閑話・六: 初恋

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 *  *  達朗の部屋は店舗のちょうど真上に位置していて、商店街に面した窓がある。その窓から下を覗けば客が来ている様子が見えるし、窓を開ければ声も聞こえる。この日も、達朗はぼうっと窓を開けて外を眺めて考え込んでいた。そんなときに、外から来客を知らせる声が聞こえてくる。 「こんちゃーす」  聞き覚えのあるその声に下を覗けば、それはやはり達朗の見知った人物だった。よく店にやってくる、小中学校時代の同級生、アイである。アイがこの商店街の酒屋の息子であることは知っていたけれど、彼がこの街に残り、かつ惣菜店の常連客となっていることは帰省してから知った。  アイは店頭の和子に声をかけてから、ふと上を見上げた。そして達朗と目が合うと、アイはにやりと口角を上げて笑った。それから、達朗に向かってぶんぶんと手を振ってくる。 「おーい、今日も元気に引きこもりやってるー?」  そしてそんなことを言ってくるから、達朗は思わず眉間に皺を刻んでしまった。  アイとは特段仲がよかったわけではない。ただ、同じ商店街に住んでいる同級生として互いを認識し、それなりに言葉を交わしていただけである。とりわけ、アイは学年の中でも存在感のある男だった。いつでもクラスメイトに囲まれていて、どちらかと言えば言葉少なく寡黙だった達朗とは対照的な人柄だったと言える。アイは友好的に達朗に声をかけてくれたが、達朗は彼を少し苦手にすら思っていた。  そんな彼に中学生ぶりに再会して思ったことは、彼は当時とまったく変わっていないということだった。かと言って、アイが子どものままだという意味ではない。今になって学生時代を思い起こしてみれば、彼は随分と大人びた子どもだったのかもしれなかった。  そう思えば、当時抱いていた厭悪感もなしにアイと向き合うことができた。むしろ、恐れ入る気持ちの方が強い。そんなアイはこうやって店を訪れると、達朗の部屋を見上げ、目が合えばぶんぶんと手を振ってくる。たまに余計な一言を添えてくるのが玉に瑕ではあるけれど。  そしてアイが帰って行ったあとのことである。なんともなしに外を眺めたままでいると、次の客がやって来た。その客の様子を見て、達朗はぎょっとする。  それは、大学生と思われる若い男だった。体つきは薄く、小柄でいかにも気弱そうな様子が見て取れた。けれど同時にそれは、彼の持つ心根優しそうな雰囲気をも感じ取れる。達朗は、彼もまたアイと同じようにこの店の常連客であることを知っていた。彼がその体つきに見合う小食であることも知っているほどには、帰省して以降、達朗も彼を見かけていた。  そんな男が、今日は泣き腫らしたように目元を赤くしていた。声も掠れているのがわかる。聞き取りにくい声で、彼はいつもなら考えられない量の惣菜を注文していた。その姿は、彼をよく知らない達朗にすら異様に映り、それは当然と、和子の目にもそう映ったらしい。和子の声が聞こえてくる。 「あんた、泣いてんのかい」  なにを包み隠すこともなく、ずばりと和子が尋ねている声が聞こえてきた。 (おいおい)  達朗もその問いかけには呆れてしまう。達朗ですら見てわかるそれを、親族でも友人でもないただの店員が触れていいものでもないはずだ。触れるにしても、もう少し言葉を選ぶべきだろう。  とは言え、達朗とて彼の様子が気になるのもまた事実だった。息を潜めるようにして、じっと彼の反応を見守ってしまう。  と、彼はにこりともにやりとも、なんとも形容しがたい笑みを顔いっぱいに浮かべた。貼りつけた、と言ってもいい。ぎこちなく、そしてちぐはぐだった。アイのそれとはまったく違う。そんな表情の彼は、口を開いた。 「嫌なことがあったんですけど、美味しいものをいっぱい食べれば忘れられますから」  それから彼は、先ほどよりも幾ばくか表情を穏やかにした。そして言葉を次ぐ。 「ここのご飯が本当に好きなんです。すごく美味しくって。これがあるから、僕は頑張れるんです」  あまりにも素直に、彼はそう言った。そしてその言葉は、達朗の中にもストンと落ちてきた。同じだ、と思った。和子の作るごはんは体だけではなく、心にも栄養を届けてくれるから。 「ふん」  と、和子が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。それから言葉を続ける。 「今日はサービスだよ」
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