2.明かりを灯すように

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「ぼく、は、はし、を、わたる。とりが、そら、を、とぶ。みち、に、はな、が、さく」 元気で伸び伸びとした声が響く。 小鳥のさえずりが歌う森は明るく、木漏れ日は苔の絨毯に無造作な模様を作っている。黒衣の男の前を小走りで歩き回る小さな影は、時折しゃがみ込んでは虫を凝視し、時折男の横に並んでは嬉しそうに見上げて同じ道のりを歩く。 「いいですね。適切な接続語を使うだけで、会話の完成度はぐっと上がります」 シーグルは頷きながら見下ろすと、ハイノはくるりとその場で楽しげにステップを踏む。無邪気なその様子に危なっかしさを感じつつ、シーグルは穏やかにそれを見守る。 「えへ。じょうずに、なってきた?」 「気が早いですよ」 ばっさりと切り捨てられて、ハイノはがーんとショックを受けるが、すぐに気を取り直して後に続くシーグルの言葉に耳を傾ける。 「語学は一日にして成らず。言ったでしょう? 一つ一つの正しさや単語の意味にこだわりすぎず、とにかく会話を多くこなすことで話の意図を読み取る勘を得る。つまりは、沢山聞いて、沢山喋ることが一つ目の課題です。明らかにおかしければ都度訂正はしますが……まだまだ先は長いですよ」 「はい! たくさん、はなしが、するです」 「『話をします』」 「はなしをします!」 律儀な訂正を律儀に復唱する。 統一語には、敬語の概念が存在する。何処の誰に対しても無礼のない形式の話法なので、これから言葉を覚えるハイノにとっては、多少複雑であろうが習得してしまえば便利なはずだとシーグルは考えた。 実際、ハイノは素直で物覚えがよかった。すぐに実践をし分からないところはすぐに分からないと言える点で、指導経験のないシーグルにもやりやすい生徒なのはありがたかった。 (しかし、ハイノが人間としてでも、魔物としてでも……どちらででも生きていける選択肢を作るために必要な知識と技術は、相当多い) 知っている単語で文を作って喋っているハイノを視界に入れながら、シーグルは頭を悩ませていた。 人として生きるためには、最低限言葉と生活様式、文化、人間関係構築の仕方を教えなければ、周りになじんで溶け込んでいくことは難しいだろう。ハイノの角や尾を除いた見た目と性格はきっと人に好かれる性質のものだが、それゆえに注目を浴びる危険性もある。 一方、魔物として生きるためには、最低限弱肉強食を生き残る強さと、自然界の知識が必要であろう。魔物の本能としての魔術は使えなさそうであることや、耐性の低さ、膂力については殆ど一般人の子ども並みであることは薄々わかってきていたので、これもかなりの難題になりそうであった。 この子は、中途半端に両方の性質を持っている。そして、中途半端にどちらの能力も持っていない。山積する課題と道のりに、はあとため息をつきたくなった。 (優先順位としては、言葉も含めて人としての生活を難なく送れるようにすること。次に、戦いに利用できそうな能力や伸びそうな技能を見つけること……だろうか?) 魔力量が多いなら、魔術や方術を教えればいい。そうでないなら、戦士職の階位を参考に、戦闘技能を体に叩き込む。自分はそれらを同時並行して学んでいったが、それは会得までの最短ルートかもしれないが最善ルートではきっとない。毎日魔力が尽きるまで練習し、体力が尽きるまで修行し、気力が尽きるまで知識を詰め込み、それでも死なずに何とかここに立っているのは偶然に過ぎないだろう。いわば、死に損なう運だけは人一倍あっただけなのだ。 久々にあの暗く辛く冷たい年月を思い出して、シーグルは辟易する。目の前に広がる景色は、あまりにそれとは異なる。