閑話・六: 初恋

4/6
336人が本棚に入れています
本棚に追加
/74ページ
 ――なんのために  ああ、と達朗は思った。腹が減る、と。ここ最近はなにを食べても腹を下したり吐き気を催してしまう。それなのに、不思議とこの体は食べ物を欲するのだ。美味しい食べ物を。  いつか食べた、つやつやと粒が立った甘みのある米。味の染みた柔らかい大根の煮物。噛めばじゅわり、と肉汁が溢れ出す唐揚げ。魚介のうまみが染み出たしじみの味噌汁。  ――なんのために  あの頃に戻れたならば、と思う。けれど同時に、戻ってどうするのだ、という思いも湧き出る。もっと努力をしていれば今頃ラグビーを続けていたかもしれない、などと、そんなことはどうしたって達朗には思えない。達朗は努力を踏んだ上で、今のこの日々を歩んでいるのだから。  ただ、とにもかくにも腹が減っていた。  あの頃食べていたものを食べたいな、と思った。当時はそれらはあって当然のものだった。むしろ、たとえばピザだとか、ハンバーガーだとか、そういうものが食べたいと不満すら抱いていた。だけど、今思えば、あれほど旨い飯はないのだ。和子と宏行が作るものよりも美味しいものなど、なかったのだ。  ほとり、と達朗の頬に水滴が落ちた。達朗はぼうっと、その水気を手のひらで擦る。濡れた手のひらに目を落とすと、またその目から新しい雫が落ちた。そのとき初めて、達朗は自分が泣いていることに気がついた。  それから達朗は体調を理由に会社を辞めた。見るからに痩せ細ってしまった達朗に、誰も疑いの目など向けはしなかった。  そして達朗は、家を出てから初めて、和子の元へ帰った。情けない、だとか、後ろめたい、だとか、そんな感情はもはやなかった。ただ、とにもかくにも腹が減っていた。それは縋るような思いだった。  そうやって唐突に帰って来た達朗に和子は少しだけ驚いた顔をしたけれど、すぐに何事もなかったかのように「おかえり」と言った。達朗が記憶しているよりも皺が増え、そして体が小さくなったように見える和子は、それでも、言葉少なで笑顔が乏しい和子のままだった。  ――飯を食うなら台所にあるから、勝手に食いな  そんな言葉も、達朗が記憶していた和子となんら変わらなかった。中学校やラグビーの練習から帰ってきたかつての達朗にも、和子はいつもそう声をかけてきていたから。  つやつやと粒が立った甘みのある米。味の染みた柔らかい大根の煮物。噛めばじゅわり、と肉汁が溢れ出す唐揚げ。魚介のうまみが染み出たしじみの味噌汁。  美味しかった。満たされる思いだった。空腹以外にも、達朗の中、萎れてしまった大切なものがじわり、じわりと栄養を得ていくのがわかった。  ――なんのために  相も変わらずその問いは腹の底で疼いている。けれど、和子はかつてと変わらず達朗を迎えてくれた。そして、和子の味は変わらないままだ。達朗は静かに涙を落としながら、それを空腹に納めていった。  達朗の部屋は、中学生の頃のまま変わっていなかった。当時活躍していた選手のレプリカユニホームが壁に飾られ、本棚にはスポーツ雑誌ばかりが並ぶ。ラグビーと未来への夢に滾っていた当時の空気が色濃く残っている。それを居心地悪く思いながらも、けれど当時のような純粋に胸を燃やす感覚を思い出すようで、嫌とは言い切れないものもある。それらを捨ててしまうことは簡単だったけれど、達朗はそうしなかった。  けれどそれらが達朗を物思いに沈ませてしまうことは確かで、達朗は引きこもりのようになってしまった。と言っても、部屋に立てこもる、という意味ではない。  ――なんのために  部屋に溢れる夢や希望に胸を揺さぶられると同時に、その問いが達朗の中で繰り返されるのだ。延々と。達朗は新しい仕事を見つけるでもなく、惣菜屋を手伝うでもなく、ただただ考え続けた。  ――なんのために、ここまでラグビーを続けてきたのか  ――なんのために努力をしてきたのか  ――努力を尽くしてきたそれを失った今、なんのために生きているのか  そんなときにたまたま、達朗は渡の姿を見かけた。それが、達朗にとっての渡との出会いだった。
/74ページ

最初のコメントを投稿しよう!