0人が本棚に入れています
本棚に追加
「今っ! 私を呼んだか! シーグレンファルク!」
上から凛とした大声が降ってくる。
エントランスがざわっと波立ち、風を切る音がシーグルの背後でしたかと思うと、カツンと一際大きな靴音がした。
見るとそこには、片膝をついて屈むような体制で、少女がいた。ブロンドの長い髪を左サイドにて真っ赤なリボンで結い、青みがかった翠の双眸はぱっちりと大きく輝いている。
「ラトカちゃんだ」「リーダー、今飛び降りて登場したよな?」「なんで?」「かわいい」
団員たちの声には耳も貸さず、彼女はスカートとタイツを組み合わせた可憐な戦闘服を揺らして、カツカツとヒールの音高らかにシーグルの方へと歩み寄っていく。
人形のような可愛らしい顔には、自信と活力がみなぎっている。シーグルは彼女に向き直り、恭しく礼をした。
「お帰りなさいませ、ラトカ様」
「ああ、ただいま! 久しぶりだな! 随分長く顔を見ていなかった気がするぞ!」
「ちょっとラトカレギィ! また床にひびが入ったら自腹って言ったよね!」
「わははすまないマルニエール! シーグルよ頼む!」
「……『申す申す 白柳石の光沢 俯きたる日追い花 五十一の足跡 糾うは金麻の紐』」
マルニエの文句にも悪びれず、ラトカはシーグルに鉢を回す。このスピード感も久しぶりだな、と思いつつ、シーグルは人差し指と中指の二本を当該箇所に向け、”復元”を実行する。物体に残る微かな記録を再現する、高等な魔術である。とはいえ時間を巻き戻すわけではないので、強度等は以前と全く同じにはならない。また周囲がざわざわと驚きの声を上げているが、当人たちはやはり気にも留めない。
「応急処置なので、後日職人を呼んで修復して下さい」
「そうしますよ、悪いねえ」
「うむ、相変わらず鮮やかな手際だ。感謝する!」
上機嫌のラトカは一見わがままなようだが、快活でさっぱりしているせいか嫌味が全くない。シーグルはいつも、この若干十七歳ほどの上司の持つ人柄的なエネルギーに感心させられるのである。能力としては、戦士職の五位と魔術師職の四位、神官職の三位というまだまだ中堅どころなのであるが、この性格と外見の華やかさで、彼女は若いながらもこの伝統ある組織を束ねる長として奮闘しているのであった。
「恐れ入ります。ラトカ様も変わらずご健勝で何より。迷宮攻略は如何でしたか?」
「大変だったぞ! 魔物は強いし罠も多い。その割に貴重な素材や遺物は期待したほどではなかったよ。だから鑑定も君の手を煩わせるまでもなかった。まあ、武者修行にはなった、というところだな! はははは!」
そういえばリースベットから言われていた、鑑定のお呼びがかからなかったのはそういう訳か、と納得する。
「それで、私に用があるという話をしていたな。書類の山にも飽きてきた頃だったんだ、執務室へ招待しよう」
「はあ、ありがとうございます」
「ついでに留守の間溜まっていた書類の処理を手伝ってもらいたいんだが」
「ラトカレギィ?」
「……ごほん。冗談だとも! そうだ、迷宮で窟蜜草を見つけたから手土産に持っていくといい。葉一枚で鍋いっぱいの飴が作れるぞ」
「はあ、どうぞお構いなく」
ラトカの執務室は、本部の三階廊下の突き当りにある。じとっとしたマルニエの視線から逃れるように、二人は吹き抜けを迂回するように弧を描く階段を昇っていった。
「――ひょへ?」
ラトカの間の抜けた声は、シーグルの言葉が想像だにしていなかったものであることを如実に示していた。
書類の束と分厚い史料の棚に囲まれた大きな執務机の前に、一昔前の高級なソファセットが一組ある。そこに収まって、西方の紅茶を前に、二人は話を始めたところであった。
いきなりの爆弾発言に、ラトカは硬直して顔を引き攣らせた。
「ちょ……え? 辞め……るのか? ウチを? なんでだあああ!?」
「大変急で申し訳ないのですが……一身上の都合により」
ガタンとラトカが立ち上がってテーブルに手をついて前のめりにシーグルに迫った。金の紙の束がぼふんとシーグルの顔に当たる。それほど焦っているということだろう。
「そ、そう言われても、さすがにはいそうですかとは言えない! 我が団で、いや協会所属でも賢者の称号持ちは君くらいなものだぞ! 他の複数ホルダーは聖戦士や英傑はいるけれど……賢者は国や研究機関に採られて、民間ではレアなんだ!」
「承知の上です」
