おかあさん

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おかあさん

 「あい」はお母さんが好きになれなかった。  おかあさんは本当のお母さんではない。  あいが幼稚園の時に本当のお母さんは出て行ってしまった。 『お父さんと気が合わなかったんだ。ごめんよ。』  あいのお父さんはそんな風にあいに謝った。  あいは本当のお母さんに、優しくしてもらった記憶はなかった。    愛が小学二年生になってから家にやってきた、新しいお母さんはあいにとても優しい。  でも、小さいときに愛情を貰っていなかったので、この新しいお母さんの優しさは、あいには馴染めないものだった。  本当のお母さんはあいに優しくした後でも、急に機嫌が悪くなってあいを蹴ったり叩いたりしたので、優しくされてもその後に何かあるのではないかと思ってしまい、あいは優しさを素直に喜べない子供に育っていた。  そんな扱いづらいあいだったが、新しいお母さんは懲りることなくいつでも愛情をあいに注いでくれた。  あいは小学校で 『本当のお母さんじゃないのは継母って言うんだよ。シンデレラのお母さんと一緒だよ。絶対に意地悪されるよ。』  などと、同級生に言われていたこともあって、ますます新しいお母さんに対して素直になれなかった。 『いつか意地悪されるんじゃないか。』  あいはそんな思いで毎日をびくびくしながら過ごしていた。  新しいお母さんも近所で嫌なことを言われていた。 「あいちゃん、ちっとも懐かないわねぇ。おうちで何かあるのかしら?もう3年も経つのにねぇ。やっぱり生さぬ仲って上手くいかないのかしらね。」  新しいお母さんは藍子という名前だった。 『名前も同じあいがつくのにな。あいちゃん、優しくされることに慣れてないな。なんで怖がられちゃうのかな?』  藍子お母さんも色々と悩んだ。    あいちゃんのお父さんにも相談したけれど、 「前の妻は優しくした後、あいに折檻したりしていたからな。しばらく構わないでおいたらどうかな?」  そんな風にも言われたけれど 「それだったらあいちゃん、優しいと、怖いが一緒になっちゃってるのよ。だから、私、優しいはそのまま受け取っていいんだよってわかってほしいの。もうちょっと頑張ってみる。ここで構わなくなっちゃったら信じてもらえないと思うの。」  そう言って、言葉がけの優しいだけではなく、少しあいちゃんに踏み込んでしっかりハグしたり、頭を撫でたりしてあげたらどうだろう。と思った。  これまであまりに怖がっていたので身体には触れないようにしていたのだが、体罰を受けていたのだったら、身体に触れても怖くないというのを分かってもらえばいいのでは?と考えたのだ。  藍子お母さんはまだ自分の子供を産んだことがなかったから、あいちゃんの子育ても手探りだった。  翌日から学校に行く前と帰ったあいちゃんを 「行ってらっしゃい。」 「おかえり。」  と言って、ハグすることを決めた。 「行ってらっしゃい。」  と、言いながらハグすると、愛ちゃんはブルっと震えた。  目は驚いて見開かれ、身体は硬直した。  藍子お母さんは驚いたが、気づかないふりをして 「気を付けて行ってらっしゃい。おやつ用意して待っているからね。」  と、あいちゃんに声をかけた。  あいちゃんはいつも通り 『いってきます。』  も言わずに、スルッと家の玄関を出て行った。  放課後、あいちゃんは家に帰るのが怖くなった。  あんなふうに温かい腕でフワッと抱かれた事なんてなかった。    公園で時間をつぶして、いるうちにだんだん暗くなってきてしまった。  冬の事なので気温はどんどん下がってくる。  小学校低学年なのでいつも日があるうちに帰宅する。  あいちゃんは厚手のカーディガンを着ているだけだったので、日が暮れてくると途端に寒くなり、ガタガタと震えた。  家では藍子お母さんが、いつまでも帰らないあいちゃんを心配していた。  でも自分が探しに出かけてしまったら入れ違いであいちゃんが帰ってきてしまうかもしれない。 『あぁ、子供用のスマホを持たせていればよかった。』  藍子お母さんはお父さんに反対されていたのでまだあいちゃんにはスマホを持たせていなかった。  お父さんが帰ってきてもあいちゃんはまだ帰ってこない。  藍子お母さんはお父さんに留守番を頼んで近所を探しに行った。  近くの公園のブランコに乗っているあいちゃんを見つけた時にはおもわず勢いよく駆け寄って大きな声で 「あいちゃん!」  と呼んだ。  あいちゃんは 『あぁ、ぶたれる。』  と思い、身体を固くして、寒さと恐ろしさで体をぶるぶると震わせた。 「寒かったでしょう?」  藍子お母さんは、そう言って、自分のストールであいちゃんをフワッとくるんでその上からふんわりと抱きしめてくれた。 『あったかい。』  