光さす森の苔むした庭、舞う蝶に小鳥の歌、ふいに手袋越しに感じる小さな手の柔らかさと、向けられる無垢な笑顔。 (まぶしいな) 迷いは多い。しかし、この子にあの苦難を味わわせたくない。このあたたかな手を傷だらけにしたくない。もう二度と、この笑顔を涙に濡らしたくはない。そう思う自分の心には背いてはいけないのだろうと分かっていた。 (不器用だった私とは違う道を、この子のための道を示してやれたらいい。……できるかどうかは、手探りだが……) 見通せない未来を憂うことなど、未来のことが知りたくてたまらなかった未熟な時分以来だろうか。こそばゆい気持ちになる。 「せんせー、みず、がありました!」 木の根によるダイナミックな隆起を上がりきると、それを下った先でハイノがぴょんぴょんと跳ねていた。その側には滾々と水が湧く自然な池溜まりが楕円形に広がり、大人の腕一抱え分ほどになっていた。そこから小川が始まり、山の傾斜に従って浅い窪みを作りながら下る流れが生まれている。明るい森に相応しい、魔の汚れなき清流である。それを思うと、あのグヴォルヴたちが何処からやって来たのかはなはだ疑問ではあるが、生態調査をしているほど有閑でもない。目当てのものが見つかったので、ひとまずシーグルはほっと息をついて休憩にしましょうと少年に声をかけた。 朝から二刻ほど歩いていた。 ぷわ、と水を飲んだ少年は、犬のように口の周りについた水滴を頭を振って飛ばす。 無造作なその仕草に内心和みながら、浄化方術で木の椀に掬った水を浄水し、シーグルは喉を潤す。だが思っていたよりも道なき山路の移動でも体力の消耗は少なく、口にした水でその軽微な疲れすら帳消しになるような心地良さが男にはあった。 少年はそばにあった手頃な岩に腰掛けて、脚をぶらぶらさせながらその一部始終を見ていた。頃合いを見計らって、ハイノは声をかける。 「ねえせんせ、これから、どこにいくですか?」 「そうですね……私の家に向かうことにします」 「せんせいの、いえ?」 「ええ。私の所有する小屋が幾つかありますので、中でも一番人目のない山奥のそこに向かおうと思います。少々不便ではありますが、落ち着いて学ぶには環境も大切でしょう」 「ふべん……よくないこと。それは、ぼくのため?」 屈託のない目と言葉。男は気恥ずかしさに口を濁す。 「まあ、そうとも言います……か」 「えへへ!」 聞いた方も照れ臭そうに笑うので、このどっちも恥ずかしいだけの時間は何だったのかとシーグルは内心で突っ込みを入れる。 「あるいて、おうちはちかい、のですか?」 「いえ、実を言うと数週間の距離があるので、秘匿ポータルを経由して行程を短縮します。魔物に遭うリスクを出来るだけ減らしたいので」 「ぽーた……たん……しゅく?」 平易な言葉を使わなければいけないのだった、とシーグルは思い出した。どうも堅苦しい話し方をすると上司にも言われるので、意識して直さなければならない。シーグルは落ちていた指示棒に丁度いい木の枝を拾い上げてハイノの前にやってくる。 「移動系の魔術は数多くありますが、空間をつなげて一瞬で別の場所に行くというものがあるのです。速く移動する方法と、こうやって――」 視界に見えている岩と、それから少し離れた岩を指す。棒でその間を地面伝いに動かしてやって、これが普通の徒歩移動だと示す。その次に、一瞬ハイノの視界を手で遮って、その間に素早く岩から岩へ枝先を移動させ、覆いを取った。 「瞬時に目的地に出現する方法があります。ハイノが起きている時に実行するのは初めてでしたか」 少年は目を大きくして師に尊敬の眼差しを向ける。 「すごーい! ……あれ、でも……あさから、ずっと、あるいていました……?」 首を傾げる。そこに気付いてしまったか、とシーグルは咳払いした。 