「はっ! 待遇に不満があるのか? 確かに私たちは君が働き者ゆえにそれに甘え過ぎていたかもしれないが……現場から離れたいというなら、依頼を受けるのは止めて顧問という肩書でゆっくりするというのも手では!?」
「お気持ちはありがたいのですが、それではちょっと」
「それでも駄目なのか!?」
困った時には頼る気満々なのをを隠そうともしない彼女はいっそ清々しい。あわあわと取り乱す様子は、申し訳なさより滑稽さの方がほんの少し勝った。真面目な話の最中なので、いやそうでなくとも顔は無表情のままであるが。
改めて背筋を伸ばして、シーグルはきちんと頭を下げた。
「長年この藍なる東雲団にはお世話になり、本当に感謝しております。複数ホルダーとなったのもここで働いている時で、皆様には大変祝福されたことなども感慨深く思い起こされます。しかしながら……」
男は少女の目を真っ直ぐに見つめる。
「時に戦地派遣、時に迷宮攻略、時に災害救助。小さな依頼から困難な依頼まで、私の人生の殆どを費やして人々に尽力して参りました。今少し、自由な時間をいただきたいというのは、過ぎた願いでしょうか」
ぐ、と少女が言葉を詰まらせる。
称号持ちに課せられた社会的責任は重い。しかしそれを差し引いても、目の前の男の言葉に反駁できるほど、彼は怠け者ではなかった。
協会及び団の果たす役割は、国の軍や機関のフォローしきれない領域をカバーするものでもある。魔領の緩衝地帯は近隣国の軍が常時駐留しており、時に魔領に動きがあれば協会に派遣要請が来るほどに手が足りていないのも事実であり、以東の国々との温度差は、協会の主戦力たる団員たちとのそれでもある。その割りを食ってきた一人としてのシーグルの言葉は、ラトカにも大きく響いた。
肩を落として、ラトカは静かにソファに腰を下ろす。
「……協会が名指しで君を危険な依頼に差し向けるのを突っぱねることができないのは、ひとえに私の力不足だ。君には、苦労をかけている……」
「いえ。ラトカ様はよくやっておられます。私が同じ年の頃、同じように団員をまとめられたかといえば、無理だったでしょう」
ラトカは苦々しく笑う。
「それは、私の実力ではないさ……私がリーダーとなった時も、忠実で実力のある君がいたから大きな混乱もなく代替わりが出来たのだと思っている。父からも、マウリ老が引退する際引き継ぐように君が来てくれて大いに助かったとも聞いていた。……感謝をしているんだ、引き留めたいが……君の決意は揺るがせそうにないらしい」
彼女の弱々しい様子は、流石に堪えた。団をまとめ上げて進む方向を示し続けるためには、時には気丈に振る舞うこともあったろう。その細い両肩にのしかかる重圧を思えば、ここで突き放す自分は間違いなく悪者だ。しかしそうと承知で、シーグルはまた小さく頭を下げる。
「……申し訳ありません」
「ならばせめて……理由を聞かせてほしい。フリーになったところで働けば違法、隠遁するにもまだそんな歳でもないだろう。休むなら休むで、籍を置いたままでは何故いけないんだ? 何か、大きな使命を背負っているんじゃないのか!? せめて納得させてほしいんだ」
それも尤もだ、とシーグルは思った。
自分は政治には関わりは薄いが、団の稼ぎ頭としての働きはそこそこある。受ける依頼が減れば、団の収入も減る。
す、とシーグルは深呼吸する。やはり黙ったまま去るのは不義理であろう。ここに来るまでにやはり迷いはあった。
だが、彼女の様子を見て、覚悟を決める。
「分かりました、お話しします。実は――先日……人に近い魔物を助けてしまいまして」
「………んぇ?」
本日二度目の、間の抜けた声。
世界を救う使命とか、国に召し上げられるとか、そういうんじゃないの?と言いたげなそれに、シーグルは今度こそ引っ張られなかった。自分にとって、今一番重要だと思えることはもう揺るぎない。
「力も弱く優しい気質なので、人としても、魔物としてもまだ十分に生きていける段階にないのが、私の大きな気がかりなのです。ですから、私が師として、人を傷付けないよう、生きていくための知恵と力を教え導いてやりたいと考えています。そのための時間と自由が欲しくてこのような選択を致しました」
ラトカはあっけにとられて、口を小さく開けている。その唖然とした表情からも、自分がいかに突拍子もないことを言っているのかが分かる。
