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一章 潮蕊湖を囲む四つの神社
「粒餡と漉し餡のどちらをより好むか。
そういう論争が、わたし達の周りではしばしば交わされますが、これは一見何でもない事のように思えて、その実、計り知れない偉業の成果ではないかと思うのです」
佐倉川利玖は揃えた膝に肘をつき、両手の指を組み合わせると、猫みたいに小さな顎をそこに乗せた。
考え事をする時、彼女はよくこの仕草をする。どこから降って湧いたのか、と思うような突拍子のない内容をいたって真剣に話し始めるのも珍しい事ではない。運転席にいる熊野史岐の注意が逸れないように、前を向いたまま話すのもいつもの事だ。
しかし。
普段の様子と変わりないと断じるには、「ある一点を除いて」という前置きが必須だろう。
いつも、大学でボーイッシュな服装をしている利玖が、今日は、白い襟付きのキャンディスリーブ・ブラウスに、ベルベットのロングスカートという格好だった。
格子縞の模様が織り込まれたダーク・グレイのスカートから伸びる、レースの靴下を履いた爪先が、ストラップ付きの革靴に慎ましやかに収まっている。
一体、これはどういう事か。
邪推をこじらせるより、直接本人に訊くのが手っ取り早いという事は重々承知だが、まずは一言、彼女の装いについて、さり気なく、それでいて気の利いた賛辞を述べてからにするのが礼儀というものだろう。そう思って、史岐は頭の奥で埃をかぶっていた虫食い跡の甚だしい辞書をめくったが、運転の片手間にやっている事もあって、その作業は恐ろしく低速度でしか進行しなかった。これは、と思うフレーズをひらめいても、言葉に出そうと利玖を見た途端、風前の塵よりもあっけなく消えていく。
そういった連戦連敗に気づく様子もなく、利玖は朗々と解説を続けている。
「いわゆる『粒餡・漉し餡論争』が日本全国で通用する為には、餡子と聞いた時に粒餡を想起する人と、漉し餡を想起する人の割合が、地域や性差、年齢によらず拮抗している必要があります」
ちょうど赤信号に引っかかったので、史岐は辞書を引く作業を中断し、クールダウンの効果を狙って手近な数字を並べ始めた。
今日は十月十六日。
土曜日で、大学の講義はない。後期課程が始まってもうじき三週目になる。
空模様は朝から不安定だ。つうんと染みるような青空と、巨大な蛇がのたうっているような曇天がせわしなく入れ替わり、気温は高く、蒸し暑い。時折、思い出したように通り雨が吹きつけるので、車のフロントガラスには水滴がついていた。
二人は今、潟杜市の南東、車で約一時間半の距離にある潮蕊湖のほとりを走っている。
潮蕊湖は県内最大の湖で、上空から見るとほぼ台形をしている。北から順に、下潮蕊町、杷谷市、上潮蕊市という三つの自治体に接しており、そのさらに南にある、檸篠市を目指して車は走っていた。ナビゲーションシステムによれば、あと二十分ほどで到着する計算だ。
「……単一の材料から、限りなく性質の近い、しかし明確な差異のある二つのバリエーションが生まれ、その両方が何百年にも渡って優劣つけがたい存在として扱われてきた。ですが、必然、どちらかが先に生まれたのですから、後に作り出された方が人々に受け入れられ、全国に広がって、餡子、と聞いた時に粒餡と漉し餡の両方を連想させるまでに至っているのは、一つの文化の歴史と言っても差し支えないのではないでしょうか」
「なんか、味噌みたいだね」
「そうですね」利玖は頷く。「餡子に比べると地域差が大きい傾向にありますが、原材料も小豆と大豆で似ていますし、共通点は多いかもしれません」
「僕は、その論争には参加できないな……。粒餡も漉し餡も同じくらい好きだから」
信号が青に変わったので、史岐はギアを入れて車を発進させる。
「わたしも同じです。粒餡は豆の風味が残っていますから、ミルクティーのようにこっくりとした飲み物とも合いますね。漉し餡はかなり甘い口当たりの物が多いので、緑茶のように爽やかで、ほろ苦い飲み物があると嬉しいです」
