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程なくして、戻って来た利玖が、緊張した声色で「失礼します」と告げた。
「今、兄の客人がこちらに見えておいでなのですが、これから書庫の見学をされるご予定らしく……。暗い通路で顔合わせというのもきまりが悪いですから、お話の途中で申し訳ありませんが、簡単に挨拶だけでもさせていただけますか?」
史岐と柊牙が応じると、利玖は障子を開けて後ろにいた人物を引き入れた。
「どうも、こんにちは」
「あら……」
銀縁の眼鏡をかけた背の高い男が、軽く礼をするのと同時に、彼の後ろから現れた少女が驚いたような表情を見せた。真っ黒なセーラー服の上に、美しい刺繍を施した袷を羽織っている、変わった出で立ちだが、学生服を着用する年頃とは思えない艶のある面立ちが違和感を打ち消している。
彼女を見た途端、史岐が「うわっ」と言いかけ、慌ててそれを咳払いで誤魔化した。
「まあ、失礼ね」少女は指先を唇に当てて、くすくすと笑う。「匠さんに頼んでつまみ出してもらおうかしら」
「そんな乱暴な事しませんよ」
匠、と呼ばれた男は、柊牙達の向かいに腰を下ろした。
彼に続いて、セーラー服の少女、そして最後に利玖が入ってきて障子を閉める。
「初めまして。長兄の佐倉川匠です。こちらは……」匠が、隣に座った少女に手を差し向ける。「槻本家のご令嬢、美蕗さんです。今日は、当家の書庫を見学される為に訪ねて来られました」
美蕗は軽く頷いただけで、言葉は発しなかった。
「冨田柊牙です」柊牙は姿勢を正して名乗った。「史岐とは同じ大学で、情報工学を専攻しています」
「ああ、僕も、潟杜大の博士課程に在籍しているよ」匠は、史岐に目を向ける。「ところで、君は美蕗さんとも面識があるようだけど……」
「たまに、話し相手として家に呼んでいるの」
割って入った美蕗が端的に答え、それから、席が埋まっているので部屋の端に座り込んでいる利玖を見た。
「さっきお会いした時に、妹さんだとは伺ったけれど、名前は何とおっしゃるの?」
「利玖です」
「字は?」
「利益の利に、王偏に久しいと書きます」
「そう……」興のある答えが返ってきて満足だ、と言わんばかりの表情で美蕗は頷く。「めずらしい漢字を使うのね」
「国名のキューバを漢字で書く時などにも使われていますね」
匠はそう補足しながら、コードが挿さった電気ポットを両手で引き寄せた。
「利玖。これ、まだ使えるかな」
「あ……、いえ、わたしがやります」
利玖が机の傍に来て茶を淹れ始めると、史岐もそれを手伝った。美蕗が柊牙に興味を示して、佐倉川邸を訪れた経緯を訊ね始めたからである。柊牙は嫌がる素振りも見せずに、さっきと同じ内容を語って聞かせていた。心の中では何を思っているにしろ、必要があると判断すれば、切り替えが出来る男である。
しかし、柊牙はその話を、一度目とは違う言葉で締めくくった。
「……で、これが、俺の地元に伝わっている『まがい魚』っていう昔話とよく似ているんです」
彼の故郷では魚が獲れる。そこに暮らす人々は、当たり前のように近所で揚がった魚を食べて育つ。
しかし、時に、見た目は普通の魚と変わらないのに、捌いてみると内臓も骨もなく、身だけが詰まった奇怪な魚が揚がる事がある。
これが、まがい魚、と呼ばれるもので、如何様に料理しても信じられないほど美味いが、口にした者はやがて「体の中で最も優れた部分」を奪われるのだという。
「俺の場合は、そりゃ、目だわな」
柊牙はそう言って、瞼を指でつついた。
「帰省された時も、地元の魚を食べられたのですか?」と利玖。
「ああ。姉貴の嫁ぎ先の、矢淵家の親父さんが漁師でな。台所で捌いた活きのいいやつを食わせてもらったよ」
「それなら、なおさら異変に気づくのでは……」
「普通の人間には、捌いてもただの魚に見えるのかもしれないわ」美蕗の双眸がわずかに細くなる。「あるいは……、異変に気づき、伝承の内容も知っていた上で、敢えて柊牙さんに食べさせた」
利玖と史岐はぎょっとしたが、柊牙は笑みを浮かべながら「実はそれも考えた」などと言う。
「俺には、他人の隠し事を覗き見る趣味なんざないが、相手方がどう捉えるかはわからんからな」
「それだと、お前に霊視が出来る事を、矢淵家の人間も知っていたって事になるけど」
史岐が問うと、柊牙はひょいと眉を上げた。
「別に、おかしくはないんじゃないか? 何年も付き合って、結婚までしようって仲なんだから、家族の事ぐらいは話すだろ。俺もこの通り、内緒にしてくれって頼み込んでいるわけでもないしな」
各々が、聞いた話を噛み砕いて、飲み込む為の沈黙が、しばしあった。
「そこまでわかっているのに、これ以上、お役に立てる事があるのでしょうか……」
利玖が途方に暮れたように呟くと、柊牙は「ある」と頷いた。
「正体の察しはついても、対処法……、いや、この場合は呪いの解き方って言った方がいいのかね。それがわからねえ。何せ、ただの昔話だと思って生きてきたんでな」
と、そこで美蕗がいきなり、それまで見向きもしなかった湯呑みを手に取って、茶を一口飲んだかと思うと、
「このお茶、面白い味がするわね」
と匠を見た。
「茶葉が余っていたら、少し分けていただけないかしら」
それが、茶葉の残量に関わらず譲渡を要求する口調である事は、初対面の利玖でさえわかった。
さらに言えば、彼女は茶の味などどうでもいい。この場から匠を追い出したがっているのだ。
「それは構いませんが……」匠も当然、その意図には気づいているらしく、考えながら言葉を次いでいる。「今は、家の者が皆出払っていますから、僕が用意する必要があります。すると、書庫にあなたを一人残してしまう事になりますね」
「本を読むのに話し相手などいらないわ」
「ここは少々造りが変わっていますから、案内役がいないと道に迷いますよ」
美蕗は、にっこりと笑って利玖を見た。
「こんなに立派なお嬢さんがいるじゃない」
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