2.明かりを灯すように

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「ーーせんせ、せーんせ。おはようございまーす、あさですよう」 囁くようなハイノの声で目を覚ますのは何回目だろう、とシーグルは思った。 大抵は先にベッドから降りてくるのは男の方だったが、時々朝日がカーテンの隙間から差し込んでも瞼が上がらないこともあった。そういう時は、目をこすりながらハイノは寝ているときに入り込んだ師の腕の内側から這い出る。そして、満足げににっこりすると、起こさないようそっとドアを開けて洗面所へ向かった。 シーグルに教わった、朝起きてまずすることその一。顔を洗う。これで一度に目が覚めるし、就寝中の目やになどの汚れを落とせるし、寝癖も直せる、何よりきもちがいい。といい事ずくめなので、ハイノはすっかりこの人間的な習慣が気に入っていた。一人で暮らしていた頃は、いつも水場が近くにあるとは限らないので、手で顔をこするのが関の山だった。新しいタオルで水滴を拭い、それから、キッチンへ向かう。 器具の収納場所は既に教えてもらっていたので、ダイニングの椅子を持ってきて木製のボウルと調理用のフォークを棚から取り出す。テーブルの籠に入れてある昨日シーグルが何処からか持ってきた岩啼鳥の卵をボウルに割り入れ、瓶の水を長い箸で混ぜ合わせる。その手際は既に慣れたもので、殻は玄関にあるコンポスト用の桶に投げ入れる。 「!」 ご機嫌に小さく跳ねると、次に倉庫にあったという少し古い小麦粉と膨らし粉をボウルに少しずつ混ぜながら加えていく。思った通りの粘り気になるまで、粉と水を調節して、ボウルいっぱいに液ができあがる。 数字を勉強中のハイノに、時計はまだ読めない。だが、針の様子からなんとなくそろそろ『あさごはん』の時間だと予想がついた。簡易竈に部屋の隅に置いてある薪を三本ほど持ってきて中に積み、水場で手を洗い流し、下の棚にフックで掛けられた布で拭く。 ふふーっ、と満足げに鼻から息を吐いて、足取り軽くハイノは寝室へと戻っていった。 「ンム……ああ、おはようございます……」 寝ぼけ眼のシーグルを覗き込んで、ハイノはえへへと笑う。いつも黒髪を上げて額が見えている彼が、朝は下ろしてぼさぼさになっているのが好きなようで、ハイノは小さな手でその頭を撫でる。 一日のうちで一番ぼんやりしている師は、その手を払うことなく大きな欠伸をした。 「あさごはん、じゅんびかんりょう! ひをつかってもいいですか?」 「もうですか? そう急がずとも……」 そう言うと、シーグルは手のひらをすっと差し出して、宙に浮く爪一つ分ほどの小さな火球を生み出した。一瞬火はこぶし大にまで大きくなったが、直ぐに周りを包む空気の組成を調節し、おさまる。 「おっと、はいどうぞ。火種を移す時は素早く、着火床を狙うんですよ」 「りょうかいです!」 コインを渡す動作のように、指で周りの空気層を掴んだ師の手から、両手でそっとハイノは火種を受け取る。そのままととっとキッチンへ向かう背を見送って、シーグルはゆっくりと洗面所へ向かった。 シーグルが顔を洗って居間に戻ってくると、そこには既に小気味よいじゅうじゅうという音が響いていた。火にかけた片鍋に食用蝋椰子油を引いて、ハイノがボウルの生地を流し入れた直後のようであった。 「これまた随分沢山作りましたね」 「えへへ、ちょっとおおすぎたかも。でもせんせい、いっぱいたべるでしょ? それに、おおめにやいておけば、おひるのぶんになるです」 「確かに。では、逆に食べ尽くさないようにしなくては」 「ふふっ! せんせーのくいしんぼ!」 薄い生地はすぐにふつふつと端から気泡を弾けさせ、火が通りつつあった。ヒラ返しという器具でハイノがその生地を裏返すと、厚さ二倍程に膨らんだ。念の為と後ろに立ってシーグルは見守っているが、生地を返す手付きも危なげなく、焼色も申し分ない。大皿を持って、完成品を待ち構える役に徹してそのパンケーキ量産体制は数分ほど続いた。ぐぐう、と男の腹が鳴ったのを、少年は振り返っていたずらっぽく笑った。シーグルは小さく咳払いをして視線を泳がせる。 出来上がったパンケーキはちょっとした高山帽のように積み上がった。ふっくらとしたパン生地は、素朴ながらあたたかで飽きのこない、万人に愛されるそれ。香ばしい香りも焦げる寸前のカリッとした歯ごたえの端っこから漂っている。 シーグルがテーブルをセットしている間に、ハイノはさらに卵を三つほど割り入れて、目玉焼きを作る。岩塩を振って、二個分を師の皿に、一個分を自分の皿にヒラ返しで盛り付けた。これで卵は使い切ってしまったが、また今朝も産みたてが巣にあるだろう。