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「――よっ、伊沙姫っち」
放課後、やおらB棟へ向かおうとした私は、後ろから肩を叩かれた。私にこんなことをする人間は一人しか知らない。そして私をあだ名で呼ぶ人間もまた、この学校に一人しかいない。
「栖比華、なにか用?」
ノールックのまま発して振り返ると、そこには予想通り綺麗な金髪ボブヘアが揺れていた。切り揃えられた前髪の下からイタズラっぽい笑みが覗く。栖比華は今にも帰宅しそうな装いで私を見据えていた。
「今日も『止まり木』勤務ぅ? 御苦労なことでー」
私が平均より上背があることを差し引いても、栖比華は小柄だ。しかしこのように態度は大きく、憎たらしさも平均を大きく上回る。
「すごいよねー。あたしには無理だな―」
わざとらしく体をくねらせながら、煽るように私に言うと、その反応を楽しむかのように私の顔を覗き込む。
悔しいが、その顔は正直可愛らしい。「おとめ座で最も明るい星の名」を冠するだけのことはある。そこにいるだけで華があるタイプだ。
当然、異性からの人気も高い。だがその代償か、はたまた小憎らしい言動のせいか、同性は敵に回してしまうことも多い。
理由は違えど孤立しがちな点は私と似ていた。だから気付けば、一緒にいることが多くなっていた。中学時代も、高校生になった今でも。
「……うるさいなあ。当時は活動内容なんて知らなかったんだよ」
「ははは。でも、適任だと思うよー?」
「どこが」
「お説教、得意じゃん?」
「はあ? 得意じゃないし。ていうかお前か? 私が人を叱っているみたいに触れ回っているのは」
「はは、どうだろうね。あ、そうだ。ちょっと話があるんだった」
「おい無視するな」
「まあまあ、取り敢えず『止まり木』に行こーよ。そこで話すから」
このように栖比華は私にまるで遠慮がない。しかし私にとってそれは居心地が良くもあった。
私は人に感情を出すことが苦手だ。そして伝えるのも苦手だ。
だからどうしても人からは冷たいと思われがちで、同級生なのに敬語を使われたりすることも多い。
その点、栖比華はこのように私はぞんざいに扱うのもお手の物。私もそれにつられて思ったことを口に出せる。言い返せる。それが気楽で良い。
ブレザーを羽織ると、すこし湿っぽく重たいように感じた。梅雨が間近に迫っていることを実感する。栖比華に至ってはブレザーを着てもいないし、ペチャンコな鞄から察するに持ってきてすらいなそうだ。
衣替え前だから、バレれば注意されるだろうに。いや注意されてしまえ。
「行こ?」
「うん」
――私達は、二人並んでB棟への道のりを歩き出した。
樫ノ木高校では、一年から三年まで、全てのクラスがA棟に割り付けられている。理由は分からないが、単純に新しいからだと思う。
B棟と言えば聞こえは良いが、要するにただの旧校舎であり、昔のメイン教室がそのままお役御免になっただけの悲しき存在だ。今は音楽や美術などの特別教室で使われたり、文化部や私のような委員会活動の教室として利用されている。
だがそれらも別に、その気になればA棟だけで事足りるのが実情で、B棟には毎年のように取り壊しの噂が流れるらしい。実現には至っていないが、『止まり木』教室がいつまでここに存在出来るのかは、正直分からない。
やや煤けてはいるものの、個人的には、木造で全体的に暖色に囲まれているB棟は落ち着きがあって好きだ。特に校内保全委員会の居室……もとい、教室となっている四階は、とにかく静かで居心地が良い。
……だからと言って、これほど頻繁にここへ通うことになるとも、なりたいとも思っていなかった。
でもあの時、どうしても断れる雰囲気ではなかったのだ――。
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