「それは……こうした水場が近い方が、現在地の座標が特定しやすいからです。座標が分からなければ“接続”が不安定になります。なのでここからは歩く必要はありません」 実は道に迷っていたのだが、わざわざそうと伝える必要もあるまい、とハイノが分からないのをいいことに少しだけはぐらかした。 なにせ、ハイノの住んでいた家のあった場所は地図にも載っていない森の真ん中であり、辿り着くのも大変だったが帰るのもまた大変な山奥だったのだ。はぐらかしたとはいえ、少年を意味もなく不安にさせないことも師の役目だ。ということにしておく。本当はちょっとした見栄である。 水に手を浸して”広域感知”の方術を使うことで、流れる小川全体を媒介に地形を把握する手助けになる。水と地形は、地脈の地図にも等しい情報量を持っているもので、そこから導き出す座標は、高等な術を使用する上で軽視できない要素になる。 ちなみに、シーグル一人だけなら適当に”跳躍”――比較的距離の短い”接続”――を繰り返して知ったところに出るか、”空歩”系で飛んでいくのだが、今回は人にも魔物にも遭遇しないよう万全を期する必要があったので、地味で確実な手段を選んだのであった。 それが終わると、手についた水を払って、ポケットに入れていた手袋を取り出す。興味津々なハイノの視線を感じていたが、まだ魔術関係のことを教えるには早いと思って黙っておいた。 「あの……せんせいは、いえがたくさん、もつの、は、どうしてですか?」 意外な質問に、シーグルは立ち上がってハイノを見た。 ハイノはどんな生活をしてきたのだろう、やはり、人間二人に会うまでは定住しなかったのだろうか、とふと思った。思考が逸れすぎる前に、質問に頭を切り替える。 「それは、ひとえに便利だからです。個人の部屋といったプライベート領域には固定したポータル……座標の目印を置けるので、“跳躍”が簡単です。そのため、通勤が楽な職場近くの部屋を借りつつも、別の野外に拠点を作ることで、人の目を気にせず術を開発したり薬を煎じたりしやすいのです。ゆえに大抵、その場所は他人には秘密にしておくものです」 一生懸命眼を瞬かせながら、ハイノは教えたように大きく話の意味を聞き取ろうとしているのがシーグルには分かった。話の要点が分かると、会話が成立し、楽しみを感じる。その楽しみが、語学を学ぶ原動力になる。話したい、聞きたいと思えばこそ成長は加速度的に早くなるものだ。 「たくさんのいえ、べんり。でもひみつは、どうしてですか? あぶないですか?」 「ええ。といっても、敵に襲われるからといった意味の危険、ではありません。私は強いですから」 ハイノは恐らく、そちらを想像しただろう。野生動物の中には、何か所も巣をつくって、襲われるリスクを分散させる習性を持つものもあると聞く。 「作業をするのに、秘密の場所がある方が都合がいいのです。薬を煎じたり、本を読んだり、術の開発や改良をするには静かで人気がないところでないといけませんから。なんというか……周りを気にしない、一人で過ごす場所は、色々と安心なのです」 魔術師職の中には、秘密主義者で研究熱心で、神秘を求めて喧騒を離れる者が割と多いのだとは敢えて言わなかった。一度に色々なことを教えても困惑するだろうから、理解のために与える情報はコントロールしなくてはいけない。 魔術の研究は未だ発展途上であり、学会では次々に新しい定義や原理が発表されては実用化が進み、一方では一子相伝の秘術や独自の新技術などを抱えている者もいる、実に奥が深くややこしい界隈なのである。当然シーグルもそのややこしさの中で現役の賢者をやっていくには個人の研究をしつつも世間の流行りなども知っておかなければ最先端から置いていかれてしまう。