マカロンはあなたを消した理由を知る

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 高校に入学してから一月半が経とうとするころ、渡辺真華倫(わたなべまかろん)は大分慣れて来た通学路を歩いていた。  部活に入る訳でも無く、最寄りの駅から歩いて自宅まで帰る。駅前の商店街も自宅近くの公園も、中学の時には通らなかった場所なので、少し心が躍っている。  商店街で寄り道など中学の時には出来なかったことだし、バイトをしてお金を稼ぐなど、それこそ中学生には出来ない事だ。  少しだけ大人になれた気がするマカロンは、少しずつ大人の階段を登っている事に高揚感を感じていた。  マカロンの通う高校は、最近の流れを汲んでいる事から、髪型についての校則はない。つまり何色に染めようとも、生徒の自由なのだ。  もっとも、マカロンは入学前からその情報を知っていた。その為現在の高校を選び、髪の毛もショッキングピンクに染め上げている。  このショッキングピンクに染め上げたロングヘアーを、ツインテールにまとめ上げる。これが彼女の高校デビューであり、今後の彼女のスタイルとなっていく。  そんな彼女は、心地よい南風が吹く夕方、自宅へ帰る為に、閑静な住宅街を歩いていた。  子供の頃にお菓子を買った商店。ブランコに乗って靴を飛ばした公園。そんなどこにでもありそうな、ありふれた普通の町が、彼女の住む街なのだ。  マカロンは、風で髪の毛が絡まるのを気にしながら下校をしていると、自宅近くの公園では老婆がベンチに腰かけているのが目に留まった。  歳は七〇前後といった感じだろうか。見た目や荷物から、近所のお婆さんがお散歩に出てきましたとも見えなくはない。ただ、気のせいかもしれないが、なんとなく具合が悪そうに腰を曲げているのが少し気になった。  マカロンが、近所のお婆さんが、休憩でもしているのかと少し気に掛けた瞬間、公園に一陣の風が吹いた。強く吹いた南風は、お婆さんの被っていた帽子を、頭から剥がし取り、コロコロと車輪の様に転がしたのだった。  お婆さんは、ヨタヨタと立ち上がり、必死に帽子を追いかけ始めたが、しかしながらその距離は広がるばかりだった。  そんな様子を見ていられなくなったマカロンは、転がる帽子に向かって走り出して、公園の端でなんとか止まった帽子を拾い上げた。 「お婆さん、はい帽子」 「おぉ、娘さんすまないね」  そう言いながら帽子を受け取ろうと手を出した瞬間、再び強い風が吹いてきて、お婆さんの髪の毛が、まるでヤマタノオロチが暴れているかのごとく乱れた。 「お婆さん、この風だと帽子は飛ばされて危ないよ。帽子は鞄の中にしまっておいた方が良い」 「そうかもね」    そう話しながら、お婆さんは、再びベンチに腰を下ろしてマカロンから帽子を受け取った。  そして、帽子を鞄の中に入れると、またしても風が強く吹いた。  お婆さんはバサバサに暴れる自分の髪を必死に抑えるも、体が思う様に動かないのか、髪の毛を押さえつける手がかなりおぼつかなかった。  そんな姿を不憫に思ったのか、マカロンはツインテールの片側の髪ゴムを解くと、お婆さんの髪の毛を纏め始めた。 「お婆さん、アッシの髪ゴムあげるから、今日はこのゴムをして帰りな」  お婆さんは、マカロンの優しさに感謝し、深々と頭を下げた。  そして、マカロンもツインテールの片側が無くなった事から、もう片方の髪ゴムを解き、今度は自分の髪を一纏めにした。 「お嬢さん、ありがとうね。このゴムは必ずお返しするからね」 「いゃいゃ、そんなの気にしなくていいよ。どうせ百均の商品だし」  そんな会話をしながら、お婆さんはマカロンにニコやか微笑むのだ。  そして一息つくとお婆さんは、ブランコの方を見ながら独り言のように話し始めた。 