実際にそれらの品々を思い浮かべているのか、声をはずませて話していた利玖は、ふと、きょとんとして言葉を切った。
「あれ……」しばらく考えた後、申し訳なさそうに史岐を見る。「えっと……、すみません、何の話をしていたのでしたっけ」
史岐は、ふっと笑みをこぼした。
たまに、利玖にはこういう事がある。
大抵、いつでも何かしらの考え事をしている彼女だが、話す時に一から順序立てて言葉にする訳ではない。だから、思いつくままに喋っているうちに、当初何を話そうとしていたのか、自分でもわからなくなってしまうらしい。調子が良い証拠ではあるので、放っておいても問題はない。
「今日着て行く服をどうやって選んだか、って事じゃない?」
どさくさに紛れて、史岐もついに切り込みを決行した。
「これですか?」
案の定、利玖は訝しげにスカートの裾をつまんで少し見つめたが、おそらくそんな話もしたのだろう、と結論づけたようだった。
「昔、別海先生から頂いたのです。素晴らしく仕上げの良い物でしたので、もったいなくてなかなか袖を通せずにいたのですが、今日はぜひ着て来てほしい、と頼まれまして」
別海というのは、かつて佐倉川家専属の医師として勤めていた人物の名字である。数年前に弟子にその任を譲って引退した後は、檸篠市内で一人暮らしをしているらしい。
佐倉川家の人間とは非常に良好な信頼関係を築いていたようだ。利玖がこの週末を、別海氏の自宅で一泊して過ごしてくる予定である事もそれを裏付けている。
外泊なので、どうしても荷物が増える。しかし今回、車を所有している彼女の兄・佐倉川匠は同行しない。公共交通機関だけで別海氏の自宅に向かうには、本数の少ない電車と市営バスを乗り継ぐ必要があって、時間も体力も大幅に消費する事が見込まれた。
そこで、ガソリン代を折半するので、もし都合が合えば、という条件付きで、史岐に声がかかったのだった。
利玖は、手首を返しながらブラウスの袖口を観察し、ため息をついた。
「まあ、実家の箪笥で何年か寝かせた所で、わたしの方の身長がほとんど伸びませんでしたから、あまり意味はなかったのですが……」
「大丈夫。よく似合っているよ」
数秒の静寂。
そして、利玖が自分を見上げる気配。
「今日はずいぶんと前方注視を徹底されていますね」
「そう? いつもこんな感じじゃない?」カーブに差しかかり、史岐は慎重にハンドルを切る。「それにほら、そっちは湖だから、車が飛び出してくるって事はないでしょう」
「歩道はありますよ」利玖はシートにもたれて腕を組んだ。「まあ、いいです……」
しばらく、無言のまま潮蕊湖の外周を南下した。
(別海という人が選んだ服なのか……)
冷静な運転操作に努めながら、史岐は初めのうちこそ、顔も知らない別海医師に対して一方的な感謝を捧げていたが、時間が経つにつれて徐々にその気持ちに影が兆してきた。
果たして、これは手放しで有り難がっていられるような話なのだろうか。
花も恥じらう年頃の少女に服を贈り、
それを着て、一人で自分の家へやって来るように言い、
夜はそのまま泊まらせる。
かいつまみ方に恣意的なものがないではないが、要は、そういう事である。
長年、佐倉川家に尽くし、引退した後もこうして慕ってもらえるのだから、さぞかし申し分のない経歴と人格を持つ人物なのだろう。老いを理由に職を退いたというから、それなりに高齢ではあるのだろうが、しかし、一人暮らしが出来るくらいの体力は残っているのだ。
見当違いな心配かもしれない。
しかし、もしも「万が一」があったら……?
具体的な場面を思い浮かべた瞬間、迷いは消えた。
彼女をこうして送り届ける事になったのも、何か尋常ならざる存在の取り計らいのように思えた。
「決めた」史岐は重々しくハンドルを握りしめる。「僕も今日は、どこか近くで車中泊する」
「それは構いませんが……」利玖は体をひねって、ツーシートのライトウェイト・スポーツカーの後部を覗き込んだ。「この車、足を伸ばして寝られるんですか?」
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