四章 史岐を襲った妖

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 自分がいる世界が狭い(がら)()玉に閉じ込められて、水の底に沈められたような感覚がした、という。  檸篠(ねじの)市にある潮蕊(うしべ)大社の境内で経験した事を、利玖はそう語った。 「最初はただ、耳鳴りがしているのだと思いました」  利玖は話しながら、片手を自らの耳に当てた。 「だけど、何かが違う……。体の内側で起きている異変というよりも、外から気圧のような力がかかって、鼓膜に違和感が生じているような感じがしました。ちょうど新幹線に乗っていて、トンネルに入った時のように」  徐々にその感覚が強くなり、思わず下を向いて目をつぶった。  そして、再び目を開けた時には、世界が一変していた。  がらんとして風が抜けるばかりだった拝殿(はいでん)に、何十人もの若い女性が平伏(ひれふ)している。  彼女達は皆、揃いの白装束を身につけ、額から垂らした布で顔を隠して、上座に向かって(ひざまず)いていた。  激しい雨が降っているらしい。  足元の地面が、みるみる水を吸ってぬかるんでいく。  肌にも服にも、冷たい(しずく)が染みとおり、一気に体が冷えた。  拝殿の向こうに見えていたはずの境内は灰色に煙って、他の社も木立も、霞んで見えなくなっている。  奇妙な事に、雨音は聞こえなかった。  拝殿の娘達は誰一人として身じろぎをしなかった。  土を焼いて作った人形に色を塗って、(かつら)を被せ、服を着せて並べたようだった。それくらい彼女達からは、生気や温度というものが伝わってこない。  拝殿には屋根があったが、娘達は皆、川底から引き上げられたように、髪にも衣にも重く水を含んでいた。 『上がらないのか』  突然、背後から声をかけられ、はっと振り向いた先に、見慣れない少年が立っていた。  娘達とよく似た装束姿で、髪は真っ白に透き通っている。しかし、それは魚の白身のように、かすかに赤みを帯びた生々しい色合いだった。  少年は階段を上って拝殿に入ると、おもむろに傍らを指さした。 『ここに、お前の場所が用意してある』  利玖は首を振った。少年の指さした場所には、すでに別の娘が額衝(ぬかづ)いていたからだ。  そして、たぶん、自分は神社の関係者ではないから拝殿に立ち入る事は出来ないし、人違いをしているのではないか、というような事を言ったと思う。  それを聞いた少年は、歯を剥き出して笑った。 『そうだな……、お前の為に空けておいたのに、此奴(こやつ)が割り込んで来たのだ』  少年の手が伸び、娘の顔を覆っている布を少しだけ持ち上げた。  その瞬間、利玖は思わず目を背けていた。──生きている人間ではない、と思ったからだ。  血の気のまるでない頬に、泥に(まみ)れた髪が(にかわ)のようにこびりついている。わずかに開いた唇からは、暗い口の中が覗いていた。 『どうした、そばで見てやらんのか。お前のよく知る娘であろう。腕につけている、この飾りも……』  そこまで聞いた途端、匠の顔色が変わった。  利玖も、匠の態度の変化に気づいたのだろう、わずかに先を言いよどむような素振りを見せたが、それを振り切って、まっすぐに兄の目を見た。 「青い玉を繋げて作ったブレスレットでした。一箇所だけ、他と異なる飾りが通してあって、寺社などで頒布されている腕輪念珠かと思いましたが……、あれは……」利玖は一瞬、目をつむって記憶をたどった。「たぶん、尾鰭(おびれ)だと思います。材質まではわかりませんでしたが、白い素材で作られた、クジラの尾鰭のようなモチーフが付いていました」  匠は、きつく口元に当てていた手をゆっくりと下ろして、訊ねた。 「別海先生からは、史岐君が名前を呼んだおかげで戻って来られた、と聞いたけど」 「……そうかもしれません。ですが、はっきりと思い出せないのです」  利玖は左の手首をさすっていた。娘は、そちら側の腕にブレスレットを着けていたのだろう。 「ブレスレットを見た時、異様に心がざわつきました。美しさに惹かれた、というのもありますが、それ以上に……、恐ろしかった。自分が忘れている、本当は忘れてはいけない大切な何かに蓋をしている物が、少しずつずれていくような気がして……。無意識に、もっと近くで見ようとして、階段に足をかけた時、ふいに誰かに呼ばれた気がしたんです」  その声は、夕立が迫り来る気配のように、はるか遠い所から、しかし、確かな存在感を伴って響いてきた。  声の主を探して天を仰いだ瞬間、体を包んでいた息苦しさと、ほの暗い空気が、大きな翼で払われたように消え失せた。  気づいた時には、利玖は、別海医師に肩を抱かれて元の陽射しの下に立っていた。  史岐が駆けつけたのは、そのすぐ後の事だった。  話を聞き終えた匠は、しばらく地面に目を落としていたが、やがて、つっと利玖を見据えた。 「瑠璃だったのか?」  利玖は、首を振った。 「見えたのは、口元だけでしたから」 「そうか……」  匠は、無造作に手で顔を拭おうとして、指先が眼鏡のフレームにぶつかると、思い出したようにそれを外した。そして、片手に眼鏡を握ったまま、夢をみているような声で語り始めた。 「毎年、海開きの日が来るのを、自分の誕生日よりも楽しみにしているようなひとだった。夏休みに入って、剣道の稽古もない日が続いた時には、わざわざ日本海の方まで潜りに行っていたから、高校の授業で簡単な木工品を作る事になった時、海の生き物を(かたど)った物を作ってやったら喜んでくれるだろうか、と……」  匠の手に力が()もるのが、史岐にもわかった。 「……まだ、着けてくれているんだな」
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