あいちゃんは、急になんだか寂しくなってしまって涙がこぼれてしまった。  これまで怖いと思っていた新しいお母さんがこんなにあったかいなんて。 「泣かないで?寒かったね。さぁ、お家に帰ろう?心配したのよ。お父さんも心配してるよ。」  新しいお母さんはそう言って、柔らかい手で、あいちゃんの小さい手を握って、手をつないでくれた。  あいちゃんは、誰かと手をつなぐのなんて、覚えている限り初めてだった。  新しいお母さんの手は大きくて柔らかくて、でも、あいちゃんと同じ位冷たかった。  あいちゃんは、 『新しいお母さんは寒いのに私を探しに来てくれたんだ。』  と、思うと、 「帰らなくって、ごめんなさい。」  と、自然に声に出た。 「あら、偉いわ。自分からあやまれるなんて。でも何か理由があったんだってお母さんは思っているの。今はとにかくお家に帰ってあったまろう。 あったまってご飯を食べたら、あいちゃんが思っている事をお母さんに教えてくれると嬉しいな。」  藍子お母さんは、愛ちゃんから謝ってくれたことが本当にうれしいという顔で、あいちゃんをにっこりと見つめていた。  あいちゃんは、新しいお母さんの顔を初めてじっくりと見つめた。  本当のお母さんの顔はあまり覚えていない。  でも、優しくされた後に蹴られたとき、お母さんを見つめたら、 「なに!その目は、文句でもあんの?」  と、更にぶたれたことがあったので、人の目を見ない子供になっていた。  あいちゃんは、この新しいお母さんの事が何だか好きになっていた。  家に帰ったらお父さんに 「何してたんだ。こんなに遅くまで。お母さんものすごく心配していたんだぞ!」  と、叱られた。 「ごめんなさい。」  ここでもあいちゃんは素直に謝った。 「ねぇ、あなた。あいちゃん冷え切っているの。まず、お風呂。それからご飯食べて。遅くなった理由はそれからでもいいでしょ?」  と、あいちゃんをかばった。 「じゃ、あい、お母さんと一緒にお風呂に入ってきなさい。」  と、お父さんに言われて、あいちゃんはびっくりした。  幼稚園に入った時から、あいちゃんは本当のお母さんに、 「お風呂位一人で入んなさい。」  と、言われて、ずっと一人で入っていたから。  小学校に入っても、決して誰とも入ろうとはしなかった。でも、新しいお母さんは、あいちゃんが一人で入っていると知ると髪の洗い方を教えに来てくれたり、背中を流してくれたりしていた。  それでも、一緒に入ったことはなかった。 「どうする?一緒に入ってもいいかな?お母さんも寒くなっちゃった。」  藍子お母さんにそう言われ、あいちゃんは、自分を探しに来てくれて、自分にストールをかけてくれたから、新しいお母さんは自分と同じくらい寒いのだと気が付いた。 「一緒に入ろう。」  あいちゃんにそう言われて、藍子お母さんはうっすら涙を浮かべ 「嬉しいわ。じゃ、お背中洗いっこしましょうね。」  と言った。  お風呂の中で新しいお母さんは、『お母さんって呼びづらかったら藍子さんでもいいわよ。』とか、『あいちゃんの髪はサラサラで綺麗ね。』とか言いながら、一緒に湯船に入って暖まった。  新しいお母さんは白くてフワフワして狭い湯船で身体がふれるとつるつるして柔らかだった。  あいちゃんは何だか安心して、新しいお母さんはもしかしたら怒らない人なのかもしれないと思った。  少し黙っていたあいちゃんが口を開いた。 「お母さんって呼んでもいいの?」  あいちゃんはそっと聞いた。 「それはもちろん。あいちゃんが呼びやすい言い方で良いのよ。」 「お母さん、あいこ。っていうの?あいの字は私と同じかな?私自分の名前の漢字、嫌なの。本当のお母さんは愛してくれなかったもの。」  あいちゃんは本当は愛ちゃんなのだ。 「お母さんはねぇ、わ、お母さんって言っちゃった。嬉しいな。あいの字は藍色のあいなの。クレヨンや絵の具の『ぐんじょう』って色ね。漢字は違うけどおなじあいちゃんだよ。」  絵が好きな愛ちゃんだったら知っているだろうクレヨンや絵の具の色の名前で教えてくれた。  愛ちゃんは初めて見せる笑顔をお母さんに向けた。  愛ちゃんは群青色に少し白を混ぜて塗る青空が大好きなのだ。  二人共ほかほかになってお風呂から出て、お父さんが温めなおしてくれていたお夕飯を食べた。  もう、今日、遅くなった理由なんて誰も気には留めなかった。  食卓には愛ちゃんの笑顔が広がり、お母さん、お母さんと何度も呼ぶ声が聞こえた。    大丈夫。愛ちゃんは、お母さんが自分を愛しているってことがわかったのだから。    本当のお母さんの呪縛からぬけだせたのだ。  もう、怖さで震えるなんてことはない。    それからは、かなり大きくなるまで、愛ちゃんはお母さんと一緒にお風呂に入るのが日課になった。 【了】  
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