「ところで、あのお嬢ちゃんはいつまであそこに居るのかね? お家に帰らなくていいのかな?」  そう言ってお婆さんはおもむろにブランコを指したことから、マカロンもその方向に首を傾けた。  すると、ブランコがキイキイと音を立てながら、ゆっくりと揺れていた。  お婆さんはブランコに乗っている女の子と目があったのか、女の子においでおいでと手を振り始めた。  すると、女の子はブランコから飛び降りて、お婆さんの前まで歩いてきた。 「こんにちはお嬢ちゃん」 「こんにちはお婆ちゃん。何か御用?」 「ん? 用って程じゃないけれど、飴でも食べるかい?」  そう言って、お婆さんはバッグの中をゴソゴソと漁り始めた。しかし、お婆さんが飴を探し始めると女の子はお婆さんの前にストップと言わんばかりに大きく(てのひら)を広げた。   「お婆ちゃん、ごめんなさい。私知らないヒトから物を貰ってはいけないって、お母さんに言われているの」 「……そうかい、それは失礼したね」  そういいながら、お婆さんは子供に頭を下げた。 「お婆ちゃん、用が無いなら私行くね」  そう言って、子供はその場を離れ、どこかへ行ってしまった。  そしてお婆さんは、手を横に振りながら子供が去っていくのを最後まで見送っていた。  子供が立ち去った後、今度は横で座っているマカロンにお婆さんは話し掛けて来た。 「私と旦那の間には子供が出来なくてね……」 「……そっ、そうなんですか……」  話の脈絡がない上に、いきなり重い話をされたマカロンは、つい言葉が詰まってしまった。  しかも、どう答えるのが正解なのか分からない質問は、マカロンとしても遠慮願いたい。 「あぁいった、小さい子を見ると、つい羨ましくなっちゃうわよね」 「……はぁ……そうですか」  取り敢えず、マカロンは適当に相槌を打った。 「そいえば、お嬢ちゃんも飴いるかい?」 「いぇ、アッシはこの後夕飯だから、夕飯の前に甘い物食べてはいけないって母親に言われているので……」  小学生の時に、母親から耳にタコが出来るくらい注意された言葉が自然と口に出てしまった。  高校生にもなって、夕食前に甘い物を食べてはいけないとか無いだろうにと思いつつも、(てい)よく断る言葉が出てこなかったのだ。 「そうかい、じゃぁ、仕方がないね」 「えぇ、お気持ちだけ頂いておきます。それではアッシもそろそろ家に帰らなくてはならないので」 「はい。こんなお婆さんに付き合ってくれてありがとうね。ゴムは必ず返すからね」 「……まぁ、ゴムはお気になさらず」  マカロンはこれ以上ここに居ては危険だと感じ、お茶を濁してその場を立ち去るのだった。  ● ● ●  翌日、お婆さんはその日も公園のベンチで日向ぼっこをしていた。  すると、今日もブランコに乗る少女は、寂しげにブランコを漕いでいた。  お婆さんはそんな女の子の姿が気になって、またしてもベンチまでおいでおいでをした。  すると、女の子はブランコから飛び降りて、お婆さんの前まで走って来た。 「お婆ちゃん、なにか御用?」 「いーえ。特に用事はないのだけど、今日も一人なのね。お母さんとか居ないの?」  女の子は少し考えた。   「うーん、お母さんは……いないかな……」 「そう……それは悪い事を聞いてしまったわね。そう言えば、お嬢ちゃん、お名前なんていうの?」  女の子は自分の顔を指差した。 「私? 私は愛子、愛子って言うんだよ」 「そう、愛子ちゃんって言うの。素敵なお名前ね。愛される子って意味なのかしらね」  女の子は少し黙った後、何かを理解したように軽く頷いた。 「うん、私とても愛されてたよ。愛された子だった」 「そう。それは良かったわね」  お婆さんは微笑んだ。 「お婆ちゃん、私そろそろお家に帰るね」 「はい。