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柊牙は、史岐が同意さえすれば本気で大浴場に行くつもりだったのか、着替えとタオルが入ったナップサックを持っていたが、史岐がとても熱い湯に浸かる事が出来るような体調ではないとわかると、ロビーに出て飲み物を買い、壁際の船窓沿いに置かれたおもちゃの積み木のような椅子に腰を下ろした。
食堂やファスト・フードのイートインスペースが近くにあって乗客の往来が絶えない為、声を抑えれば、会話の内容は雑踏に紛れて二人以外には聞こえなくなる。
「行きの船の中で何してたか教えてやろうと思ってよ」
柊牙はそう言うと、片手の指で枷のような形を作って唇の横に当てた。
「下顎の骨と聞いて、お前、思い当たる事はあるか?」
史岐が、顔をこわばらせて首を振ると、柊牙は苦笑しながら「人間のじゃねえよ」と付け足した。
「動物……、それも、オオカミみたいな牙のある獣の物だって言ってたな。その下顎の骨が、この海のどこかに沈められている『かもしれない』。船に乗っている間、起きている時間の全てを費やしてそれを探せっていうのが、槻本嬢からのお達しだったのさ」柊牙は、ぽん、と景気の良い音をさせてサイダー瓶の栓を抜いた。「行きと帰りが同じ航路で、助かったよ……」
「写真が残っているのか?」史岐が訊ねる。物探しを目的とした場合、柊牙の霊視の確度は、彼が捜索対象について持ち得ている情報の量に比例する事を彼は知っていた。
「いや、俺も訊いたけど、そういう物は残っていないそうだ。それどころか、航路のそばに沈んでいるという見込みもないに等しい。骨そのものを探すというより、海を見ているうちに『下顎の骨と思しき物体を沈める何者かの姿』という過去が見えたら儲け物、って感じだったな」
史岐は眉をひそめる。
「真面目に探しているようには思えないな」
「ああ。たぶん、本命は別にある」柊牙はサイダーを喉に流し込んだ。「下顎の骨、と聞いた時、俺は昔聞いたアイヌの伝承を思い出したよ。何度殺しても生まれ変わって蘇る悪神を封じる為に、上顎を木の高い所に括り付け、下顎は重石を結び付けて海に沈めた、という話だ」
空になった瓶を柊牙は手で弄ぶ。
中に入っている硝子玉がぶつかって、高い音が鳴った。
「薙野に海はないが……、深さがあって、人目につきにくい水の中っていったら、あの地底湖なんかぴったりだよな」
別れ際、柊牙は史岐に向かって「一回だ」と念を押した。
「俺はこの先、槻本嬢の言う事には逆らえない。佐倉川家の書庫で覗き見まがいの真似をしろと言われても、断れないかもしれない。だけど、初めの一回だけは何とかして止めさせるか、先延ばしにさせる。あの家が何かを隠していて、それを槻本嬢に知られる事で、お前の守りたい誰かさんに危険が及ぶと思うのなら、その間に手を打て」
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