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「あなたを買いたいんです、ぼくのこのからだで」 そう言って微笑んだのは、金髪碧眼の公爵令息。年齢は確か十二歳。 天使だと名乗られたら、信仰心の欠片も無い俺でも疑いもしない、と青年は思った。そう思ったのは目の前の少年の美貌はもちろんだが、最前の浮き世離れした台詞のせいもある。天使ならば浮き世離れしていて当然だから。 そう、たぶんこの少年は天使。 もちろん背中に翼は無い。服の下に隠しているのかも知れないけれど。 邸というより城塞と呼ぶのが相応しい職場の応接室。 馬車の不具合で立ち往生していた少年を保護して来た手前、一応事情やら今後の予定やらを話し合っていた。 少年は春から通う貴族学院の入学準備のため、領地から帝都の邸へ向かう途中。馬車が動かなくなったのが不幸中の幸いか、青年の職場と目とはなの先だった。出先からの帰りがけに通りすがった青年が、取り敢えず少年を連れて職場へ戻り、動けぬ馬車の回収に人手を出してもらって、つい先ほど馬も馭者 も車も無事到着との知らせを受けたばかり。 残してきた老馭者を案じていたのだろう。それまでは勧められた飲み物にも口を付けようとはしなかったが、知らせを聞いた少年はようやく紅茶碗を手に取ったのだった。 そこで先ほどの台詞である。 からかわれていると思った。 「俺を、買う?」 普通に考えたらそこは逆なんじゃないか、と青年は考える。 天使──少年の名乗った家名は社交に疎い青年の耳にも届いていた。建国以来の名家を襲った悲劇的な醜聞として。不穏な噂を伴って。 「だめですか?」 少年が首を傾げる。細い顎で切り揃えられた髪がさらさらと揺れた。瑠璃色の瞳に真正面から見詰められて青年は唾を呑み込んだ。 この王国でも児童売春はもちろん違法だが、だからこそ需要があり市場も生まれる。 青年は治安機関に所属している立場上、そういう類いの情報に触れる機会も多い。 目の前の少年などはそういう市場においては──嫌な表現だが──商品である。それも極上品に部類されるたぐいの。 その商品が自分を買うと? (俺に買ってくれ、てんじゃなくて?) 戸惑った内心のせいで、つい睨み付けていたのだろう、天使の花のように綻ぶ笑顔が強張った。 いけない、相手は頑是ない子供。 普段自分が対峙している裏も表も真っ黒な悪党共とは違うのだ、と青年は自身に言い聞かせる。 自分の目付きが鋭い、しかも紅眼──深紅の瞳で常に不機嫌に見え、怖がられるし相手を不快にさせるから気を付けるようにと、家族にも上官にも度々注意を受けていたことを思い出した。 意識して数度、ぱちぱち瞬きを繰り返し少しでも柔和、は無理としても怖がらせることのないよう表情をつくる。 そう、これはただの会話で、いわゆる世間話というやつだ。 尋問ではない。 相手は天使だ。 青年は自身に言い聞かせる。世間話には苦手意識しかないが。 「俺を買って、何をさせたいんだ?」 青年の言葉に、天使はこてん、と首を傾げた。まだ少し表情が固い。 「買ってみたかった、じゃあだめですか」 だって、と天使は天使らしからぬ笑みを浮かべた。 「だってぼくのからだにはたいした価値があるのですよ?」 そう笑った天使の表情は、笑顔とはとても呼べない痛々しいものだった。伏せた長いまつげがふるふると揺れて、少年の顔に翳りを落とす。 そうした様子さえも、たいへん美しい。 「ぼくのこのからだと引き換えに公爵家(わがや)の家名も爵位も領地も守られるんです。 とうさま、いえ、亡き父の負った莫大な借財も全て返済できたうえに、です。すごいでしょう?全て──男爵が購ってくださると」 少年が口にした、彼を、公爵家に金を出そうと言う相手の名に、青年は思い切り眉をひそめた。 青年にとっては馴染み深いその名。悪名高い、どころか悪名しかない悪党だった。不倶戴天の敵である。 (──例の噂は真実ってことか) 少年は左手を喉元に当てて胸を張って見せた。 青年がどう答えてよいか、迷ううちに少年は言葉を継ぐ。 「ぼくは十八歳になったらすぐに結婚、花嫁を迎えるんです。 そのご令嬢はぼくよりも五つ年上だけど、ぼくが成人するまで待ってくださるそうですよ。 ご令嬢がたは十六、七歳が適齢期って言われているのでしょう? そんなに長く待っていただくのは申し訳ないから、さっさと結婚してしまいましょう、って申し上げたのだけど」 「高位貴族、侯爵以上の当主が未成年の場合、婚姻には国王の許可が必要だからな。敵対国の工作による乗っ取りを防止するためで、過去に許可の下りたことはない」 「同じことを言われました」 少年が睫毛を伏せた。 「それでね」と続ける。 「結婚したらぼくのこと、奥さんと義父となる男爵とで可愛がってくださるんだそうですよ。男爵の方はぼくが結婚するまで待つ気はないみたいだけど」 天使の美貌を持った少年は老成した者のような表情をしていた。
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