2.明かりを灯すように

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「ふふー、るーるるん!」 穏やかな森に、軽やかな声が響く。 亜熱帯のやわらかな羊歯がさふさふと踏まれるたびに浮き沈みする。ハイノはマントのフードを被って、首元を絞りそれがずり落ちないことを確認するかのようにくるくる回ったりジャンプをしたりしてシーグルの後を楽しそうについてくる。 大人用のフード付きマントの裾を切り、無理矢理子供の背丈でも切れるように改造したそれは、ハイノの膝辺りまでの長さでひらひらと揺れている。 黒尽くめのシーグルの前に飛び出すと、その裾を持って、体をちょっと傾けながら一礼する。おどけているようで、しかしどこか優雅にも見えるのは、ハイノが品のある顔つきをしているせいだろうか、とシーグルは思った。 「ね、へんじゃないです? ひととおなじ?」 「はいはい、か……似合っています。普通の人に見えますよ。もう何度目ですか?」 「さんどめ! るるーん」 ハイノはまた嬉しそうに笑うとステップを踏むように土を踏む。 頭の角はフードの下に隠し、尾はシーグルが三つ編みにしてやって腰にぐるりと巻き付けてあるので、そう言った服装の子どものようにしか見えなかった。いつもと違う恰好を嫌がる敏感な動物もいるが、野生児たるハイノには該当しないらしい。 「あの、ハイノ。楽しそうなところ申し訳ないのですが、今向かっているのは小さな山里ですので、そんなに面白いものはありませんよ。目的は食料や衣服などの買い足しと、ハイノが変装に慣れることであって、あまり浮かれませんよう」 「はい!」 ハイノは時折人との遭遇はあったようだが、連れられて人の住む大きな集落に行ったことはないらしかった。そういえば、出会ったブロブの街は小~中規模のそれであったが、色々あってハイノにとっては通り過ぎるだけの場所になってしまったのだった。 注意されて気を取り直したようだが、そわそわと浮足立った様子はまだ伺える。横を歩きながら、落ち着きなくあちこちに視線を巡らせている。 ふと、少し離れた木の太い枝付近に、薄黄みがかった短い円柱型のものを見つけて、ハイノはあっと指さした。 「みて! あれ、なかがしろくて、どろどろ、たべれる」 少し屈んでその指の先を目で追って、シーグルは眉を動かす。 「リクタガメの卵に似ていますが……あれを食べるのですか? ハイノの消化器官で平気だったら人も食べられそうですが……美味しいのですか?」 「んーん。なんか……んん、あじのことば、いいのみつかりません。でも、おなかいっぱいになります。すき……とかではない」 「フム……しかし栄養はあるでしょう。味も調理次第で何とかなるかもしれません」 「そうかなあ? そうかも?」 「ただ村へ行く前に潰すと汚れて困るので、帰りに見つけたら採って帰りましょうか」 虫の類は生でなければ食べるのに抵抗はないシーグルは、やはり野生を生き抜くには子どもなりに知恵をつけるものなのだな、と感心する。人間における食事は、魔物よりずっと安定して質がいい農作物や家畜を利用したものが殆どなので、虫の卵など食べたことがあるものは滅多にいないだろう。山奥で隠遁する魔術師などが自給自足するにはもってこいであるが。それに、成分次第では新しい薬が作れるかもしれない。 そんなことを話してまた歩き出すと、名残惜しそうに視線を卵に向けていたハイノが、木の根に躓いた。 「ひゃあうう」 「あっ」 一瞬宙を舞い、地べたを擦る様につんのめる。見事なほど派手な転び方だったが、すぐにむっくりと起き上がったのでシーグルはほっとする。 「大丈夫ですか。見せてご覧なさい」 体中についた土を払ってやっていると、膝から血がぷっくりと盛り上がっているのが見えた。