毎日、そうして補充している。 食べられはするがいつのものか分からず早めに使い切りたい大紫蜂の蜜の瓶を食卓に置いて、二人分の皿と食器を並べ、速やかかつ充実したいつもの朝食はここに完成した。 向かい合わせに二人は席につき、食欲を唆る皿を前にきちんと目を合わせた。 「それでは、いただきます」 「いただきまーす!」 勢いよくパンケーキに齧り付いたハイノは、あっという間に口の周りに蜂蜜を付けて、もたもたと一枚を懸命に食べる。 一方でシーグルは行儀よくナイフとフォークで切り分けて口に運ぶ。その一口分の量とスピードは尋常ではなく、ハイノの数倍ではきかない。次々にパンケーキの山が消えていくのを手を止めて眺めているハイノを見かねて、ちり紙で口を拭ってやる。 「手が止まっていますよ、もう満腹ですか? あと汚さないよう食べる練習もしてください」 「んむぐ……はぁい。……あの、おいしいですか?」 「はい。顔には出ていないでしょうが、申し分のない朝食だと思っています」 「やった!」 嬉しそうに破顔すると、ハイノは食事を再開する。 しげしげとシーグルは少年の様子を伺う。蜂蜜の甘さにも食器の使い方にも漸く慣れてきたその順応性は申し分ない。だが、未だにシーグルの反応に一喜一憂するところは変わらない。褒めれば喜ぶのも、叱れば落ち込むのも分かる。しかし、表情が変わらないので言動においてだろうが、シーグルが美味しいと言ったりしまったと言ったりする度にこうして喜んだり心配そうにしたりするのが彼にはよく理解できなかった。 これまで自分の反応をここまで気にされたことがないせいか、時折ハイノの感情表現に当惑していた。 (別に困ってはいないのだが、不思議だ。ハイノは、他人の態度に自分の感情を左右されて、疲れたり嫌になったりしないのだろうか) 目玉焼きのクリーム色の黄身が、とろりと口の端から溢れるのを慌てて舐めるハイノは師の視線に気付きもしない。 それはそうと、今日の予定を決めなければいけない。咀嚼の速度を緩めて、シーグルは思案を始めた。 「そういえば。せんせいは、ごはんのまえにいろいろしないですね」 もぐもぐしながら、ハイノが言う。一拍遅れてシーグルは我に返る。 「ほう? それは、ハイノの知る人間は何か仕草をしていたということですか? どうやっていましたか」 すると、ハイノは唸って思い出しながら右手を心臓の位置に当て、左手を額の真ん中を摘むように触る。シーグルはすぐに得心した。 「えと……こんなことして、なんかいってた。ぼくも、するといいって」 「精心奉上と恵みへの謝詞ですね。信心深い方々だったのか、神官職だったのか……簡単に言えば、それらは神に感謝する時の定型仕草です」 「かみ……って?」 きょとんとした顔に、これは、とシーグルは気付いた。 ハイノがいくら人に近い知能と情緒と姿をしていたとしても、人の社会と関わらずに生きてきたら『神』というものを知りようがない、という事実に今やっと気付いたからである。 どう説明するべきか少し逡巡して、シーグルはフォークを置く。 「神というのは……人でも魔物でも精霊でもない、超越的な存在を指す概念です。人間を見守っている何か大きくて優れた存在を信じることで、人々は勇気づけられ、苦難を乗り越える力としたのです。神官職というのは、その信仰を柱とした方術使いのことを言います」 「はぇ……せんせいは、ほうじゅ……つ? それもつかえるんですか?」 「勿論。私は賢者と呼ばれますが、魔術と方術を能く修めた者をそう呼称するのです。ハイノにかけた傷を癒やす術も、この敷地内にある魔物を退ける方陣術もそうですよ」 「そうだったんだ……! せんせ、すごい!」 「いえ、それほどでもありません。魔術と方術は、一本の木から分かれた枝同士のようなもの。信仰心のない私でも修められる、似通った学問の一つでしかありません」 言いながら、置いたフォークの柄から先端までを指でなぞって見せる。 ハイノには、魔術と方術の違いもよく分からないのだろう。村の寺子屋では教えないが街の中等学校では教える内容なので、もしかしたら理解できるかもしれないと、試しに話をしてみることにした。 「魔術は、自然エネルギーの再現と、物理・魔素法則の応用の術。方術は、生命エネルギーの操作と、場の支配の術。と覚えるといいでしょう」 「は、はい」 「魔術という学問は、忌むべき魔物の技を研究し再現して攻撃利用するという経緯で発展したので、どうしても穢れと罪の意識が長らく人々にありました。一方で、不安で荒む人々の心の拠り所として幾つかの宗教が興り、人は魔物のような野蛮なものではないという願いや、神に守られているという自尊心が教えとして広まっていきました。