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深い黒に塗りつぶされた樹海を見下ろしていると、そこに何かがあるとは誰も思わない。一時の空中散歩を終えて無造作に下降すると、交錯する木の枝に触れようかという寸前でその視界は別のそれに像を結ぶ。
“視覚偽装”を施した極小結界は主の帰還とともに通用口とばかりに穴を開けてすぐさま閉じる。
一軒家は結界内にしか見えない明かりをほんのりと窓から溢し、素知らぬ顔でそこにあった。
凪いでいた胸に、かすかに波紋が生まれる。何となくシーグルは身なりを整え、コートの肩や腕を払ってからドアの前に立つ。
(いきなり開けたらハイノは驚くだろうか? しかしノッカーも付けていないし、手でノックをするか声をかけてから入るべきか……いや、もしまだ、あるいはもう寝ていたら、起こしてしまうかもしれないな……)
逡巡して、なるようになるかとそのままノブを回した。
そっと押し開けると、照明の明るさに目を細めるとともにいい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
ダイニングテーブル辺りから視線を感じてそちらを見ると、目をまん丸にしたハイノが椅子から飛び降りてこちらに駆け寄ってくるところだった。
そのまま、タックルするように飛びつく。シーグルの胴に抱きついたまま顔を上げずに、ハイノはくぐもった声をあげる。
「――おかえりなさい……!」
ほんの少し泣きそうな声音だったことに、彼はすぐに気が付いた。ハイノにしてみれば、目が覚めたら一人で、外が暗くなっても音沙汰もない。シーグルが本当に帰ってくるか不安だったのだろう。
胸の辺りに押し付けられる頭のついでに、捻れた小さな角が当たる。
「遅くなってすみません。ただいま戻りました」
敢えて心配させたことに気付かないふりをして、シーグルは後ろ頭を撫で、ハイノの気が済むまでそうしていた。
やがて顔を上げたハイノはにっこりしていて、目元は少し赤かった。せめて起きるまでそばにいてやればよかった、と男は後悔する。
ふと、ハイノは奇妙な顔をした。眉を軽く寄せて、悩んでいるような、どちらかといえば不快寄りの初めて見る表情である。
「……」
「な、何ですか?」
「……いまきがついたけど……せんせいから、なんかへんなにおいがする」
固まる。
あの酒場の匂いだ。主に、果実酒と蒸留酒からそれぞれ発される特徴的なアルコール臭、あとは人々の熱気と料理が綯い交ぜになって、飲み屋の匂いは作られるのだ。
コートや服に染み付いていたのか、とシーグルは内心動揺する。汗臭いだの何だのと悪口を言われることも昔は度々あったが、最近は気を使って振る舞っているので、あとは賢者の肩書故にか、面と向かって指摘されることはなかった。今回も酒場に行った後ろめたさで焦るというより、臭いと遠回しに言われるとこんなに傷付くものかという嫌な発見であった。ハイノに一歩退かれジト目で見られ、シーグルはつい言い訳を口にせずにはいられなかった。
「あの……これは酒という……大人の付き合いです、飲んでいませんが、そういう場にいたためについた匂いです、きっと……」
「……」
「……”分解”」
もう何も言うまい、と大人しく臭いのもとである化学物質をさらに細かな粒子に分解する。
上着掛けにコートをかけて、ハイノの入念な匂いチェックを経て、やっと落ち着く。やはり野生で生きてきたハイノは嗅覚が特別敏感なのだろう。そういうことにしておく。
ぐるりと部屋の様子を見ると、活動の痕跡が見て取れる。テーブルにはリビングにあった数年前の本草目録が開いておいてある。文字は読めなくても、挿絵を見るだけでも時間が潰れたことだろう。キッチンには、火が消えた竈と深鍋が一つ。水場にはコンポスト用にまとめられた野菜屑と包丁類がある。
「夕食はどうしましたか? 食べたのですか?」
「いっしょがいいっておもって、まってました」
