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最初の異変が起きた時、柊牙は、新千歳から潟杜に戻る飛行機の機内にいた。
潟杜空港と比べる事自体が馬鹿らしいと思えるほどの広大な敷地に駐機しているジャンボジェットを横目に見ながら滑走路をタキシングし、機体は予定通りに離陸した。
高校を卒業するまでの十余年を過ごした大地が、あっという間に眼下に遠ざかる。
久しぶりの家族との語らいは悪くなかった。ひとつ屋根の下で暮らしている時にはわずらわしく思えた付き合いも、たまに帰って来てみれば、案外と懐かしく思えるものだ。
柊牙はほんの少しだけ感傷に浸ったが、巡航高度に達する頃には、それも下火になっていた。
急な眠気に襲われたのは、その頃である。
昨夜は柄にもなく思い出話に花が咲き、遅くまで酒盛りをしていた。そのつけが回ってきたのだろうと、特に疑問を抱くでもなくまどろみに身を委ねた。
闇の中に女が座っていた。
衣服を纏っていない腰から、艶めかしい白い脚が伸びている。膝からふくらはぎを通って、爪先まで続く曲線を目で辿るうちに、それは蜜蝋のように溶けて、尾鰭に似た形に変貌を遂げた。
すると、今度は、腰からうなじに向かって、背骨をさかのぼるように無数の瘤が膨れ上がった。それらは互いにくっつき合い、やがて一つの大きな塊になると、息を吹き込み過ぎた風船のように、ぱちんと弾けた。
破れた皮膜の下から、鮫の上半身が現れ、力なく倒れ伏した。
その下半身だけが、別の生き物のように蠢動し、再び形を変える。臍の辺りがぼこん、ぼこんと波打つと、押し出されるように、人間の腕が一本だけ生えてきた。
鮫は苦しむように頭を振る。
どうすればいいかわからない、という感情だけが、傍らで見ている柊牙にも伝わってきた。
(この生き物は……)
目を病んでいるのだ。
人の形になりたいのに、自分の姿を確かめる事が出来ないから、いつまでも歪な変容をくり返している。
そう思った時、悶えていた鮫が鼻先をわずかに柊牙に向けた。
『ぬしは、我を見る目を持つか』
尾鰭がひらめくように宙をかいた。
ずっと闇だと思っていたものは、光の射さない水の中だった。
あっと思った時には、目の前に鮫の顔があった。
『ならば、ぬしの目を得れば良い』
笑うように開いた口の奥に、人の歯並びと舌が見えた。
接地の衝撃で目が覚めた。
首を絞めつけていた手が突然離れたように、気道が一気に開く感覚がして、柊牙は体を折って咳き込んだ。
全身に冷たい汗をかいている。
両手の指がひどくだるかった。ずっと座席の肘掛けを握りしめていたらしい。
「君……、大丈夫かい?」
隣に座っていたスーツ姿の男性が心配そうにそう訊いたが、声が出ず、彼に向かって頷くのが精一杯だった。
滑走路に下りた機体は、エンジンの出力を絞りながら滑走路をゆっくりと進む。
鼓膜を突き破りそうな勢いで鳴っている心臓の音の奥で、フライト中に機体が揺れた事を詫びる機長のアナウンスがぼんやりと流れていた。
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