またね」 「またね」  そう言って、女の子はお婆さんにバイバイをしながら、掛けて公園から出て行った。  ● ● ●  また翌日、お婆さんが公園のベンチに座っていると、愛子が一人でブランコを漕いでいるのが目に留まった。  その姿に気が付いたお婆さんは、ブランコの近くまで歩み寄り、愛子に話しかけた。 「こんにちは愛子ちゃん、今日も一人?」 「……うん」 「愛子ちゃんはブランコが好きなのね」  そう話し掛けられた愛子は、お婆さんの方に顔を傾けて、笑顔で答えた。 「うん、私、子供の頃、ブランコの絵本を良くお母さんに読んでもらったの。その絵本が大好きで、大好きで、本がボロボロになるまで読んでもらったの」 「そう、それは良かったわね。ところで、その絵本のお話はどういうお話なの?」 「詳しい物語は忘れちゃったんだけど、最後はお母さんとブランコに乗って、お母さんと一緒に笑うんだよ」 「へー、素敵なお話ね。私にも子供がいたら、是非そのお話を読んで聞かせてあげたかったわ」 「……そう……そうだね」  お婆さんの言葉を聞くなり、愛子の顔は少し(にご)って、そして(うつむ)いた。  しかし、すぐに作った様な笑顔で、お婆さんの顔を見上げた。 「そうだ、お婆ちゃんもブランコに乗って見なよ。ほら、横空いているから」 「あらあら、お婆ちゃんに乗れるかしら」 「乗れるよ。私ブランコ押さえていてあげるから」  そう言って愛子は、ブランコのチェーンを抑えて、ブランコを安定させた。 「でも、私は足が悪いのよ」 「座るだけでもいいから座って見なよ」  そう言いながら、愛子の手は座席を案内するコンシェルジュの様に、すっとブランコを指し示すのだ。 「……そう、そこまで言うのなら、お言葉に甘えて……」  そう口にしながら、お婆さんはゆっくりと愛子が支えるブランコに腰かけた。  お婆さんは、ブランコに腰を掛けると、少しだけ前後にブランコを揺らした。  ゆっくりと三往復くらいした頃だろうか、微かにお婆さんの背後から、すすり泣く愛子の声が聞こえてきたのだ。  お婆さんは、何が起きたのかしらと思いながら後ろを振り返ると、そこには、大粒の涙をポロポロとこぼしている愛子の姿があった。 「あら、愛子ちゃん、どうしたの? 目にゴミでも入ったのかしら?」  そう尋ねる老婆の質問に、愛子は静かに首を左右に振った。 「ちがうの、ちがうのよ、お母さん、私は…………」 「あらあら、泣かないのよ愛子ちゃん、私はあなたのお母さんじゃないわ。私には子供なんて……いない……」  老婆はそこまで言葉を出した瞬間、何故だか分からないが、一筋の涙が頬をつたった。  老婆は自分の感情を理解する事が出来なかった。  子供が出来なかった自分に、愛子がお母さん(・・・・)と呼んだだけで、涙があふれ出たことに感情が付いて行かなかったのだ。   「えっ、なぜ? 私に子供は……子供?……あ・い・こ? 愛する子?」  老婆は急に両手で頭を抱え始めた。頭に激痛が走ったのだ。  まるで頭の中をミキサーでかき回されたような、今まで生きて来た人生で味わったことの無い、強い衝撃が頭の中を駆け巡った。  だが、激しい頭痛がする中で、少しづつだが、確実に情報が整理し始めて来た。    そして数秒後、やっとの事で、息苦しそうに言葉を発した。 「あ・い・こ……私が愛した……最も愛した……私の子……」    すると、女の子は泣きながらゆっくりと首を縦に振った。 「……お母さん、久しぶり。……四〇年ぶりかしら」  愛子は老婆の前に歩み寄って、お辞儀をした。 「そっ、そんな。ありえない。でも、あなた、本当に愛子なの?」  老婆は涙で目がにじんで、もはや目の前にいる子が、我が子であるかどうかの確認など取れるはずもなかった。  しかし、それでも我が子の顔を確かめる様に、愛子の両頬に手を当てて、自分の顔を愛子の顔の前に近づけた。 