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トントン、と小気味よい包丁の音が聞こえてくる。それから、空腹を刺激するいい香りが鼻を擽った。長嶋渡の朝は、いつもこうして始まる。
渡はむくりと布団から体を起こすと、冷たい空気にぶるりと体を震わせつつ、部屋着の上から半纏を羽織った。かつて世話になった大切な人が手ずから作ってくれたそれは、渡の寒がりな気質をわかっていて気遣ったのだろう、これでもかと綿が入っており、ふっくらとしていてとても温かい。渡は寝ぐせもそのままで、この半纏を作ってくれた人の元へと向かった。
その人は、仏壇の中でも仏頂面を浮かべていた。ここに写真を飾るとなったときにいろいろ写真を探したのだが、どうにも彼女はなかなか笑わない質だったようだ。たいていが眉間に皺を寄せていた。今渡の目の前にいるのは、その中ではかなり柔らかい表情を浮かべているものだ。眉間に皺もなく、もともと吊り上がり気味の眉も、緩く弧を描いている。ただ、その唇だけはやっぱり不機嫌そうに、一文字に引き締められていたけれど。まるで、笑ってなるものかとでも言いたげな表情である。
「おはようございます、和子さん」
渡は仏壇の前に膝をつくと、チャッカマンから線香に火を灯す。本当は蝋燭から火をとるべきなのはわかっているけれど、かつてこの女もそうやっていたから文句は言うまいと倣っているのだ。彼女は生前、こうして火を灯した線香を供え、仏壇に手を合わせるのを日課としていた。そんな彼女が向き合っていた仏壇の中には彼女の夫と娘、そしてその娘の夫の写真が飾られていた。今は、その中に彼女の写真も加わっている。
「宏行さんも、みなさんも、おはようございます」
渡は彼女以外を知らない。それでも、みんなに挨拶をするのは彼女が生前の頃からの習慣である。
そんな渡が火をつけた線香の隣には、もうすでに一本、線香が立っていた。長さはもうすでに短くなっている。
「渡ー」
と、なかなか朝食の席に顔を覗かせない渡を案じてか、名前が呼ばれた。
「はあい」
渡はそれに応えると、「行ってきます」と仏壇に声をかけてから立ち上がる。そのまま顔だけ洗ってから、食卓に向かった。
「おはよう、渡」
するとそこにはもうすでに、ひとりの男が席についていた。半纏を纏っている渡とは裏腹に、その男は半袖のTシャツ姿である。その上から藍色のエプロンを身につけていた。そのエプロンには「宇佐美惣菜店」の名前と可愛らしい兎のキャラクターが描かれている。
渡は成人男性としては特段小さいわけではない。確かに小柄な方ではあれど、おそらく平均くらいはあるはずだった。けれどテーブルを挟んで座っている男は、そんな渡が小さく感じるほどに体格がいい。胸板は厚いし、半袖から覗く腕は太くて筋肉が乗っているのがよくわかる。石津達朗は、渡と付き合ってから八年、かつ同棲してからは三年になる恋人だった。
達朗のエプロンからわかるように、ここは自宅兼店舗の惣菜店である。達朗の育った家であり、今はこの店を達朗がひとりで営んでいる。ちなみに店名と達朗の名字が異なる理由は、ここが達朗の母方の実家だからである。つまり、先ほどの仏壇の中にいた和子は達朗の祖母、宏行は祖父、そして達朗の両親ということだ。
そして渡は、そこに身を寄せる形で同棲していた。達朗の朝は店の仕込みで早く、そのついでにとこうして日々の食事も用意してくれる。今日のテーブルに並んでいるのは、豆腐となめこの味噌汁、白菜と鶏肉の出汁煮、人参とさつま揚げのきんぴら、そして渡の好きな甘めの卵焼きである。渡は腹を鳴らしながら食卓に着いた。
「いただきます」
そして手を合わせれば、達朗はゆったりと「めしあがれ」と言う。
朝食の準備を手伝おうか、と渡も提案したことはある。けれど、今のところそれは受け入れられそうにはない。料理が下手だとは思いたくないが、少なからず苦手な自覚はある。でも、そうでなくても一緒にこうして暮らしているのだから、できることは渡自身もやりたいと思っているのだ。ただ達朗は、渡は渡で店を経営していて忙しく、一方で料理は自分の仕事の延長線上なのだから、と言うのだ。まとめてできることなのだから気にしなくていいのだ、と。それに、自宅で店をやっている自分の方が時間を自由に使えるのだから、と。渡は自分のできる家事や、自分の店の休みの日は達朗の店を手伝うことでどうにかバランスをとろうとする日々である。しかしいかんせん、達朗はひとりであらかた何でもできてしまう人なのが困りものだけれど。
そんな達朗お手製の朝食は、今日もいつも通り絶品である。
「美味しいです!」
卵焼きを口に含みながらそう言えば、達朗は幸せそうに目を細めた。
達朗の朝食に力を得ながら、渡は自身の経営するアクセサリーショップに思いを馳せた。今日は果たして、どんな客が来るだろうか、と。
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