魔物を守ろうなどといえば、人によっては激高し、国によっては極刑すらありうるだろう。
「それでも魔物は魔物です。もしもの時、私なら被害を最小限に抑えられますし、然るべき責任を取るつもりです。ですが、その際にこの団と私が関係性を持ったままでは、ラトカ様や皆様に迷惑をかけてしまうかもしれません。それは避けたいのです。その上で、私が私の意志と責任において、あの子の『可能性』を信じてみたいというのが、退団の事由です」
「そんな、……ん、いや……」
そんなことで、と言いかけたのを、ラトカは口を噤んで取り消す。
「そうか……それが、君のやりたいこと、なんだな」
そう言うと思っていた、とシーグルは嬉しくなった。
シーグルが彼女を上司として認めているのは、この誠実さなのである。相手の話を聞いて、決して馬鹿にしたり無下にしたりしないところが、彼女の長たる資質であると。
彼女は視線をテーブルの茶に落とし、複雑そうな面持ちで言葉を次ぐ。
「私は幸い、と言っていいのか、魔物に対する憎しみはそうあるわけではない。正義感と必要性に迫られて、人々を守るために討っているだけだ。だが、世の中にはそうではなく……激しい憎しみや殺意を持っている者も決して少なくはない。それを承知で、だからこそ身を隠したいということなんだな?」
「仰る通りです。ラトカ様なら、冷静にこの話を聞いて下さると思ったからこそ、正直にお話しました」
その言葉に、ラトカ自身も勇気付けられたのだろう。神妙な顔で、こっくりと頷いた。
「……分かった。君の信頼に、私は応えたいと思う。絶対に他言はしない」
途端にの深い安堵がシーグルに齎される。
(一種の賭けだったが……功を奏した。リスクを冒して人を信じてみようなどという発想も、かつては俎上に上がらなかっただろうが……これもハイノの影響だろうか)
これまでの自分なら、理由はきっと話さなかった。生真面目に退団を相談するまでは同じでも、必要な嘘ならいくらでもつけるのが大人である。
しかし、慣れぬことをしたせいか、ラトカから想定外の言葉が飛び出した。
「だが……興味が湧いた。君にそれほど可能性を感じさせる魔物の子が、いかな者であるのか。会ってみたいぞ!」
ぎょっとした。
目が輝いているように見えるのは気のせいではない。
「そ、それは……即答しかねます。本人の意思を尊重します」
すると、いつも忠実な部下の思わぬ反論だと感じたのか、ラトカは口を横一直線にして不機嫌そうに身を乗り出す。
「むううう! 会ってから退団について正式に決めるぞ!?」
「許可をいただかなくても、無断で行方をくらますこともできますが」
「ぬっ!? そういうのは良くない! そもそも退団許可を取りに来てくれたことには感謝をする! でも会ってみたい! 君の初弟子に!」
「ラトカ様……」
我儘モードに突入してしまった。やはりこういう我を通すところは裕福な一人娘そのものなのだから困ったものだ。先代は甘やかしすぎていたきらいがある。
シーグルはどうしたものかとため息をつく。
「では、帰ったら本人に訊いてみます。許可が貰えましたら会わせますが、拒否されたら会わせません。よろしいですか」
「うっ……い、いいよ。どっちにせよ、もう何度か引継ぎには来てくれるんだろう?」
「最低限の義理は通します」
「ふーっ! 君のそういうところが真面目で助かる!」
勝算の薄い話ではあると思った。師としてもハイノの体調が心配であるし、まだ人間と交流を持つには言葉も知識も未熟だ。会話は随分上達したが、読み書きはこれからというところなのに。
ともかく、今日はこれ以上ラトカと話すべきことはなかった。一応退団の意志は受理されたと見ていいだろうし、多忙のリーダーの時間を奪うのも忍びない。ソファから立ち上がって、一礼してドアノブに手をかける。
「――いや、待て!」
鋭い一言に、ぴくりと手が止まる。
ぴりと気を引き締めて振り返ると、厳しい顔つきでラトカが腕を組んで立っていた。
「最後に聞いておかねばなるまい……その子は……背は小さいか?」
「………………はあ。ラトカ様の頭一つ分ほど小さい背丈です」
「成る程。かわいい系か? やんちゃ系か? たくましい系か? どういう系なんだ?」
「…………………………かわいいです」
「うむ、よろしい!!」
一体なにがよろしいのか、と本部の外に出てからシーグルは首を傾げた。
最初のコメントを投稿しよう!