「もう少し、ちゃんと、お顔を見せて頂戴」  そう言われると、愛子は母の顔の前に自分の顔を近づけた。   「……お母さん、お久しぶりです」 「あぁ、本当に愛子、愛子なのね」  母は我が子をぎゅっと抱きしめた。  四〇年ぶりの事だった。 「……お母さん、ゴメンね。……私、先に死んじゃって……お母さんに悲しませること一杯しちゃったね」 「……そっ、そんなの、それは私のセリフよ。愛子、ごめんなさい。私が貴女を元気な子に産んであげられなくて……。ごめんなさい」    母は娘を抱きしめて、謝りながら泣いた。 「愛子、あなたは幽霊なの?」 「まぁ、そんなところかしら。ただ、お母さんに会いたくて、お母さんの近くに居ただけなの」  母は、もはや愛子が幽霊であろうとなかろうとそんな事はどうでも良かった。ただ目の前に娘がいる事実。これだけあれば、他に何もいらなかった。   「私ね、心臓が悪くて、ずっと入院していたじゃない。でもね、お母さんが毎日お見舞いに来てくれたから、全然寂しく無かったんだよ」 「そんな事無い。私にはそれしか出来なかった。本当はもっと元気な子に産んであげたかった……」 「私ね、お母さんが読んでくれる絵本が大好きだったんだ。だから、毎日毎日同じだけど、ブランコの絵本をお母さんに読んでもらってたの」 「……そんな事しか出来なくて、ごめんなさい。情けない母親で……」 「……ううん、そんなことないよ。お母さん、飽きもしないで、私のお願い毎日聞いてくれた。毎日読んでくれた」 「……私には、それくらいしか出来なかったのよ。本当は愛子の病気が治せれば良かったのに……」  愛子は流れる母の涙を頬から、軽く親指で拭った。それはお母さん泣かないでと訴えている様だった。   「だからね、私いつか元気になったらこの絵本の様に、お母さんと一緒に、ブランコに乗るのが夢だったんだよ」  母は、両手で涙を拭いながら、必死に言葉を絞り出した。 「……うん、知っているわ。あなたは毎日そう私に話しかけてくれたから。『お母さん、病気が治ったら一緒にブランコ乗ろうね』って、それは口癖のように言っていたのよ。……でも、私はその願いを叶えてあげられなかった……ごめんなさい……ごめんなさい……」  母は、娘のささやかな願いを叶えてあげられなかった事を、よほど悔やんだのだろう。愛子を抱きしめながら、必死に謝り続けた。 「……私ね、心臓が弱くて……いつか必ず病気を治して、お母さんと一緒に、ブランコに乗る。これが私の願いだったの」 「……うん」 「でも、私、何となくその願いは叶わないだろうって分かっていた……。だから、未練があって……お母さんの前に……出て来ちゃったのかな?」 「いいのよ! 私の前に幾らでも出て来て! 私はあなたを愛しているの。だから……だから……本当に……ごめんなさい。……私があなたを、もう少し丈夫に産んであげれば良かったのにね。それに……今の今まであなたを忘れていて……ごめんなさい……うぅぅ……」 「違うの、お母さんが私の事を忘れているのは、私のせいなの」  母は驚きを隠せずに、はっと顔を上げた。   「えっ? ……それは……どういうこと?……」 「……実は私、死んだ後ずっとお母さんを見ていたんだ。……毎日私の部屋で泣いてばかりで、食事もとらずにどんどんやせ細っていくお母さんを。……私、そんなお母さんを見ていられなかったの。私の為に体を壊すお母さんを見るのはもう、耐え切れなかったの。……だからね、……私、神様にお願いしたの。……お母さんから、私の記憶を消してくださいって……」 「っえ……そんな……なんで?」 「私にとって、お母さんは大事なの。私の為に、残りの人生を棒に振って欲しくは無かったの。お母さんには笑って生きてもらいたかったの。だから……私の事なんて忘れて欲しかったの……お母さんが私を愛してくれるのはとても分かった。