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まだ夜明け前なのに、仕事に行くため玄関を出た。ダークスーツの上から黒いコートを羽織り、ビジネスバッグをお供にしたいつものスタイル。
外は静かだ。道路から聞こえてくるまばらなエンジン音が、車の動きの少なさを教えてくれる。それでも、僕の心に比べたらずっと賑やかな気がする。
コンクリートで固められたアパートの狭い通路を進み、2階へ続く階段へと向かう。
冬の朝は寒くて、痛い。カラダも、ココロも固まってしまっている。
黒いバッグを持つ右の手に、今日を頑張ろうと思うだけの力は入らない。中指と薬指の2本だけを持ち手に掛け、ぷらぷらと支えている状態だ。
なんて、ツマラナイんだろう。
時折ぶるっとふるえるカラダ、指先で揺れるバッグの傍らで、僕の心は止まったままだ。階段前のこの場所は、踊り場だなんて名前なのに。
もう、このまま飛び降りちゃおっかな。
せっかくの日中に仮面を被り、サラリーマンとして踊り、踊らされる日々。この先、代わり映えのしない未来がもう見えている。
僕は自分の意思で、踊りたい。力強く段差に向かって一歩を踏み出した──その瞬間、バッグが、ふるえた。ぶるっと体を震わせて、踊り場から身を投げてしまった。
あっ、という間もなかった。振り子の動きで揺れていたバッグが指から離れ、側転の動きで階段をころげ落ちていく。
革製のバッグからは段差で跳ねる度にぼこっぼこっと音がして、途中、衝撃で開口部のマグネットが外れて両側の蓋が開いた。それでも、回転は止まらない。
翼を広げた黒い鳥へとメタモルフォーゼしたバッグは、ぼこっぼこっと鳴きながらまだ階段を転がっていく。回転する度、開いた口からは印鑑やスティック糊、消しゴムや瞬間接着剤など、なんとなく入れていただけの、およそ不要なものたちが飛び出して散らばっていった。
落ちるところまで落ちた後、黒い鳥は2階に着地して、ばたりと倒れた。口を閉じて、もう動かない。黒い鳥の形から、バッグの姿に戻っている。階段の途中には中身が散らかっていた。
ああ、そうか、こうなるのか。
軽くなった右手と、視線の先で倒れている、僕の手を離れたものとを交互に眺めた。
階段を下りてバッグを拾い、ポンポンと叩いて汚れを落とす。そこらに散らばっていた余分なものは、バッグに戻さずコートのポケットに入れた。あとで、捨ててしまおう。
少しだけ軽くなった分、少しだけ力が出た気がする。中指と薬指に、人差し指を加えた3本でバッグを支える。
いつも一緒にいてくれる黒いバッグは、今日も大事な行き帰りのお供だ。
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