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声を出してみたいと思った。
あれほどまでに出なかった声を。
「そんな声が世界に通用すると思ってるのか!」
父さんの罵声が響く。僕はすぐに縮こまる。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「何度言えば分かるんだ!」
「ごめんなさい、うまく歌えなくてごめんなさい! ごめんなさい!」
当時七歳だった僕は泣きながら必死に必死に謝って、震えながら何かの歌を必死に必死に歌っていたと思う。
音楽教師であった父さんは自分の昔の夢を叶えるために、とにかく僕を歌手にしたかった。
歌うのが好きとか世界に通用したいとかそんなことを一切思わずに、ただ、ただ、父さんのご機嫌をとる一心で、僕は毎日毎日声を出して出し続けた。
とにかく、命がけで。ご飯を食べられるとかお風呂に入れるかとか僕の生活は全て、その日の歌にかかっていた。
海外雑貨の販売員をしている母さんは海外を飛び回り、あまり家には帰ってこなかった。
日々練習に練習を重ねて、
そして九歳の冬、僕の声はなくなった。
歌えなくなった以前に、人と話せなくなった。怖くて声が全く出せずに。
声が出せなくなっても父さんはただ僕に『歌が下手だった』『声が出なくなるなんて情けない』『親不孝者』など散々言いつづけていたが、その冬、人生で一度も褒められたことがないまま父さんは癌になり、あっけなく死んだ。
「結局父さんは翼から声だけをとって死んだんだね。なんで他はおいていったわけ?
……全部持っていけばよかったのに」
父さんの葬式の日、久しぶりに帰ってきた母さんは父さんの遺体を見てぼそりと呟き、泣く様子もなく僕を静かに見た。
「あの人の血をひき、さらに愛想までなくした子どもなんていらない」
とまた海外へ行くために家を出ていった。
誰もいなくなった縁側のある一軒家。
少しして、事態に気づいた父さんのお母さんが急遽、僕をひきとった。
おばさんが僕をひきとって三ヶ月が過ぎた。
おばさんは決して優しい人ではなかった。
特に何も話してこないし、僕をどこかに連れていってくれたりしない。
「学校いく時間」
「ご飯」
僕は誰とも話さずに学校の授業を受けて、何も言わずにご飯を食べて、ロボットのように毎日を過ごした。
おばさんは低く冷たく短い言葉しか言わなくて、僕にただただ、無関心だった人だった。
でもひとつだけ、おばさんは僕にプレゼントをくれた。
それが、ハーモニカだった。
九歳の僕の手におさまるそのハーモニカを無言で手渡されて、無言で受け取った。
誕生日でもなんでもない、三月中旬のことだ。
僕の家は田舎町で、辺りは田んぼに囲まれていたので、楽器をうるさく鳴らしても気にならない環境だった。
だからなんとなく僕は縁側でハーモニカを吹いていた。
最初はただただなんとなく。
でも次第にドレミがどれなのかを探して、
分からなくてあきらめて、また探して。
そうして一週間たったある日、
縁側でハーモニカを持って座っていると、ひとりだった僕の目の前に、僕と同い年くらいの見知らぬ女の子がきていた。
「ハーモニカ、聞きたい」
え? と思ったが、泣きそうな声で、震えた声で言うから断れなくて、僕はタイトルのないオリジナルの適当な曲を演奏し続けた。
あきるかと思った。
呆れるかと思ったの、に、
「ありがと」
なんて泣くから、どうしようもなくなって僕はじっと女の子をみていた。
「歌が好きなの」
と言う。僕が黙っていると
「あなたの歌が、好きなの」
と言う。
歌? これは歌ではない。これは曲なのではないか? 歌は声が入るのではないか?