そういう意味でも、賢者は忙しいのである。 すると、ハイノは不安そうに顔を曇らせる。 「せんせいの、ほっとするばしょ……ぼく、いっても、いいですか?」 成程そうか、と思った。 ハイノは、シーグルが『面倒ごとが少なくてよい』という意味で使った安心という言葉を、『ほっと安らぐ』と解釈したのだ。正確ではないが、間違いでもない。考えてみれば、シーグルが秘密の拠点を持つ理由としてそれもまた正しいような気がした。人の群れの中にいると、他人と混じり切れない自分という異質な存在を思い知る。他人に気を遣い、他人と距離を保ち、他人に何も求めない自分にとっては、確かに孤独は心が安らぐと感じることもあるのだ。 心配そうにしているハイノに、男はふっと息をついて表情を和らげる。 (私のほっとする場所に自分が上がりこんで、その安らぎを奪ってしまうかもしれないと思ったのか。そういう発想は、私にはなかったな) 歩み寄って、ぽんと柔らかい髪に触れ、角の間の頭を撫でる。 「もちろん。それが、ハイノにとっても、ほっとする場所になればいいと思います」 「……うん!」 撫でる手もさながら、撫でられる方も気持ちいいようで、ハイノの不安は笑顔の向こうに消えたようであった。 にこにこと嬉しそうなハイノを見ると、こちらまで微笑みたくなるのは何故だろう、と師は思った。だが現実は、不愛想な無表情が顔に張り付いたまま、何ごともなかったかのようにその瞬間は通り過ぎていく。普通なら、笑い合って、安心し合って、歩み寄って親しくなっていくものであろう。興味を持ち、共感し、理解することで人間関係は深まっていく。しかし男は思う、自分はそれらができない、欠陥のある人間なのだ、と。 (しかし、そうか。思いやってもらうと、こんなにも穏やかな気持ちになるのか) ひどく懐かしいような、目が覚めるような感覚であった。大人になってから、他人を気遣うことはあっても、思いやることも思いやってもらったこともなかった。そういう距離感で生きてきた。 だからだろう。笑って泣いて、物怖じするどころかこちらを思いやれるハイノは、なんというか、すごいな、とシーグルは思った。 指先にまで走る神経に意識を行き渡らせる。 足元に魔素の動きが風に似た空気の揺れを生み、枯れ草が舞い始める。ハイノが息をのんで、少し離れたところから見守っている。時折明滅するのは、シーグルの前に差し出した手の付近を魔力の最小要素である魔素が高速で作用し始めた証左である。条件によってはその魔素は摩擦で発光することがあるので、魔術師や神官には見慣れた光だが一般人はまずこれに驚くという。 詠唱の手順を踏むと毎回こうなるので、シーグルは無駄な派手さに些か辟易していた。 人差し指の先で、静電気のように塵が小さな音を立てた。 「――『申す申す 横たわる間 暗がりに石 斜陽に頽れる 振り向きて土 揚々と呉れ出ず翼』……”接続”」 ぎゅむ、と束ねた繊維が引き絞られるような音がした。途端に、空間に歪曲が生じ、光とその拡散する色を巻き込みながらドアほどの大きさにまで黒い穴が広がる。これで固定すれば、ゲート接続完了である。 一連を横から見ていたハイノは、何が起こったのか分からないようで、ぽかんとしている。シーグルは手招きをして、横に立たせる。 「こっちで見てご覧」 「? わっ」 ハイノはぎょっとして声を上げる。接続の出入口は疑似的な二次元鏡面なので、正面に立つ以外に視認することができない。見る角度を変えただけで大きな穴がそこに口を開けていることに、ハイノは目を白黒させて、シーグルのコートを少し掴んで一歩分後ろに隠れた。心臓がむずとして、シーグルはハイノの背中をぽんぽんと優しく叩く。不安げな目と目が合う。 「大丈夫ですよ。私が先に入ります」 「あっ、ま、まって、いっしょに……!」 