2.明かりを灯すように

5/11

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
桶の水に”冷却”をかけて半分ほど凍らせたところで、ナイフの柄でそれを砕き、小銭入れにしていた草牛の革袋に水と一緒に詰める。これを簡易的な氷嚢にして、ハイノの額に置いてやるとバランスは悪いながらも狙った機能を果たしたらしい。少しだけ眠っているハイノの表情が和らいだ気がした。 ほーっと息を吐いて、シーグルはベッドの傍らの椅子に座る。疲れからではない、頭の混乱を整理するために一息つかなければならなかったのである。 脱いだコートは玄関の床に置きっぱなしで、それにも自身にもインケティスの血が付いたままであることは気付いていたが、片っ端から常時かけている方術によって浄化されているので対処を急ぐことはなかった。 (しかし。どういうことだ……? あの異常な体組織の変化は、私のよく使う”圧縮”や“破裂”系とも違う。というより、結果を規定された術式の挙動ではなかったのがおかしい) 魔術や方術は、人が根拠を積み上げて作り上げてきた性質上、『こうなれ』という明確な目的が存在する。”圧縮”にしろ”破裂”にしろ、その名の通り、対象物が圧縮されたり破裂すればその術式は正しく実行されたことが証明できる。 しかし、あの奇異な現象はどこかおかしかった。術式に組み込まれるべき『こうなれ』という結果へ向かうための意思プロセスが見えなかった。まるで、その現象自体が最終的にどうなるか分からない、奇妙な実験を見ているような気さえした。失敗した術は結果に対して最短距離では進行しないため、時折紆余曲折を経て尻すぼみに終わることはある。そういう、不完全な力の経路が垣間見えた。 (あれは、デザインされた術ではない。なら、魔物の術……生来的に引き起こせる奇怪な技だとすれば、ハイノの、魔物としての力なのか?) それが一番あり得た。 根拠としては、あの現象の引き金となったであろうものは、ハイノの感情の昂りであったように思われたからである。 (生体組織の異常活性、いや暴走のように見えたが、賢者のホルダーの私でも”生体復元”級の方術は難しい。そもそも、魔物において方術相当の技を使えるものは確認されて……私が知らないだけで、いるのだろうか? 自己改造の出来るタイプは、他者に対してもそれが可能なのか?) シーグルは腕を組んでうーんと唸る。 宮廷顧問や研究院なら情報は多く集まるのだろうが、民間の協会に属す彼では、実力はまだしも知識においては環境が違いすぎる。 魔物は、動物より遥かに攻撃性が高く、力こそすべてという本能の生物である。魔力があれば攻撃的な使い道を本能的に選ぶ。そんな生物が、方術という生命エネルギーの活性により癒しを他者に与え得るものだろうか。いや、今回のように攻撃に転用できるなら生得し得るか、などとシーグルは思案する。 ん、とハイノが身じろいだ。そちらに目をやると、荒い息遣いで必死に生きている少年がいた。優しい心を持った彼なら、或いは、と思わざるを得なかった。 (しかし、一番分からないのは……あの時、一切、魔力を感知しなかったことだ) どんな魔術師も神官も魔物も、魔力なしには一般人や動物と同様のことしかできない。自然界における、絶対のルールがそれである。ハイノが魔物の力を持っていたとして。方術に酷似した攻撃手段を行使したとして。この一点においてすべての仮説がまた白紙に戻る。火のない所に煙は立たぬ、という諺以前の、酸素がないところに火は立たぬ、という話になってしまう。 指の背でそっとハイノの頬に触れると、焼きたてのパンケーキのように柔らかくて熱い。シーグルは目を細めて、胸が詰まるような苦しさを溜息にして放つ。 (これに関してはより専門的に研究している者の見解が必要だな。