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第3話 ひどい言葉
そして私たちふたりはまた、けやき並木を並んで歩き始めた。
違うのは、歩き始めてしばらくすると響がふたたび手を繋いできたことだ。
「大丈夫?」
繋がれた手に戸惑って言うと、
「どうして?」
彼は不思議そうな顔をした。
「だって、誰かに見られたら……」
「いいよ、だって彼女なんだし。桜井さんが困るならやめるけど」
一度そう言ったあと、
「違った、栞が困るなら、ね」
と、笑いながら言い直した。
「私は、いいけど」
顔を俯かせて言った。
私を気遣ってのことかもしれないけど、響はこのシチュエーションを彼なりに楽しんでるように見える。
そして私はというと、あまりの思いがけない展開に、あんなに悲しかった気持ちが今はどこかに消えてしまっていた。
突然繋がれた手に、胸が高鳴るのを止められない。
一夜の彼氏といっても、つまりは一回デートしてもらうだけのこと。彼が無理してつき合ってくれているわけじゃないのなら、このまま一夜限りの恋人気分を楽しんでみたい。今はそんな気持ちになっていた。
ふたりは手を繋いだままけやき並木を終わりまで歩くと、駅前の繁華街へと向かった。
雑貨を見たり、古着屋さんを覗いたり、窓越しに猫カフェを眺めたり。ゆっくりした足取りで通りを歩いて行く。
そして、ふらりと入ったゲームセンターのクレーンゲームで、響は小さなイルカのぬいぐるみを取ってくれた。
「惜しかったなぁ」
響は、クレーンゲームで取れなかった熊のぬいぐるみを悔しがってる。
「あんなに大きいの無理よ」
「そっかなぁ、上手く引っかければいけると思ったんだけど」
「でも、これが取れたから」
紐に繋がったイルカのぬいぐるみを揺らしながら言った。
「ごめん、ちっちゃいので」
「ううん、可愛いじゃない。好きだよ、これ」
最初はぎこちなかったふたりの会話も、すっかり打ち解けてきてる。
「お腹すいてる?」
ゲームセンターを出てしばらくすると、響が聞いてきた。
「ちょっとすいてるけど、食べるより飲みたい気分かな?」
お酒はあまり飲むほうじゃないけど、今夜は酔ってみたい気分だった。
「了解」
響は、タクシーを捕まえると、こじんまりとしたショットバーへと連れて行ってくれた。
「素敵なお店だね」
店内を見渡しながら言った。
アンティークな雰囲気の店内にジャズの流れる大人っぽい感じの店だった。
「よく来るの?」
「大学のころは毎週のように来てたけど、最近はあんまり」
「常連だったんだ」
「ここのマスターはネットで有名なミステリー愛好家なんだ」
カウンターの向こう側で、シェイカーを振るマスターを見て言った。
髭をたくわえ、寡黙そうな佇まいは、落ち着いたこの店の雰囲気にとっても似合ってる。
「自分でも書くし、本になった作品もある。そんなこともあって、ここってミステリー好きの人が集まる店なんだよね」
「峠野くんてミス研だもんね」
私が言うと、彼は不思議そうな顔をした。
どうして知ってるのかという顔だ。
「あ、エントリーシート読んだから」
慌ててそうつけ足した。
彼の採用時のエントリーシートには、大学時代のミステリー研究会の経験談が書かれていた。
シートに貼られた彼の写真を繰り返し眺めていた私には、そこに書かれた内容も自然と頭に残っていたのだ。
「私、児童文学研究会だったの。ちょっと似てるなって思って、覚えてたの」
さらにそうつけ足したのは、彼のエントリーシートを繰り返し見ていたことを悟られそうで、恥ずかしかったからだった。
すると響は、ふぅんと鼻を鳴らした。
「童研だったんだ」
「うん」と私は頷いた。
児童文学研究会は、童話を書いたり、絵本を作ったり、読み聞かせをしたりと、目立たない静かなサークル。参加している人たちも大人しく穏やかな感じの人ばかりだ。
大学時代の私は、そのサークルのアイドル的な存在だった。
あの頃の私は、いつも人の輪の中心にいて、みんなの注目を浴びてキラキラ輝いていた。
