2.明かりを灯すように

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「――」 ぼんやりと橙色の明かりが天井の木目を照らしているのを、ハイノは見つめていた。 それに気付いたシーグルは、脚を組んで椅子で冊子を読みふけっている最中であった。室内はひどく静かで、息遣いと布の擦れる音と、ページを捲る音しかなかった。カーテン越しの窓の外は暗く、鳥たちも寝静まった夜中であることを示している。 無言のまま、二人ははたと目を合わせた。 シーグルの目が、微かに揺れる。それを無かったことにするかのように、彼は立ちあがり、ハイノが横たわっているベッドの縁にそっと腰掛けた。木枠がきしと小さく鳴いた。 ゆっくりとハイノは腕に力を入れて、上体を折るようにして起き上がる。 「無理をしないでください」 言っても止めようとしないので、仕方なく薄い背に手を添えて介助する。ハイノの顔色はずっと良くなって、まだ熱はありそうだが目はしっかりと開いてじっと彼を見つめていた。 ベッドの頭側の縁に置いておいた常温の水が入ったカップを差し出すと、両手で受け取ってこくりと一口飲んだ。喉が潤ったせいか、んん、とハイノは声を出そうと咳をした。 「――せんせ……けが、ない?」 開口一番がそれか、とシーグルは意外そうに瞬きをする。しかしすぐに、肩の力を抜いて肯ずる。 「平気ですよ。頑丈ですので」 「……よかった……」 ほ、と吐息交じりにハイノは心底安心したように呟いた。それから俯いて、背を丸める。カップの中の水に悲しげな双眼が映る。 「ごめんなさい。おでかけ、なくなっちゃった……」 「問題ありません。熱が下がって、元気になったら行きましょう」 シーグルとしては励ますつもりでそう言ったのだが、ハイノは曖昧に小さくまた息をつく。 少年が責任を感じているのであろう事実は如何ともしがたく、シーグルにはそっとしておく他いい方法が分からなかった。 それ以上に、インケティスに起きた不可解な現象についてを問うてみたくて逸る気持ちを抑えきれずに口を開く。 「ハイノ。倒れる前に、何が起きたのか、覚えていますか?」 すると、ハイノはちらりとシーグルを見てから、不安そうに視線を落とす。 「……せんせいが、あぶないって、ぼく……ぎゅうってくるしくなって……あたま、からだぜんぶ、あつくなって……」 「フム? つまり……怒った、ということですか?」 きょとんとした顔で少年は男を見る。 「おこる? めが、ぐるぐる……のこと?」 「怒る、という行為が分からないのですか? そうですね……どう説明したらいいか」 うまく伝えられる言葉を探していると、ふとシーグルはベッドについた手に何かが触れるのを感じた。ハイノの手が、こわごわと指二本分くらい重なっていた。 おや、と男は思う。いつもなら、ハイノは何の躊躇もなく手に掴まってくるものだが。そちらの方がシーグルの人生において稀有なことであることを、すっかり忘れてしまっていた。 「どうしました」 優しく訊いたつもりだったが、声音は淡々と響いた。ハイノはやはり不安そうにまた上目で彼を見る。 「あの……ほんとうに、けがない?」 「本当にありません。ハイノが心配しなくても、大抵のことは一人で何とかできます」 「そうかも、でも……しなないでも、せんせいがいたい、くるしい、の、いやだから……かくすは、やめてほしい……」 思わぬ言葉であった。 この世には、痛みや苦しみはありふれている。魔物による惨殺など日常茶飯事で、人同士の争いすら絶えたことがない世界である。怪我、病、迫害、不況、差別、搾取、暴力。ささやかな尊厳でさえ蹂躙されることなど当たり前だった。 シーグルもそうだった。記憶も身内もなく、生きていく居場所を掴み取るために必死で努力をした。寝る間も惜しんで、己の欲や甘えも切り捨て、周りの人や景色を省みることもせず、目的地までの最短距離の断崖を命懸けで登ったような半生だった。資格職者になるには体力と知力と努力、才能も運も必要である。階位を上げていくたびに要求される能力と資質は増え、何の犠牲もなく最高位まで得られる者は皆無である。だからこそ称号持ちは尊敬され、人々に必要とされる。シーグルとて、当然賢者と呼ばれる能力と資質はある。それを公的に認められた自負はある。 だが――人として、欠けた人間であることには薄々気づいていた。こうして、ハイノが何故意味のない心配をしているのか。過ぎ去った痛みや苦しみを気にかけるのか。ありふれた不幸を気にかけない男本人の代わりに案じるのか。自分の心すら無駄と無視をしてきたのに、他人のそれなど、考慮に値するものではないと切り捨てた過去の自分を否定するような気がしていたからだろうか。だがあの朝、彼は何かが変わる予感を抱いていた。それを手放さないことを選んだ。 ならば、向き合うべき時はいずれ来る。不意に、こうして。 「……何故ですか? 気にするほどのことでは無いと思いますが……」 かすかに、声は掠れていたかもしれない。ハイノは不思議そうに、小さく首を傾げる。 「なぜ……? んむ……なぜが、どうして?」 縋るような気持ちで、シーグルはハイノの手を握った。 「だって――せんせ、だいじだよ? だいすきだから、だいじ」 少年はまっすぐに男を見て言った。男は言葉を失う。 他人と距離を取るのも、他人にそれなりに優しくするのも、男にとっては等しく防衛方法であったことに彼はようやく気付く。過去の彼は、ひとたび心が折れてしまったら、この世界でありふれた死に飲まれるしかないことを知っていたのだ。それなのに、この無力で小さな少年は、拠り所を失うことの意味や痛みを刻み付けられてなお、目の前の男をまっすぐに見つめることができる。シーグルはそれを少年の強さだと思って敬意を抱いていたが、実はもっと、単純なことだったのかもしれない。 「あのね、だいすきは、すきがいっぱい、といういみです」 「……、……」 「うんとね……つよくて、やさしくて。きびしくて、おおきいところ。そばにいてくれて、いたいをなおして、あたまいいこする。たくさんしってる、おしえてくれる。だめなぼく、たすけてくれる。こわいことしない。ほめられる、と、うれしい」 「…………」 「すきはもっとある! おなかにひびくこえ、めがほそくなるところ。かみ、しゃきんとしたり、わしゃっとしたり。しずか、とおくをみるときある。てはひんやり、ぎゅっとするとあったかい。それから……」 「もう、もういいです。分かりました。……分かり、ました」 指折り熱心に言うハイノを、シーグルは俯いたまま制する。 まだ言い足りなそうに少年は顔を上げ、目を丸くする。 己に欠けていた何か。少年に与えられた何か。音もなく歪な二つが噛み合うのを男は確かに感じた。 (ああ、きみは、『賢者』でも『シーグレンファルク』ですらなく……『わたし』をただ、まっすぐに見つめてくれるから) 細い腕が伸びて、男の頭を引き寄せ、大切そうに抱きしめた。 「せんせ? いいこ、いいこです」 微笑んで呟き、少年はいつまでも優しく頭を撫でた。 かれが、そうされたように。 かつてのかれが、そうしてほしかったように。
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