一章 或る少女の見解

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 重厚なエンジン音を轟かせてアパート前の駐車場に入ってくる、モスグリーンのライトウェイト・スポーツカーを見ると、冨田(とみた)柊牙(しゅうが)は荷物を抱えて部屋を出た。  外階段を下っていく間にエンジンの音が止まる。駐車場に出ると、運転席側の扉が開いて、友人の熊野史岐が降りてきた。 「よお」  声をかけると、史岐は軽く片手を挙げ、サングラスをかけたまま空を仰いだ。 「晴れたな」 「おめでたい事にな」  史岐は、車体の後部に回ってトランクを開けると、柊牙に向かって、荷物をよこせ、と手で示した。 「いいのか?」 「うん。ちょっと物が詰まってて、工夫しないと載らないんだ」  史岐の愛車は二人乗りで、後ろの座席に荷物を置くという事が出来ない。トランクも、キャリーケースが一つ入るかどうかという程度の広さだ。しかし、その分、走る楽しさを突き詰めて設計されており、晴れた日に高原のような空気の良い所を、(ほろ)を開けて走り抜ける爽快感といったら、荷物の最大積載量などまったく問題にならないほどだった。何よりデザインが最高に良い、というのが、史岐と柊牙の間で共通している見解だった。 「まったく、嫌んなるぜ。親父もお袋もみっともないほど浮かれてやがる」 「いい相手なんだろう?」 「出世街道まっしぐらって感じだな」  車が国道に滑り出て、しばらく走った所で、柊牙は煙草を取り出して火を点けた。 「地元の大学をストレートで卒業して銀行に就職。品行方正、勤務態度は良好。上司からも客先からも信頼があついんだと。今回の旅費だって、半分は相手の家が出してくれたんだぜ? 姉貴にゃもったいねえよな」 「お前だって、就職先次第じゃ似たようなもんだろ」 「いやあ、一緒にされたかねえな」  柊牙は、史岐と同じ潟杜大学工学部情報工学科の学部三年生である。  所属しているサークルも同じで、ついでに言えば、史岐がボーカルを務めるバンドで、彼はベースを担当している。A4用紙の半分にも満たないレポートで単位が取れるような講義ばかりを選んで履修しているが、プログラミングの技術に関しては他の学生よりも頭一つ飛び抜けており、期末の成績ではいつも上位を維持していた。 「まあ、いいや。久しぶりに美味い魚が腹一杯食えると思えば」煙を吐きながら、柊牙はぼやいた。「いっぺんお前にも食わせてやりたいよ。潟杜の魚はひどいからな」 「海の近くなのか?」 「ああ。相手の父親が漁師なんだと」 「ふうん」  柊牙は北海道の出身である。今日は、夏休みを利用して、姉の結婚祝いの食事会に出席する為に帰省する所だった。  大学から南に向かって車で三十分ほどの所に、県内唯一の空港・潟杜空港がある。航空管制官が配置されていない、いわゆるレディオ空港だが、新千歳への直行便が一日に一度飛んでいた。  快適なフライトが期待出来そうな秋晴れだ。  風は穏やかで、雲はない。プリズムを通したように多彩な色を纏った陽射しが、車内にいても眩しかった。  顔の前に手をかざしている柊牙に気づくと、史岐は左手をハンドルから離してグローブボックスを指さした。 「そこに、サングラス……」  言いかけて「あ」と顔を引きつらせる。だが、遅かった。 「まじ? 気が利くじゃん」  柊牙は素早くグローブボックスを開けて、サングラスを取り出し、それを顔にかけようとして、手を止めた。  レンズの両端に、さりげない装飾がある。直線だけで作られた簡単な模様(パターン)だったが、シルバーの素材が使われていた。サングラス自体も、史岐がかけている物と比べるとやや小ぶりだ。 「これ……、女物か?」  返事がない。  隣を見ると、史岐は前方を睨んだまま下唇を噛んでいた。 「うわあ!」思いもよらない発見に柊牙は歓声を上げた。「何だよ、いつからだ? 休みに入ってから引っかけたのか?」 「その言い方はやめろ」 「お前……、顔赤いよ」 「うるさい」  柊牙は笑いを噛み殺しながら、サングラスをグローブボックスに戻した。  いくつか交差点を通り過ぎ、ようやく赤信号で車が停まると、史岐は大きく息をついてシートにもたれた。 「余計な事をするんじゃなかった」 「まったくだよ」柊牙の声にはまだ笑いが混じっている。「言われなきゃ、俺、こんな所開けなかったぜ」 「お前の目は、他と違うから……」 「陽を浴びたぐらいでどうにかなりゃしねえよ」  信号が青に変わる。  