剥き出しだったので擦りむいてしまったのだろう。見るからに痛そうだが、ハイノはけろりとして眉をしかめるシーグルに首を振る。 「げんき! なめればいいので!」 「こら、不衛生ですよ。土から傷口に悪い菌が入るかもしれません」 ひとまずは、とポケットからハンカチを取り出して患部に当てる。 小さな傷でいちいち癒術をかけるのは面倒臭い派のシーグルであったが、それは怪我をしたのが自分の場合である。何でもかんでも術だよりでは一流とは言えない、というのが彼の持論でもある。 とはいえここには医療道具もないし、傷が残らないようにとハンカチで一度血を拭きとってから、術をかけることにした。のだが、奇妙なことに気付く。 (? もう血が止まっている) さきほどまであれほど出ていたのに、とシーグルは手元の赤く染まったハンカチをしげしげと眺めた。 と、その時である。不意に、耳鳴りに似た、奇妙な音が耳朶を打った。 聞き馴染みのないその反響に、シーグルは眉をひそめた。それが何か思い出そうとする。 「――わあっ!?」 「!」 だがハイノの声に意識を引き戻され、周囲を囲む気配に先に対処することにした。 『ギギイ、ギキッ』『グゲゲッ』『ギキィ』 紫豚の鳴き声を、よりだみ声にして汚く痰を絡ませたような声が、ざわざわと草むらの奥から響く。そう思った時には、膝ほどの小さな影がそこら中に蠢いていた。 「臆病な筈のギブルゥが、珍しい」 シーグルが呟くと、ささくれだった苔色の肌が草の隙間から覗いた。ひっ、とハイノが小さく声を上げる。 それは、猫背で鼻と耳が尖った醜い赤ん坊のような姿をしていた。赤ん坊とはいっても肌は苔色だし、やけに細く節くれだった後ろ脚で立ち、黒目しかない目は獣のそれと変わらない。出来の悪いマリオネットのように不格好にひょこひょこと歩く姿は、旅に慣れた冒険者でも、嫌悪感を持つ者が多い。グヴォルヴとは逆に、人型の癖に知能が著しく低く持久力がないのも特徴である。脅威があるとすれば、鋭い針のような牙と、人の背丈を軽々と飛び越える跳躍力、その数にものを言わせた狩りである。 草陰に潜んで、人間二人、そのうち小さいのは転んで血を出したのを見て狩れると踏んだのだろうか。 舐められたものだ、と少々不愉快な気分になって、シーグルは鋭く群れに向き直った。コートの裾が広がって揺れる。 「ハイノ、私の後ろに」 「ひゃい」 上擦った声に、恐れが滲んでいる。シーグルは詠唱するまでもなく、視界に入ったすべてのギブルゥに手をかざして術式実行の照準を絞る。一歩こちらに踏み出したものからその術は発動した。 「”破裂”」 『ギャヒッ』『グプ』『ビィイッ』 ボン、ボンという鈍い破裂音とともに汚い悲鳴が上がる。風呂で空気を包んだ布を湯の中で開放する時の音に似ている。たまに目玉や脳漿が飛び散って足元まで辿り着く。その度に背後のハイノがびくりと身を震わせるので、怖ければ目と耳を塞いでいなさい、と囁く。一人でも生きていけるよう指導すると言った割に過保護かもしれないが、折角明るさを取り戻したところでトラウマを増やすのは得策ではない。 矢継ぎ早に突撃してくる十数体を破裂させる。 (しかしここらのギブルゥは、こんなに組成が脆かったか? 思ったより飛び散る。それとも、苛立って無駄に出力を上げてしまったのなら、私も腕が落ちたな) イメージと実際の効果との差異が大きければ大きいほど、術師にとっては未熟の証となる。これまでそこに寸分の狂いなく術を発動できていただけに、シーグルは些か戸惑った。 数が半分以下にまで減ったところで、ギブルゥはわっと一気に逃げ惑った。こうなれば後追いはしない。 と、唐突に辺りが陰った。 羽音とともにごうと風が巻き起こる。