クライ・バグ

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
   まだ夜明け前なのに、仕事に行くため玄関を出た。ダークスーツの上から黒いコートを羽織り、ビジネスバッグをお供にしたいつものスタイル。  外は静かだ。道路から聞こえてくるまばらなエンジン音が、車の動きの少なさを教えてくれる。それでも、僕の心に比べたらずっと賑やかな気がする。  コンクリートで固められたアパートの狭い通路を進み、2階へ続く階段へと向かう。  冬の朝は寒くて、痛い。カラダも、ココロも固まってしまっている。  黒いバッグを持つ右の手に、今日を頑張ろうと思うだけの力は入らない。中指と薬指の2本だけを持ち手に掛け、ぷらぷらと支えている状態だ。  なんて、ツマラナイんだろう。  時折ぶるっとふるえるカラダ、指先で揺れるバッグの傍らで、僕の心は止まったままだ。階段前のこの場所は、踊り場だなんて名前なのに。  もう、このまま飛び降りちゃおっかな。    せっかくの日中に仮面を被り、サラリーマンとして踊り、踊らされる日々。この先、代わり映えのしない未来がもう見えている。  僕は自分の意思で、踊りたい。力強く段差に向かって一歩を踏み出した──その瞬間、バッグが、ふるえた。ぶるっと体を震わせて、踊り場から身を投げてしまった。  あっ、という間もなかった。振り子の動きで揺れていたバッグが指から離れ、側転の動きで階段をころげ落ちていく。  革製のバッグからは段差で跳ねる度にぼこっぼこっと音がして、途中、衝撃で開口部のマグネットが外れて両側の蓋が開いた。それでも、回転は止まらない。  翼を広げた黒い鳥へとメタモルフォーゼしたバッグは、ぼこっぼこっと鳴きながらまだ階段を転がっていく。回転する度、開いた口からは印鑑やスティック糊、消しゴムや瞬間接着剤など、なんとなく入れていただけの、およそ不要なものたちが飛び出して散らばっていった。  落ちるところまで落ちた後、黒い鳥は2階に着地して、ばたりと倒れた。口を閉じて、もう動かない。黒い鳥の形から、バッグの姿に戻っている。階段の途中には中身が散らかっていた。  ああ、そうか、こうなるのか。  軽くなった右手と、視線の先で倒れている、僕の手を離れたものとを交互に眺めた。  階段を下りてバッグを拾い、ポンポンと叩いて汚れを落とす。そこらに散らばっていた余分なものは、バッグに戻さずコートのポケットに入れた。あとで、捨ててしまおう。  少しだけ軽くなった分、少しだけ力が出た気がする。中指と薬指に、人差し指を加えた3本でバッグを支える。  いつも一緒にいてくれる黒いバッグは、今日も大事な行き帰りのお供だ。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!