歩き出すと、慌てて掴まったままハイノも付いてくる。歩いて足から黒に突っ込むと、ハイノが目をつぶって息を止めたのが分かった。 彼らのほかにこの様子を見ている者がいれば、二人が突如消え失せたようにしか見えないだろう。 瞼の下で一瞬、光が途絶えたのをハイノは感じた。それが黒い穴を通り抜けた瞬間であった。次に光を感じた時には、さふ、と草を踏む音と甲高い鳥の声とが耳に飛び込んできた。 また背中をぽんぽんと叩く大きな手。ハイノが目を開けて見上げると、シーグルが何もなかったかのようにじっと見下ろしていた。不安が揺れて消えていく。 「そんなに怖がらなくても、何ともなかったでしょう」 「……ふ、わあ……」 少年は慌てて周りを見回した。 木肌の色も模様も違う。葉の形も、茂り方も違う。空気は暖かく、土の匂いもどことなく違う。ハイノは知らないが、そこは南の小国リンゲルデの死火山に広がる樹海の真っただ中であった。先ほどまでいたブロブ周辺から殆どまっすぐ南下したことになる。 ハイノは驚きと感動であわあわと手足を動かしてシーグルを尊敬の眼差しで見上げる。 「す……っごぉい……! せんせい、かっこいい……!」 「……それほどでもありませんが……」 素直で意外な反応に、シーグルは面映ゆくなる。お世辞でだってかっこいいなど言われたことはない仏頂面なのだが。 気を取り直して視線を巡らせると、辺りは開けた庭のようになっており、その一角に家がある。木造で、丸太を主に組んだログハウス形式の小屋は、しかし小屋というには立派なそれであった。当然シーグルが建てたのでもこの森の中に大工を呼んで建ててもらったのでもなく、別の場所にあったものを移動方陣を敷いて移設した。 中央には大きく枝を広げたメラドの生樹があり、小規模結界のヴァイタルマーク兼ポータルになっている。その幹に手を当て、半透明の表示とインターフェイスでシーグルは諸機能が正常に動いていることを確認する。 その間ハイノは周辺を歩き回って、興味深そうに草の匂いを嗅いだり、虫を追いかけたりしている。 「ハイノ。日の当たる明るい場所から出てはいけません。この中には魔物が寄り付かないようになっています」 「はいっ」 そーっと森の方に行こうとしていた小さな背中が、びくっとしてまっすぐになった。弱い割に好奇心が強くて困る。 慌ててこちらに戻ってきたハイノを連れて、シーグルはログハウスの入り口への階段を上がる。 この結界は魔物だけでなく人も寄り付かないよう“視覚操作”も稼働していたが、念の為家の方も果たして無事かを確かめる必要があった。山賊でも住み着いていたら厄介だ。 木のドアに手をかける前に、シーグルは壁に触れる。するとそこから神経を家に這わせるような淡い発光が走ったかと思うと、家中の情報が彼の頭に流れ込んできた。 不思議そうにハイノは、急に片目を閉じて動きを止めた師を見上げる。その目蓋の下に、窓を含めた鍵の状態や場の変化などの視覚情報も集積していると知らずに。 一通り走査し終わると、シーグルは片目を開ける。 「?」 「フム……数か月放置していたので、周辺や家の中の掃除が必要です。私は窓を開けてきますから、ハイノはそこの桶に井戸の水を汲んでください。手押しポンプに補助効果を付与してあるので、子どもの力でも十分……」 「いど? ぽんぷ?」 「……いえ。全部教えますから、一緒においで」 「はーい!」 生活様式を覚えさせるために掃除をはじめとした家事にも魔術が使えないのは面倒ではあるが、ハイノが嫌がらずむしろ嬉しそうにしているので、まあいいか、とシーグルは思った。 能率を考えさえしなければ、こつこつと作業をすること自体は彼も嫌いではない。 埃っぽい室内の窓を開け放ち、換気をしている間に井戸で水を組み上げる方法を先に教えることにした。