ただ、今の会社でサークルのことを話すのは、今回が初めてだった。会社の人たちは、誰もがもっと華やかな学生生活を過ごした人ばかりで、気後れしたからだ。
「でもあんまり似てないね。うち、地味だし」
「ミス研も似たようなもんだよ」
「そう?映画とか作ったりして華やかじゃない」
「そんなことないって。あそこにいたってだけでジミーとか呼ばれてるし」
「誰に?」
「須坂、ま、呼んでるのはあいつだけだけどさ」
須坂哲也は響の同期で、私が初めて採用を担当した新入社員のひとりだ。
確か学生時代は大きなイベントサークルの主催をしていたらしく、派手な雰囲気と賑やかさが新入社員の中でも目立つ存在だった。
「彼なら言いそう」
首をすくめて笑った。
その後、須坂君の話から、響の同期の話題になった。
響の同期はみんな仲がいいらしく、入社してまだ半年だというのにすでに三回も同期会が行われているのだそうだ。
さらには、同期だけでなく、響の職場の同僚も楽しい人ばかりのようで、彼は面白おかしくいくつかのエピソードを話してくれた。
私は相づちをうちながら、彼の話を聞いていた。
「楽しそうだね」
「うん、まぁ、飽きないっていうか、変な人ばっかだしね」
「会社は好き?」
「好きですよ。五月病っぽい時もあったけど、仕事も慣れてきたし。いまは入れてよかったって思ってます」
屈託のない表情だ。
きっと響と同じように感じている人は多いんだと思う。
でも、そのあと、
「桜井さんは?」
と聞かれると答えに詰まってしまった。
私はいまの会社が好きなのだろうか?
そう自問した末、
「ん~、わかんない」
と誤魔化してしまった。
採用の仕事の中で耳にする我が社の評判は、明るく和気あいあい、社員同士の仲が良く、SNSの書き込みには大学サークル的社風なんて評価が上がっていたりもする。
ただそんなワイワイ楽しげな社風も、私のような大人しい子にとっては微妙だ。周りの賑やかさについていけないところがあって、疎外感を感じたりもする。
いつも一歩後ろから、楽しそうな周囲の人たちを眺めてばかりいる気がして、私には、もっと堅くて大人しい会社のほうが合っていたのではないかと思ってしまう。
そんなことを考えていると、一度響との会話で上向いていた気持ちが、また沈みそうになってくる。
ひとたびテンションが下がってくると、少しの間忘れていた言葉が再び蘇ってくる。ついさっき、あの女に浴びせられた言葉だ。
そして、その中でひとつ、疑問に思ってたことを思い出した。
「ね、ひとつ聞いていい?」
打ち解けた空気にまかせて尋ねてみた。
「なんですか?」
グラスを口に運びながら、響が言った。
「私ってさ……」
「うん」
「マグロかな?」
次の瞬間、
「ッ、ぐっ、ゲホッ、ゴホッ」
突然響が咳き込んだ。
飲もうとしたカクテルがおかしな方に入ったみたいだ。
「大丈夫?」
慌てて覗きこむ。
「大丈夫だけど、ゴホッ、そういうことは、あまり気にしなくても」
なんか慌てた感じの反応を見て変だと思った。
容姿のことを言われたのだと思ったけど、別の意味がありそうだ。それも、もっと酷い意味が。
「マグロって何?」
「え?」
「変な意味があるんでしょ?」
「それは……」
口ごもってる。やっぱりそうなんだ。
「教えられないこと?」
詰め寄ると、響は困った顔をしてる。
そして、ちょっと考えたあと言った。
「簡単に言うと、おとなしい女の子のことかな。ただ、そういうのって、人それぞれだから」
「そうなの?」
「うん、気にしない方がいいよ」
あやしい、と思った。
ぜったい何か隠してる。
「わかった。じゃあ今度、峠野くんから、私、マグロだって言われたって言ってみる」
「ちょっ、そんなこと……」
かなり慌ててる。
「だって、おとなしい子って意味なんでしょ?」
彼は言葉に詰まった。
その顔をじーっと見る。
すると、やっと、
「おとなしい子ってのはそうなんだけど、ただそれが、ベッドの上でってことで……」
観念したみたいに言った。
言葉の意味を理解した私は、真っ赤になって俯いた。
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