しかし、機密情報を持つ専門家にはなかなか会えない上に、こちらの事情も事情だ。検証と仮説を重ねて私が時間をかけて解明する方が安全策か……) 長い道のりになるかもしれない、とぼんやりと思っていると、またハイノが呻いて寝返りを打とうと大きく体の向きを変えた。 しまった、と思った時には遅かった。額の上で居心地悪そうにしていたなんちゃって氷嚢が、バランスを崩してひっくり返ったのである。元小銭入れの革袋に、水を止めておけるだけの締め紐の機能はない。コインしかせき止められない口から、ばしゃっと水がハイノにかかる。 「あっ……」 急いで布団を剥ぐと、幸い水は顔や気管を避けたが、鎖骨から上半身に掛けて大きく広がってしまっているのが見て取れた。氷は既に解けて無い。 「濡れた方が体が冷えていいか……などと言っている場合ではありませんね」 高熱の原因が不明な以上何が正解かも分からないが、水浸しは多分まずい。 子どもの看病の経験などなく、いや大人に対しても看病したことなどないシーグルは、一般的な知識の中から何とか最善を手探りで探すしかなかった。 (高熱で汗をかいているようだ。そこに水が掛かってしまった訳だが、布団は魔術で一気に乾かせばすぐにまた寝かせられるが……濡れた服を着たまま乾かすのは、流石に熱いというか、人体に良くない気がするな。やはり一度脱がして、汗も水も拭いてやるべきか) 個人的に看病する間柄の人もいなければ、戦地では片っ端から癒方術をかけていくだけである。病気に関しては、方術は殆ど根本的な寛解への手立てにはならない。生命エネルギーの操作は、あくまでも肉体の持つポテンシャルをかさ増ししたり特定の箇所の働きを高めたりするのが癒方術である。シーグルが自身に何重にも常時かけているように、毒やウィルス、病原細菌に対する方術による結界的防御策はあれども、どれもが体内に入って増殖する前のそれであって、症状として現れてくると薬や医学的処置にステージが変わる。 (熱冷ましの薬は先月卸すために作ったものがあったが……ものすごく不味いからあまり飲ませたくはない。あと半日ほど様子を見て、熱が下がらなかったら使う最終手段にしよう) 一部の薬は、魔物から採取される素材や、有資格者でなければ立ち入れない魔物の生息域にある植物などから作られるため、そういった薬を煎じたり生成するのも魔術師職や神官職の仕事の一つである。シーグルもまた、特殊な素材の取り扱い資格たる賢者のホルダーなので、依頼がある場合は薬局組合に卸すこともある。 クローゼットから大きなタオルを取り出して、乾いているベッドの片側に敷いてハイノを移す。桶の水を今度は”加熱”をかけてぬるま湯ほどにし、洗面用の布を浸して絞る。 ハイノには大人用の服の袖を折って着せているので、首元はかなり緩い。シャツの前を閉める紐をほどくと、細く白い首元が露になった。 ぴたり。とシーグルは思わず動きを止める。 (……待て。……大丈夫……か?) 何が大丈夫じゃないのか、と自問すれば、ハイノの性別を確信してないだろう、という自答が返ってきて、男は凄まじい衝撃を受けた。 (そ……そうか! ハイノが男か女かなど、すっかり頭になかった……!) 賢者の名が廃るとはこのことだ、とシーグルは本気で落ち込んだ。 どちらでも違和感がない、まるで人間に性差が生じる前の根源的可愛らしさがハイノにはあるので、性別を殆ど意識せずに暮らしてこれた。たとえば、着替えや体を清める際は相手の体をじろじろ見るのはマナー違反だという観点で別々にやらせていたし、まあ、時折背中や上半身くらいは見たが、すぐに目を逸らして深く考えないようにしていた。その時点でまさに見てみぬふりをしていた問題がこうして突き付けられたという訳である。 絞った布を持ったまま、苦しそうに息をするハイノを少し離れたところから見つめた。 (い、いや、男であれ女であれ、子どもを看病するためだから仕方がないではないか! ……とはいえ。とはいえだ。赤の他人が裸にして拭いてやっても問題ないほどハイノは小さくない。人間の十代前半くらいに見える。魔物ゆえ、自意識こそ無邪気で幼いが、普通の子どもなら親と風呂に入るのも嫌がるし、男女で意識し合い始める頃ではないのか……!? 精神年齢より肉体年齢が問題だ) さーっと青くなる。風体による罵倒や心無い言葉には慣れている。職業柄、悲しみや怒りで心に余裕のない人々と接する機会は多い。それでも、他でもないハイノに悲鳴を上げられたり嫌われたりしたら相当傷付くだろう。想像しただけでつらい。 ふと、気付く。 (私は今、ハイノに嫌われたくない、と思ったのか? なぜ?) 師弟としての関係が拗れるから、あと信頼関係が失われると面倒だから、いや、そもそもそんなものは構築できているのか。ぐるぐると思考ばかりが歩き回って、これ以上は収拾がつかなくなると勘付いたシーグルは、小さく頭を振って、目の前の問題に話を戻す。 (そんなことよりもだ。万が一……いや、二分の一で女性である確率があるのだから、男の私が無礼を働くわけにはいかない。というか男であれ何であれ、本人の同意なしに不用意に体を見たり触ったりすることは許されないことだ。子どもとはいえ一個人、しかし子ども故に大人の世話が必要、しかし服を脱がせて体を拭くという行為は医療行為と言えるほど専門的ではない……というか、誰に言い訳をしているんだ私は。誰でもない、自分自身の良心と倫理と常識との折り合いでしかないのでは……いや待て、待てよ……? ハイノは魔物だから、人間のこうした通念上の倫理というのは意味がないのか……!?) 再びの衝撃走る。 そもそも、魔物の増え方は人間より遥かに多様であることは、世に広く知られている。例えば、動物の発展型の魔物の多くは有性生殖であり、雌雄が別れている。姿かたちも雌雄差があるものも珍しくない。一方で、雌のみで繁殖するものもいれば、自己複製する分裂型もある。性別が後天的に決まり体が変化するものもいるというし、無性も両性具有の種族もあれば、突然変異で生まれたがゆえ、そもそも増えないものすらいる。 ハイノは人間ではないことは確かだ。しかし、どんな魔物かもまるで知らない以上、どんな知識も経験も、目の前の未知に対しては何の力も持たない。 (知らないからだ……私は、ハイノのことを何も。まだ……) まだ数日とはいえ、寝食を共にするほど近くにいたというのに。得体の知れない魔物であるということ忘れて、のうのうと暮らせるほど、自分は腑抜けて日和っていたということなのか。 立ち尽くす男と静けさの中、それを破ったのは、少年の生理現象であった。 「――っくしゅ!」 「ああ! すみません!」 こんなことを逡巡している場合ではなかった。 シーグルは腹を決める。己の中にいる複数の真面目な自分が喧々諤々の議論を未だに交わしていたとしても、結論が出る前に弟子が本当の風邪を引いてしまう。はだけさせた服と肌の間に手を入れて、背中に回す。濡れた服を床に放り、すっかりぬるま湯のぬくもりを失ってしまった布で体を拭いてやると、眠ったままのハイノから気持ちよさそうにふうと吐息が漏れる。気を逸らすべきか作業に集中すべきかも分からないまま、彼はただただ申し訳ない思いであった。弟子は謎の高熱に苦しんでいるというのに、自分は言い訳や保身ばかり考えていた。感情や心の動きで精神に疲労を感じる。 「……、……?」 不意に、手が止まる。 常の淡々とした無表情に戻り、一旦少年を寝かせてその体の上に手をかざす。半透明の淡く発光する窓がいくつも開き、実行者の意のままに機能する。 ――これが本当の万が一という事態であろうか、と彼は思った。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加