一章 或る少女の見解

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 美しい純白の花が、いくつも利玖(りく)の周りに落ちている。毛羽立ちの少ないレース糸で編まれた、作りものの花だ。一つ一つは指の先に乗るほど小さい。  洋間の扉が開いて、母・佐倉川(さくらがわ)真波(まなみ)が顔を覗かせた。 「あら、まあ。ずいぶん増えたわね」  利玖は手元から目を上げずに頷く。綺麗な形に仕上げるには、編み目の数を間違えないように糸を結び合わせていく必要があるのだが、途中で会話をしたりして気が逸れると、いくつ編み目を作ったのか、わからなくなってしまう。  教えた側である真波も、それはよくわかっているようで、利玖の返事がないのを気にする様子もなく足元の花を拾っている。 「難しい模様も編めるようになったわねえ。これ、何個か繋げたらコースターに出来るかしら」 「それと同じ物なら、あと三個ほど転がっていると思います。それに……、はい、今もう一個増えました。どうぞ使ってください」  (はさみ)で糸の始末をして、利玖は出来上がった花を母に渡した。  幾何学模様を作り上げるのが楽しくて、つい黙々と編んでしまうのだが、完成した時点でそれ以上どうこうしようという気をなくしてしまうので、編み上げた花はすべて母に渡していた。利玖には使い道のない花も、真波の手にかかると、イヤリングやペンダント、小窓のカーテンの縁飾りなどといった役割を与えられる。  上機嫌でレースの花を拾い集めている母は、よそ行きの格好をしていた。午後から友達に会いに外出するのだという。  何気なく、母の手元を見た利玖は、そこに固定電話の子機が握られている事に気づいた。 「お母さん、それ……」 「え?」 「ボタンが光っていますが、どこかに繋がっているのではないですか?」  真波は、きょとんとした顔で子機を見て「あら、いやだ」と言った。 「これを渡しに来たのに、忘れていたわ。熊野君って男の子からよ」  一瞬、声が出なかった。  どうして実家の電話番号を知っているのか、と思ったが、先月、縞狩高原から自宅まで送り届けてもらう時、何かあった時の緊急連絡先としてこの番号を教えていた事を思い出した。 「……はい」  保留を解除して電話に出ると、受話器越しに大きく安堵の息をつくのが聞こえた。 『あ、利玖ちゃん? よかった、保留が長かったから、何かまずい事になってるのかと』 「その分、あとでわたしが根掘り葉掘り訊かれるんです」  真波は、両手いっぱいにレースの花を持って、意味ありげに含み笑いをしながら洋間を出て行った。  利玖は利き手と反対側に子機を持ち替える。 「どうして、わざわざこちらに掛けてこられたんです?」 『スマートフォンの方に掛けたけど繋がらなかったんだよ。前に、しばらく実家に帰るって聞いてたし……。利玖ちゃん、今、どこにスマートフォン置いてるの?』 「そんなの、手元に──」  明け方まで読んでいた本の山に手を伸ばす。その付近に置いていたはずだと思ったが、見当たらなかった。  利玖は子機を持ったまま洋間を出た。  昨日の昼食の後、近くを散歩していると、木陰で涼んでいるシャム猫を見つけた。綺麗な毛並みをしていたし、首輪も付けていたので、どこかの家で飼われている猫が逃げ出したのかもしれないと思ってスマートフォンで写真を撮った。だから、少なくとも昨日の昼には、きちんと持ち歩いていた事になる。  その後、本を借りる為に自転車で村営の図書館に行った。家の書庫にある本は、曾祖父が集めた物で、分野が学術書に偏っている。文学作品などはほとんど置かれていない。 「せっかくの夏休みなんだから一度くらい帰っていらっしゃい」と真波に言われ、兄妹揃って帰省したものの、利玖には兄と違って大した用事があるわけでもなく、暇を持て余して真波からレース編みを教わったりしているうちに、最近、村営の図書館が改装されて蔵書も増えたらしい、という話を耳にした。それで、早速赴いたという訳である。  戦果は上々だった。  昔、途中で読むのをやめてしまったシリーズものなどを全巻借りたりすると、これが中々面白い。小学生の頃には、難解で読みづらく感じた話でも、この年頃になるとすんなりと胸に落ちたりする。  そういう理由で、図書館から帰って来た利玖は、ソファに寝そべって本を読む事が出来る洋間に引きこもって、ろくに家族の前に顔も出さなかったが、二十時前になっても出てこない娘に業を煮やした真波に「せめて食事ぐらいきちんと取りなさい」と注意されて、渋々、食事と入浴を済ませた。  その際、洋間からスマートフォンを持ち出した記憶はないのだが、念の為、風呂場の脱衣所と食事をした居間を回ってみた。その間、史岐は受話器の向こうで、黙って利玖の返事を待っていた。  居間を見回して、ふと、リモコンラックの辺りに違和感を覚え、近づいてみると、そこにスマートフォンが立ててあった。  そういえば、洋間から出てきた時間が遅かったせいで、夕食を取った時には居間に誰もいなかったから、バックグラウンド・ミュージック代わりに適当な番組を流していた気がする。バッテリーはとっくに尽きていた。 「……すみません。今、見つけました」スマートフォンを拾って、利玖は再び洋間に戻る。「通話が長引いていますね。一度切って、こちらから掛け直しましょうか?」 『ううん、大丈夫。ちょっとお願いしたい事があったから』 「そうですか。何でしょう?」  つかの間、躊躇うような気配が動いたが、史岐は、きっぱりとした声で言った。 『利玖ちゃんの家の書庫に立ち入る許可をもらえないかな』  思わず足が止まった。  平静でいなければ、という思いが体を駆け巡ったが、息をするのも苦しいほど全身が緊張するのを抑えられなかった。  夏休み中は、集中講義や、各々の友人と遊びに行く予定もあるので、間隔はやや間遠になっていたものの、今でも史岐とは時々外で会っていた。  相変わらず、話題は取るに足らない世間話ばかりで、この人は、本当に佐倉川家の書庫には興味がないのかもしれない、と思い始めていた矢先の事だった。  八月、雨の縞狩高原で、二人だけで過ごした刹那の思い出が蘇った。  暗い部屋。  フリント式ライターの(やすり)の感触。  重なった指。  その後の事。 「……わたしの、一存では」  ようやく声が出たが、言葉が続かない。  史岐は『もちろんだ』と力強く言った。 『利玖ちゃん一人に決めてもらおうだなんて思っていない。これから話す事は全部、匠さんや、ご両親にも明かしてくれて構わない』  史岐の依頼は、大学の友人が怪奇現象に悩まされており、その解決策を調べる為に佐倉川家の書庫の力を借りたい、という内容だった。  怪異や、それを引き起こす妖の中には、語られ、伝播するだけで力を得るものが存在する。そういった事を警戒して、依頼を受けるかどうか決めかねている今の段階では、必要最小限の情報を与えるだけにとどめてくれたのかもしれない。 (史岐さん自身が、書庫を使いたいと言っているわけではない……)  単純な話だが、そう思っただけで緊張が和らいだ。  (くだん)の友人は今、史岐と一緒にいるらしい。  詳しく話を聞かせてほしいので、今からこちらに来てもらう事は可能か、と問うと、すぐに出発するとの答えが返って来た。
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