赤い蜘蛛のような八つの目玉がバラバラな方向を見て回り、剣山のような細長く多い牙を剥いて甲高く鳴いた。薄い皮を張ったような翼は大人三人分ほどもある巨大なそれである。 (これは、大蜘蛛蝙蝠(インケティス)!? 夜行性のはずでは) その驚きで、一瞬動きが遅れた。 「せんせぇ!」 ハイノの悲鳴が上がった。八本の毛の生えた脚のうち一対が、シーグルを挟むようにして鷲掴みにしたのだ。そのまま上空へ飛び去ろうとぐんと方向を変える。 インケティスの知識がシーグルの脳に蘇る。習性として、獲物を多脚でとらえ、そのまま食らうのがスタンダードである。その際には、普段は埋没された針で神経系の毒液を注入し、生きたまま無力化させて食うのが流儀であった。保有する菌の多さも尋常ではなく、噛まれれば感染症で死に至る人間も少なくないという、一般人にとって夜の森を避ける大きな理由になっていた。万力のような力で締め付けられ、背丈ほどの高さにまで持ち上げられながらも、シーグルは冷静だった。 (毒も私は”常時異常無効化”で平気だが、ハイノはそうではない。感染症にでも掛かったら、魔物ゆえ医者に見せることは出来ない以上まずい。注意をこちらに引いたまま仕留め――) 「やめて!」 悲鳴に近い声に、びりと空気が震えた。インケティスの目が全て、泣きそうな顔のハイノを映す。唇をわなわなと震わせ、しかし逃げることなく少年はそこで翼の起こす大風に耐えて立っていた。虹のように色を変えるその双眸は、まっすぐに魔物を睨みつけている。 怖がりだと思っていたのだが、どういうことか。シーグルは呆気にとられてハイノを見る。 「せんせいをはなして……! っ――おまえなんか、きらい!」 悲痛に叫んだ、次の瞬間。 ボフッ、と上の方から音がして、シーグルは顔を上げる。インケティスの頭部があるそこが、奇妙に歪んでいた。 ボ、ボ、と次々にそれは沸騰する水のように膨れては潰れ、盛り上がってはへこみ、無造作に粘土をこねるように形を変えていく。その度に黒い血が飛び散り、シーグルもそれを浴びる。肉は躍動し、人の鼓膜では聞き取れない周波数の悲鳴が周囲の葉を小刻みに揺らす。それはまるで、無数の細かな拍手のようであった。 いつの間にかシーグルの体を掴む腕は力なく垂れ下がり、自由落下で彼は着地する。ハイノが駆け寄ってしがみついてくるのを屈んで抱き留める。だが、シーグルは視線を異様なインケティスの様子から離すことができなかった。既に絶命しているのは明らかではあったが、皮膚組織の隆起は収まることを知らず、遂には羽も折れ曲がり、殆ど球体の肉塊となってぼとんと落ちた。 しん、と森は静まり返っていた。シーグルだけではなく、ありとあらゆる生物が、この異様な出来事を固唾を飲んで見つめているかのようであった。かすかに神経の電気信号で肉塊はぴくぴくと動いていたが、その反応もやがて消える。風が遠慮がちに吹き通り、時間が動き出した。 シーグルは我に返り、冷や汗をかいていた自分に気付く。それから、少年の肩を掴んで自分から引き剥がした。矢も楯もたまらず問い詰める。 「何ですか今のは……!? ハイノ、あなたがやったのですか!? ――ハイノ?」 途中で、はっと気付く。 少年の体はぐにゃりと力無く傾き、仰け反るようにして頭は重力に負けている。 意識が、ないのだ。 慌てて抱き上げると、その異変は明らかだった。少年の頬は紅潮し、触れたところすべてが熱い。苦しそうだが呼吸はしている。四肢はぐったりとして動かず、まるで出来のいい人形のようであった。 (高熱……!) 異常なことばかりが起きる。鈍い頭痛を感じながらも、シーグルは急いで空間を”接続”し家にとんぼ返りするのであった。
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