ふふっと自慢げにハイノは言うと、その深鍋を示してそちらへかけていく。そういえばハイノは移動する時いつも小走りのような気がするな、とふとシーグルは思った。
手の袋をテーブルに置き、後をついていくと、鍋の半分ほどまで茶色のスープと野菜たちが煮込まれているところを発見する。やはりこの匂いもキッチンの様子も、ハイノが一人で料理をしたという証拠だったのだ。これまではパンケーキの生地を混ぜるくらいしか一人でしていいこととして許可をしていなかったのだが、やればできるものだ。驚きと褒めたい気持ちを抑えて、努めて淡々と確認する。
「スープですか。どうやって火を起こしたのですか? 手は切りませんでしたか? 火傷は?」
「ないです! ひだねは、あかりからとって」
「厶……自動点火にしておいたのを利用したのですか。今回は私の落ち度でしたが、火の取り扱いは火事に繋がる危険性もあります。次は一人ではやらないこと」
「はあい」
悪びれない返事に、思わず苦笑する。
時間があったとはいえ臨機応変に動けることを念頭に置いて今後は留守番させなければならないだろう。ハイノは準備しておいた皿を持って、踏み台に上がってスープを盛り始める。あの鍋の量は大人三人分くらいはあったので、胃の余力があるうちに切り上げてきて正解だった、とシーグルはパンを切り分ける。
ハイノはいつもより上機嫌で、席についてさあ食べようという時、机越しに身を乗り出して、白芋とスープをスプーンに乗せたものをシーグルに差し出した。
「はい、あーんして!」
シーグルは変な汗をかく。
味に不安があるわけではない、その『あーん』とは、まさか口を開いてそれを食べるというスキンシップ的なアレだろうか。
「いえ、自分で食べますので」
「だめ? たべない?」
「そういうことでは……、ム……」
キョトンとしている様子を見る限り、ハイノはこれが親が子にしたり恋人同士がしたりするような行為とは知らない。なんかもう説明も面倒になって、仕方なく口を開ける。他に誰も見てないとはいえ、顔から火が出るかと思うほど、そしてここ数年経験のない恥ずかしさであった。
「わぁい! ふふっ、やったぁ……!」
ハイノはスプーンに歯が当たる感覚やちゃんと食べてもらえたことなどに感激しているようであった。それから、わくわくと尋ねる。
「どうですか? まずくない?」
「ええ。ちゃんと芋にも火が通っていますし、塩加減もいい。それに……何かハーブ系も入れましたか?」
ホクホクとした食感に塩ベースの汁、出汁には干し肉茸だろう。独特の清涼感と草の香りがあとから鼻に抜ける。
「しおのたなに、あった、まるいはっぱをつかったです」
「ほう、クガの葉を入れたのですか。フム、南バテウの郷土料理にこんなスープがあったような。中々味覚センスがあるようですね。美味しいです」
素直に褒めると、照れくさそうにハイノは自分もスプーンを動かした。
そして、ぬるくなったスープを口いっぱいに頬張り、空腹を思い出したかのように食べ始める。勿論店の専門家による食事よりずっと質素で単純ではあるが、美味しいと言うだけで作り手の喜ぶ顔が見られるのは悪くない。
と、そこでシーグルはテーブルの端に所在なさげに置かれた袋の存在を思い出す。
「そうだ、これはお土産です。魚の揚げ物は食べたことがないでしょう」
「すごーい! おいしそう! でも、あげものってなーに?」
尾が反り返った魚の丸揚げと冷めて粘度の増した餡をナイフで切り分けながら説明をし、シーグルはじんわりと癒やされていくのを感じていた。
気を使うことは多いが、取り繕う必要がないということは、こんなにも息がしやすい。
「―—ハイノ。私の上司に会ってみる気はありますか」
そう切り出したのは、食事が終わってリビングのソファで棘笹茶を並んで啜っていた時のことであった。
ハイノは目を丸くして、背筋を伸ばす。
「じょう、し……?」
「私のいる組織では、私より偉い方です。偉い、というのは、言うことを聞かせる立場にあるということです」