ハイノにとって手漕ぎポンプが高い位置にあったので、適当な木箱を台にしてやる。鉄製のハンドルはやや子どもの手には重そうであったが、荷の水筒から呼び水を入れてそれを懸命に押しているうちに排出口から汚れた水がごぼごぼと出てくるのをハイノはびっくりして眺めていた。さらにそれを続けると透き通った冷たい水に変わり、そこに桶を差し出して水を貯める。ハンドルを離しても余分に出てくる水で手を洗い、ハイノはきゃっきゃとはしゃいだ。かわもないのにみずがでた、いどってすごい、と笑うので、確かにそうですね、とシーグルも真面目に頷いた。 それから家に戻り、布団類を家の前の手すりに干し、裏の物置に入れておいた箒で室内を掃く。ハイノがあまりに咳込むので、口元に埃避けの布を巻いてやると嬉しそうに、いっしょしよ、とシーグルも半ば無理矢理巻かれた。 掃き掃除の後は汲んだ水で家具や設備を拭く。飽きもせずハイノは真面目に掃除をしたので、水替えで外に出た際に結界外で生っていた蔓性ニゴの実を採っていっておやつに差し入れた。種が細かく果肉がやや固めの早熟なそれであったが、綺麗にしたばかりのテーブルで二人で齧るとそれなりに美味しいものだなと男には思えた。ハイノはいたく気に入ったようで、その後の掃除もご機嫌に取り組んでいたのが微笑ましい。 シーグルは壁や床に地鼠の糞や齧った痕を見つけたので、何処かに防鼠対策の綻びがあったのか、と反省し、後日徹底的に駆除することを決めた。 (――、掃除と料理を手作業ですべてやることなど、何年ぶりだろう。一日がかりだった) 空になった鍋を水場で浸したまま、ソファに沈んでぼんやりとシーグルは思った。 梁に吊るした拡散硝子のランプの火は、蝋椰子油を少しずつ食いながら夕暮れほどの光量で夜の闇を切り開いている。 シーグルはぐるりと視界を巡らせる。上着が掛かっているハンガー、火を落とした煤の付いた竈、たっぷり井戸水の湛えられた大甕、カーテンにしては薄い布が窓辺に揺れる。 掃除のお陰で室内は住めるまでに綺麗になったし、寝食をするには十分上等な様相になった。適当に保存食の打豆を煮たスープも、棚にあった悪くなっていなさそうな調味料をやはり適当に入れただけだが、労働後の食事はその適当さを上回る満足を与えてくれた。 傍らで横になりすーすーと寝息を立てているハイノは、ソファの大部分を占領している。 (すっかり疲れてしまったようだな。子どもながらしっかり働いたし、覚えることも多かっただろうから当然か。この体力の差を、覚えておいた方がいいかもしれない) 賢者の称号持ちゆえ、普通の人より体力がある自分が大人代表とするのは些か基準として公正ではないが、子ども代表として適正かも分からないハイノと比べる以上、総体的に考えるしかあるまい、とシーグルは内心苦笑する。正直、自分は殆ど疲れを感じていないのだが。食器の跡片付けと洗濯を教えるのは明日にしよう、と決め、ハイノをベッドのある寝室に連れていくことにした。 小屋は平屋建てで、キッチンとダイニング、リビングは玄関から入ってすぐの区画にあり、廊下を介して洗面所とトイレ・風呂は一まとめにあり、あとは寝室が一つという間取りである。ちなみに上水は井戸の水を汲んで使うが、下水は色々面倒なので、都市部にあるシーグルの部屋の下水処理経路と繋げてあるので、山奥でも不自由はない。 シーグルは起こさないようにそっと寄りかからせてから抱き上げたが、その配慮も意味がないほど眠りが深いようであった。空けた片手の指で、ランプに”追尾”の指示を出すと、ふわりと雫の下半分のような形をしたそれが梁を離れ、目線より上あたりをついてくるようになった。魔術はやはり便利だ、とシーグルはしみじみする。 (しかし……助けた際にも担いだが、軽すぎる。それに細すぎる。ハイノがいくつか知らないが、まだ成長期の筈だ。もっと食べさせ、体力筋力魔力ともに増やす訓練もした方がいい。……まあ、骨格からして私ほどにはならないだろうが) 自分にハイノほどの背丈と体格であった頃の記憶がないので何とも言えないが。担ぐたびにおっかなびっくりするような華奢さでは困る。明日からやるべきことが増えた。 軋む廊下の先に、ベッドとクローゼットだけが置いてある寝室が見えてくる。と、ふとシーグルは気付いた。 (……そういえば、ベッドは一つしかないな……?) どうして思いつかなかったのだろう。客人は想定していない隠れ家である。当然と言えば当然だが、食器を除く全てが一人分しかない。その最たる弊害は、寝床ではないのか。 (ひとまず今夜は自分がソファで寝るか) 背丈と体格があるとしても、子ども一人増えたところで寝相はいいので特に狭くもないしベッドは壊れない。師が弟子の為に我慢をするのも常識的に考えればおかしい。それでも、何故か一緒に寝たり自分ひとりがベッドを使うことが躊躇われたのは、ハイノの端正な顔や軽さと何か関係があるのだろうか。 薄いシーツとブランケットの上にハイノを降ろし、靴をぽいぽいと脱がせ、シーグルは思わずはーっと大きなため息をついた。何をやっているんだ自分は、という困惑のそれに、さっさと戻って街で買っておいた今月の学会論文でも読もう、という気の取り直しである。 踵を返す。 と、何かに服が引かれたのを感じる。何かに引っかかったろうか、とシーグルは振り返る。 「……」 ハイノの手が、裾を掴んでいる。起きていたのかとじっと様子を伺うも、変わらず寝息を立てているし、先程抱き上げた時には何ごともなかった。ベッドに降ろした際に、ハイノは咄嗟に寝ぼけて服の端を掴んだというのがこの状況を説明するに適切な原因発生のタイミングだろう。 「……」 柔らかく握られた手。強く引けば、裾は簡単に取れる。 「…………はあ」 もう一度溜息をついて、シーグルは指先を居間の方へ向けて軽く動かした。カチンカチンと窓に鍵が閉まる音がし、警備用に敷いてあるセキュリティ系の魔術は、夜間の待機モードに切り替わる。開発中の魔術の情報を盗もうとするなどの犯罪者もいる中で、独自のセキュリティシステムを敷く魔術師は少なくない。賢者ともなれば、さらに用心深くなって当然のことである。それから、追尾してきていたランプに向けて指をくるりと回し、燃焼部分に流入する酸素の取り入れ口を絞り、光量を落とす。部屋が二段階ほど薄暗くなる。 シーグルはのそりと縁に座り、ブーツを脱いで枕を背にベッドで脚を伸ばす。やはり解放感はあるもので、うーんと伸びをする。 ぎしりとベッドがしなったせいか、ハイノが身じろぎをして、彼の腕に掴まって密着する。 「……ん……せんせ……」 「はいはい、ここにいますよ」 寝言に対して半ば開き直ってそう返し、小さな角と角の間を撫ぜてやると、ハイノはそのまま気持ちよさそうに睡眠を続行した。子どもの高い体温は、夜になってひんやりとするこの時期には心地良い。 無詠唱で空間を別の隠れ家の倉庫と”接続”し、仕舞っておいた論文雑誌を自由な方の腕で取り出した。 (まあ、ここでも論文は読める) しかしその目論見は外れ、文字列を追い始めてから半刻もしないうちに瞼は重くなってきた。他人の体温と寝息、程よい労働と薄暗い環境と柔らかい布団、これらのもたらした抗えない眠気は、敵対的方術由来ではないことを分析方術で確認してから、用心深い彼はやっと意識を手放した。 シーグルはその夜、珍しく夢も見ないほど深く深く眠った。
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