でも、私も同じくらいお母さんを愛していたの! ……だから、ね」 「……そっ、そんな……」    母親は我が子が自分を気遣って、記憶を消した事に驚愕した。  そして、その事実を知るなり、母は泣き崩れた……。 「いっ、いや……。どうして私の記憶を消したの。私は貴女をこんなにも愛しているのに……」 「だからよ! さっきも言ったけど、私もお母さんと同じくらいにお母さんの事を愛しているの! ……だからだからね……お母さんには……笑って生きてもらいたかったんだ……よ……」  涙をうかべならが笑う我が子を見て、母はいたたまれなくなってしまった。 「……わたし……母親失格ね。……娘にこんなに気を使わせてしまうなんて」 「……ううん。これは私が望んだこと。だから今日の事も忘れて、また元気に生きて……」 「……それは……もう……いや。……絶対に愛子を忘れたくない。……私の人生も、間もなく終わるわ。だからね、お願い。あなたを私の中に返して。愛子の記憶を私に返してちょうだい」 「…………おっ、お母さん…………」    母親は、少し体を引き離して、娘の顔を視た。それは我が娘の顔を確かめる為。記憶から二度と消さない為。そう取れる程に凝視したのだ。  そして、ゆっくりと首を左右に振って、娘に懇願を始めた。 「……私は、あなたを忘れるなんて、もういや! ……愛子、お願い。……私も、あなたと一緒に行く。……私も連れて行ってちょうだい」 「……そうだね。お母さんのその気持ちはよく分かる。……だって……私は今までもずっとお母さんの横に居たんだもの。……実はね、お母さんが元気だった時は、私を見る事が出来ないの。生命力が強い時は霊を見る事が出来ないんだって。……でも、今は私を見ることが出来るの。……これが何を意味しているのかは、私にも分かっている……」 「……あなた……そんな事まで……」 「……うん、知っているの。……お母さんは、もう、末期なんだよね。……だから、お母さんは私を見る事が出来る様になったんだ……」 「……そう。私の命は間もなく終わるわ。私は、この世から去る事に悲しみしか無かったけれど、この世から去った後にあなたと暮らせる人生があるとするならば、私は喜んでそちらへ行くわ」 「……ありがとうお母さん」  娘と母は再びきつく抱き合った。  そして、愛子は何かを思いついたように人差し指を立てると、母親に提案を持ち掛けた。 「そうだ、お母さん、一緒にブランコ乗ろうよ。私、お母さんの膝の上に乗るね」  そう話しながら、愛子は母の膝の上に腰を下ろした。  母は背中からぎゅっと愛娘を抱きしめて静かに囁いた。 「……ありがとう、愛子。……私が産んだ、私の命より大切な子。……出来る事ならば、私の命と引き換えにあなたを生かせてあげたかった……」 「そんなことないよ。確かに時間は短かかったかもしれないけれど、私は幸せでした……」 「……愛子……私にを気遣ってくれて……なんて優しい子」 「お母さんが優しいから、優しく育ったんだよ……」 「本当に優しい子ね。私の自慢の娘だわ。願わくば……」  そこまで囁いたところで、愛子は突然姿を消してしまった。 「えっ、愛子、どこ!? ――どこに行ったの!?」  今まで、ろくに歩けなかった体とは思えない程に機敏な動きで、愛子を探し始めた。  しかし、愛子の姿は既にそこには無かった。 「愛子、どこ? まだ、ちゃんとお別れの挨拶もしていないのに」    そんな必死に娘を探す老婆に、一陣の風が吹いた。そして、その風の流れに乗って、微かに娘の声が聞こえた。 『……お母さん、私のお願い叶えてくれてありがとう。……一緒にブランコ乗れて嬉しかったよ。お母さん……私を生んでくれてありがとう。』 「いゃぁぁああああああああ! そんなの幾らでも、してあげるから! だから! 