ハイノの隣に腰を下ろしながら、シーグルはなるべく緊張させないようにゆったりと言う。
「せんせいに、いうこときかせるひと? こわいですか……?」
「怖くはありません。彼女は魔物に偏見を持った方ではありませんし、そばには私がついています」
「なぜ、ぼくに、あうんですか?」
「実を言うと、私は今所属している組織を辞めるつもりです。しかし、その偉い方に引き止められました。私も長年お世話になった組織ですので、できるだけ義理を通して辞めたいのですが、彼女は、ハイノに会ってみたいと」
虹のような目が揺れる。
「んん……まって……せんせいをひつようなじょうし、とか、ほかのひとは、こまるってことですか? それに、せんせいがおしごとやめるのって、ぼくのせいですか? だったら……」
ハイノはシーグルの仕事内容も考えも何も知らないはずだが、痛いところをついてくる。
確かに、協会が公開している依頼は国がフォローしきれない範囲なので、賢者が請け負えないほど困難な依頼はあまり無いが、その逆は多い。人材不足が業界における深刻な問題である昨今、これまで以上に団員ならびにリースベットやヘイスイェルデンのような称号持ちは忙しくなることだろう。
しかし、それを承知でシーグルは既に心を決めている。本人が自分のせいならと遠慮したからと撤回するような軽い気持ちではない。
シーグルは首を振って、ハイノの肩にぽんと手を置いた。
「ハイノは気にしなくてもいいことです。私は、私の居場所を確保するために人助けをしてきたこれまでの生き方を変える、そんな時流に差し掛かったのだと思っています。未練が全くないわけではありませんが、何ごとにも優先順位と言うものがあります」
「んん……よくわかんないですけど……ぼくのせいで、せんせいががまんするはやだ……」
しゅんとハイノが項垂れる。身を縮めるとこんなに小さいのか、とシーグルは胸が痛む。
「我慢ではありません。私は、私の為にあなたの師をやることを決めたのです。これは、私の意思でありエゴです。むしろ……付き合わせてしまって、申し訳ないと思います」
「へ? もうしわけない……は、ごめんなさいのいみ? んぇ……なぜ??」
「ああ、これはそういうことではなく……フム、今の段階では文脈とニュアンスを伝えるのは難しいですね。とにかく、ハイノは何も気にしないでよろしい」
「でも……」
なかなか頑固な態度に、シーグルは苦笑する。
「私相手に、そんなに気を使ってばかりでは困ります。嫌なことには嫌と言っていいし、やりたいことがあればぜひ聞かせてください。それを実現させる手助けをするのが、師なのですから」
はっ、とハイノは息を呑む。大きな目がさらに大きくなり、そこに自分が映るのをシーグルは見た。ハイノの頬が少し染まる。少年もまた、自分の心を見透かされたと思えば恥ずかしいと思うのだろうか、と師は興味深くそれを見つめる。
やがて、唇を噛んでハイノは顔を引き締めた。
「なら――ぼく、じょうしさん、あってみたいです」
その表情に、確かな決意を見る。目を少し丸くして、シーグルは問い返す。
「いいのですか?」
「ウン。ひと、まものよりやさしいし、せんせいがだいじょうぶ、っていうなら、だいじょうぶのひと」
その笑みには一片の疑いもないことに、シーグルは言葉を詰まらせる。この信頼に勝る何をも彼は知らない。
「せんせいがやりたいことを、てつだうのも、でしのやくめ! それに、いろんなひととはなし、してみたい、っておもいます。ぼくにできること、なにがあるのか、しりたいです」
眩しいほどの前向きで希望に満ちた笑顔が、今の彼には直視することができた。この子の師であるという矜持が、シーグルも確かに変えている。
小さな手をそっと取り、握り締める。心から、そのぬくもりを愛おしいと思った。
「ありがとうございます、ハイノ」
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