この状況が揃った結果、信仰心と魔術の一分野であった『救いと加護を与える術』とが繋がり、新しく『方術』と名がついたのです。人を救う術と人を救う教えには親和性があり、双方に都合が良かったことで、いつしか方術使いが神官職として認定されるまでになりました」 「ふぉん……」 ほうけた声がハイノから漏れる。魔術界と宗教界の思惑と実利についてはこれ以上触れるとさらに混乱させるな、と内心苦笑して、シーグルは肯いた。 魔物と人、攻撃と防御、呪いと癒やし、そういう表裏一体の関係と同様、魔術と方術は対をなす技術であることは、何となく伝わっただろうか。 「まだこの辺りは難しかったですか。つまり、食事の前の謝詞は、神に恵みを与えてくださったことを感謝する祈りの仕草であって、したければすればいいし、したくなければしなくていい、ということです。まあ、作法として覚えておくに越したことはないですね」 しばし、ハイノは考え込んでいた。話を解するためにも、それを飲み込むにもまだ時間が必要なことはシーグルにも分かっていたので、残りのパンケーキを食べて待つ。十枚ほど食べたが、これで腹が落ち着いた。 やがて、ハイノは眉間にしわを寄せたまま、唇をちょっと尖らせる。 「んむぅ……したいか、したくないか、よくわかりません……でも、ぼくは、いままで『かみ』をしらなかったけど、ごはんはたべられてた……それって、ほんとは『かみ』のおかげだった……ですか? なら、したほうが、いいのかなあ? でもせんせいはしてないし……うーん」 子どもの素直な目線というのは、時折思わぬ角度から疑問を投げかけてくる。人の子は学校や教堂から教わるがままに疑うこともなく覚えることでも、この子は自分の頭で考えてその疑問に至ったのだ。感心すると同時に、シーグルは少し嬉しくなった。 「そう、神を知らずとも、感謝をせずとも、食事はできる。魔術理論を知らなくても魔物は術を使える。それは、自然がただそうあるからです。一方で食事は神の恵みだと思えばそうですし、そうじゃないと思えばそれもまた正しい。考え方次第で世界はどうにでも見えるのです。私の場合、神という人の頭の中にしかいないものに因果関係のない感謝をするより、目の前の自分の糧になる肉や野菜そのものに感謝をした方が余程分かりやすい。そういう意味で『いただきます』と言っているだけなのです。カモフラージュとも言いますが」 神妙な顔でハイノはそれを聞いていて、やがてゆっくりと頷いた。 「そっか……じゃあ、よくわからなくても、おこられないです?」 「はい。私も、誰も怒りはしません。私も神に怒られたことはありません」 「んふふ、そっかあ」 ジョークがそうと伝わってシーグルはほっとする。真面目な顔のままで冗談を言うと、大抵の人は意味が分からず流すか愛想笑いをするかなのだが、ちゃんと笑ってもらえると嬉しいものだな、と思った。低確率で当たる実戦には不向きの魔術みたいなものか。 「ああ、それと。作ってくれたハイノにも、感謝を。ありがとうございます」 「えっ……」 目を丸くして、ハイノはがたんと身動いだ。 意外な反応に、おやとシーグルは様子を見る。その驚きの後、ハイノは戸惑うように遊色の踊る瞳をぱちぱちと瞬かせた。それから徐々に目を細めて口元を緩め、頬に手を当てて俯いた。 「ハイノ?」 思わず声をかける。と、少年は顔を上げ、男に向かってにへっと笑んだ。 「なんだか……ありがとうって、いわれると……くすぐったくて……ほっぺがぽかぽかします……! ふわふわ、いいきもち……ふふっ」 男はその幸福そうな笑みに、ぎくりとした。瑞々しい感情、感性のその眩しさに思わず目を逸らして伏せる。心臓が血管を引き締め上げているような痛みが走る。 (なんだ、これは……?) 身体の不調というより、精神的な影響のようにシーグルは思われた。ご機嫌に食事を再開したハイノを見遣って、ぼんやりと己の空になった皿を見下ろす。 (自分がそうやって……ありがとう、と言われてそんな気持ちになったのは、いつが最後だろうな) 毎日のように依頼をこなし、依頼人や人々に礼を言われ、そういう生活を何年もしていたはずなのに。いつから、何も感じなくなっていたのだろうか。思い出そうとしても、それは記憶のノイズの向こうにおぼろげに見える景色のように判然とせず、シーグルにはとても容易なことではなかった。 その無益な行為を中断して、今日の予定の話という実際的で意味のある行動に切り替える方が、余程簡単で楽であった。 これまでも、そうであったように。
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