愛子……あぃ……うぅぅぅ」    老婆は、その場で泣き崩れて、地面にうずくまった。    そんな老婆に対して、『泣かないで』と慰め撫でる様に、老婆の頭の上を優しい風が滑らした。  ● ● ●  それから数日後、マカロンは老婆と会った公園の前を通りかかると、ベンチには老婆ではなく初老の男性が座っていた。  その男性はマカロンの姿を見た瞬間、お辞儀をして、マカロンに近づいてきた。 「初めまして。山田と申します。先日は妻が大変お世話になったみたいでして。」  そういいながら、男性は髪ゴムを差し出した。 「これは……」 「えぇ。先日渡辺さんからお借りしたゴムと伺っています。亡くなる前に、ピンク色の髪をした子にこのゴムを借りたので、返してもらいたいと頼まれまして」  マカロンは瞳孔を大きく開いて、改めて、男性の顔をマジマジと見直した。 「確かにこれはアッシが貸したゴムですが……奥さんは……」 「えぇ、末期ガンだったんですよ。今月いっぱい生きられればと医者に言われていたので、好きなように散歩をさせていたのです。そう言えば、妻は変な言動とかしていませんでしたか?」 「変な言動……? あぁ、そういえば、誰も居ない所に向かって、『飴いるか』とかまるで子供がそこに存在するように話していたなぁ。アッシには幽霊でも見えているのか? と思ったが……」 「…………そうでしたか。……そうか、それで」 「何か、あったんですか?」 「いぇ、実は私達には子供がいたのですが、小さい時に亡くしてしまいましてね。その後妻は躁鬱になり、自我が完全に崩壊してしまったのです。ところが、ある日それが嘘の様に無くなり、まるで別人かと思える程、元気になったのですよ。私も妻が元に戻ってよかったと思ったのですが、どうやら娘の記憶の一切を消していた様です。きっと妻にとって、娘の記憶を消さなくては生きていくことなど出来なかったのでしょうね」 「……そうだったんですか」 「でも、あなたの話で何となくわかりました。きっと妻は死ぬ間際に娘の記憶を取り戻したのだと思います。ひょっとしたら娘が妻を迎えに来たのかもしれませんね」 「……そうですね。そうであるといいですね」  マカロンは、なんて重たい話をするんだと、若干気分が沈んだものの、爽やかに去っていく旦那さんに空気を合わせて手を振るのだった。    ――そして、そんなマカロンの横を生暖かい風が通り過ぎて行った。  どうやら夏はもう、すぐそこまで来ているようだった――。  ● ● ● 「ただいま~」  マカロンは家に着くなり、冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出した。  そして、コップに注いでいると、奥から母親が顔を出した。   「おかえりマカロン。そうそう、知ってる?」 「なにが?」  マカロンは軽く返事をしながら麦茶で喉を濡らした。   「ほら、角の山田のお婆さん。亡くなったんですって。今日、回覧板が回って来たのよ。ガンだったらしいわよ」 「あぁ、さっき聞いたから知ってるよ」 「あら、知ってたの? 誰から聞いたの? ……それにしても、一人暮らしで大変だったでしょうにね。誰が発見したのかしらね」 「……はぃ? 一人暮らし?」  マカロンは飲んでいた麦茶のコップを落としそうになった。 「お母さん、何言ってるの。あそこ、旦那さんがいるでしょう?」 「あなたこそ何言っているのよ。旦那さんはもう五年も前に亡くなっているでしょう」 「いゃ、だって、さっき……ここに髪ゴムだってあるし……じゃぁ、これは誰が!?」    この時、近所迷惑になる程の叫び声が、渡辺家に響き渡った。  
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