史岐は億劫そうに姿勢を戻して、車を発進させた。 「この間、出先で煙草を切らして……」  シフトノブを操作しながら、史岐は、ぽつ、ぽつ、と話し始めた。 「頭痛がひどくなって、起きられなくなった。梓葉(あずは)に何箱か渡したままにしていたのを思い出して、電話で呼び出して、持ってきてもらって……、そのサングラスを使っている子に受け取らせた」  柊牙は、思わず顔をしかめた。 「お前……、それ、喧嘩にならなかったのか?」 「ならなかった」 「どっちとも?」 「どっちとも」 「何でだよ」 「さあ……」  史岐は首をかしげ、何でだろうな、と呟くと、それきり黙った。  柊牙は、少し体を引いた。面白半分で始めた話だったが、どうも雲行きが怪しくなってきたようである。  (たいら)梓葉(あずは)と別れたと聞いた時から、実の所、少し心配していた。  本人にも自覚が生じるほど、史岐は異性から人気がある。その余波は柊牙にも及んでいて、たいして話が合うわけでもない女子からやたらと食事に誘われると思ったら、実は史岐狙いだったという事が何度もある。  単に見目が良いというだけではなく、意外に堅実な考え方をする所があって、礼儀作法も身に着けている。それだけで、異性を惹き付ける要素としては十分といえるかもしれない。しかし、柊牙は、もっと違う所に、彼が思慕を寄せられやすい理由があると思っていた。  一緒に酒を飲んだりすると気づくのだが、史岐は時々、ほんのわずかにだが、今の人生を投げ出したがっているような倦怠感を覗かせる事がある。  決してその思いを言葉にする事はないし、注意していなければ見逃してしまうほどの些細な感情の揺らぎなのだが、それだけに、気づいた時には強く記憶に残る。それが、同じように仄暗い思いを抱えた者に共鳴して、身をやつすほどの恋心を呼び起こすのではないだろうか。  そういう危うい性質を上手く覆い隠していたのが、平梓葉という存在だった。  同じ大学に婚約者がいて、しかも、相手が非の打ち所のない良家の令嬢だという事実は、それだけで強力な防御(ディフェンス)として機能するものである。なまじ彼女と婚約していた期間が長かったせいで、もしその話が立ち消えるような事があれば、待っていましたとばかりに四方八方から災難が降りかかるのではないかと思っていたが、あながち杞憂でもなかったらしい。  しかし、現実は、柊牙の予想とはやや異なっているようだった。 「お前の方が入れあげてんのか?」  問うと、考えるような間があった。 「……どうしてそう思う?」 「九回裏でフルカウントって感じの顔してるぜ」  しばらく、エンジン音だけが車内に響く。  やがて、史岐の肩が小刻みに揺れ始めた。 「フルカウント……」喉の奥で、くっくっと笑い声がしている。「お前、本当に上手い事言うよな」 「お褒めにあずかり光栄」 「まさにそんな感じだよ。どっちの勝利に貢献するのかはともかく、次の一手で(いや)(おう)なしに局面が動いて、ゲームが決まる。そう思ったら……」ガソリンスタンドのある交差点を右に曲がると、行く手に、空港に隣接して作られた公園のこんもりとした緑が現れた。「今までと、同じ気持ちじゃいられないだろう」 「別に、いいんじゃねえの? スコアをつけてるわけでもねえんだから。勝ち負けなんざ、見方によって後からいくらでもひっくり返る」  石造りの高架の下をくぐって空港の敷地内に入り、一般車用のレーンから駐車場に進んで車を停めた。  必要最低限の設備しかない空港だが、閑静な所で、童話の絵本に描かれるような木々に囲まれており、車を降りると、すっきりとした風が体を包んだ。 「今日、お前を送るのを引き受けて良かったよ」  別れ際に、史岐はどこか、憑き物の落ちたような顔で言った。 「そりゃどうも。俺は、羽田から乗ればよかったって後悔してるよ。姉貴ののろけ話より、お前らの馴れ初め話の方がよっぽど面白そうだもんな」 「馬鹿言ってないで、早く搭乗手続きしてこい」 「へいへい」  トランクからボストンバッグを取り出しながら、柊牙はふと、史岐を見て笑みを浮かべた。 「さっきの話に出てきた煙草だけどな。最後の一箱が見つからなかったんだろう? 洗濯物に紛れて、部屋のカラーボックスに入ってるよ。帰ったら探してみな」
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