歌じゃない。僕が違うと首を振ると
「あなたは歌が好きじゃないの?」
と女の子は尋ねる。
違う、そういう意味じゃない、そういうことじゃない。
僕が戸惑っていると、
「あなたは歌が歌えないってこと?」
と尋ねてきた。
僕は戸惑う。女の子はきょとんとして黙ったままで、だから、間違っていないから、僕はこくりと頷いた。
「そうなの」
と女の子はしゅんとした。
僕は少し悲しい気持ちでこくりと頷くと、女の子はにこりとした。
「わたしが歌ってあげるから大丈夫よ。あなたはハーモニカで歌えるし、大丈夫よ」
頭をなでられたとき、僕は思う。
ああ、そんな発想があるんだって。
無理に話さなくていいんだって、女の子は言ってくれている。
次の日も次の日も、女の子はやってきた。
「ハーモニカはね、息を吹きかけて震えて音が鳴ってるんだよ」
女の子の言葉は正直『ふうん、そうなんだ』ぐらいにしか思わなかった。
女の子の名前は和葉ということがわかった。普段は都会に住んでいて、春休みだけ毎年僕の家から十五分離れたおばあちゃんの家に遊びに来て、大好きなカメラを持って一人で近くを探検しているらしい。
今年もその時に縁側でハーモニカを吹いていた僕を見つけたらしい。
次の日も、次の日も、和葉ちゃんはやってきた。
なんで来てくれるのかは分からなかった。
何故か何一つ喋らない僕の家に懲りずにやってくる。
いつも縁側で、和葉ちゃんは僕の隣に座っていた。いつも和葉ちゃんは歌っていて、僕もハーモニカで歌っていて。いや、正確には和葉ちゃんが僕のハーモニカの音に乗せて歌ってくれていて。僕のハーモニカも上達して。
和葉ちゃんは、僕が一言も話さない理由を一度も咎めなかった。
「ねえ、翼くん。歌って」
おばさんに聞いたのか、いつの間にか和葉ちゃんは僕の名前を知っていた。
「翼くんの歌が好きなの」
和葉ちゃんはいつもそう言ってくれた。
ハーモニカを吹くと和葉ちゃんはにこりとする。
「ほっとするの」
胸に手を当てて、笑っていた。
どうしてほっとするのかは知らないし必死にはなれないけど、ほっとするならと、僕は和葉ちゃんの期待になるべく応えられるようにハーモニカを吹いていた。
和葉ちゃんの好きな歌は吹けないけれど。
何が好きかも知らないけれど。
何とか世の中の人が分かってくれるような、和葉ちゃんが分かって喜んでくれるような歌を探していた。
毎日、毎日、僕はなんとなく、音を探していた。
「あのね、翼くんのことが好きなの」
それは和葉ちゃんと会う日を重ねていた、ある日のこと、
「翼くんのことが、大好きなのよ」
突然の告白だった。
ハーモニカを吹く手を止める。
告白してくれた時、和葉ちゃんは泣いていた。
どうしてか、
悲しくて、寂しくて、痛くてたまらない、
そんな顔だった。
和葉ちゃんが差し出したのは一枚の写真。
次にもう一枚、またもう一枚。
和葉ちゃんが大好きなカメラでとった写真。
そこには、僕の過去が写っている。
父さんに罵声をあびて縮こまる僕の姿が過去を遡った、春休みの分だけ。
「ずっと助けてあげられなくて……ごめんね」
その時、僕はようやく分かった。
和葉ちゃんが、痛むことも忘れてしまうくらい辛い僕の過去の傷を一緒に抱えて、僕に会いにくるたびに悩んでくれていたこと。
和葉ちゃんは僕に話しかける前から、僕の事情を全部知っていた。
何もできないと無力な自分を責めて、悩み続けてくれていた。
だから、涙が出た。
ぽろりと一粒の、とても重く冷たい涙が。
どんな思いだっただろうか。
どんな思いで春休みに僕の知らないところで、毎年、僕に会いに来てくれてたのかと思うと感情がこみあげてきた。
気づくと、縁側におばさんが立っていた。
無関心な顔。
だけどなにも言わずに、おばさんは僕たちをぎゅっと抱き締めた。
やさしいぬくもりだった。
「おばさんも、わかってたんだよね」
和葉ちゃんがそう言って、僕は気づいた。
おばさんは決して優しい人ではなかった……わけじゃない。
和葉ちゃんがおばさんを見る目でなんとなく思う。
おばさんもまた、こんな心境にたたされた僕に何を言えばいいのか分からずに、声をなくしてしまっていたのではないかと。
交通事故で亡くなったおばさんの大切な旦那さんがハーモニカ好きであったことは、その時に知った。
僕の持つハーモニカ、それはおばさんが僕に愛をくれたということだ。
声を出してみたいと思った。
あれほどまでに出なかった声を。
『そんな声が世界に通用すると思ってるのか!』
父さんの罵声が響く。
僕の声が、世界に通用するなんて思っていない。
近くにいる人でさえ、不快にさせる声かもしれない。
だけど、世界に通用するとかしないとか、もうどうでもいい。
今まで和葉ちゃんにもらったあたたかさをもって。
それを勇気に変えて。
僕は口を開く。
「あ、りが、と」
僕の声は情けない声だった。
近くの人にも聞こえない。
そんな小さく震えた声。
久しぶりに出た、声。
「……ありがと、翼くん」
「……ありがとう、翼」
和葉ちゃんとおばさんが僕にそう笑いかけた。
僕の小さく震えた声は、世界に通用する。
二人の声が聞こえるとそう思えて、ただ、ただ、嬉しくなったんだ。
ハーモニカは震えても綺麗な音を鳴らす。
声を出してみたいと思った。
あれほどまでに出なかった声を。
今度は世界という
ぼやけた大きなものじゃなくて、
僕の近くにいてくれるあなたに向かって
伝えたいことがあるよ。
「本当に、ありがとう」
僕は震えても音を鳴らす。
分かってくれて、ありがとう。
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