをして話し始めた。 「今の勤め先に入ったばかりの頃、僕は別の女性と交際していた。でも、そんなに長く続いた関係ではなかったよ。……彼女が、海の事故で急に亡くなってしまったから。  絶望して、仕事も生活も投げ出そうとしていた僕を励まして、もう一度外の世界の明るさを教えてくれたのが、同じ部署で働いていた柊牙君のお姉さんだった」 「海の事故……」 「うん」  矢淵隆俊は、丸めたティッシュを、ぽん、とくず入れに放った。 「夜の間に起きた事でね。目撃者はいなかった」
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