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食料は順調に買い溜めしたが、一人で古着屋で子どもの服を買う際には周りの視線に耐えなければいけなかった。
古くからある店ばかりのため殆どが顔見知りの店主や店子で、シーグルが独身であることも知っている。お喋り好きの彼らはどうしてもシーグルが子ども用の服を必要とするのか聞き出したかったようだが、のらりくらりとシーグルは躱し、店ごとに違う嘘をついて誤魔化した。どうせもう当分は顔を出さないのだと割り切っていたので、気は引けなかった。これは、今まで周りに気を使って生きてきたシーグルにとってごく新鮮なことで、途中から面白くすらなってきたのは自分でも意外だと思った。だがここにハイノがいたならもっと面白いのだろう、と気付いて、やはり手早く買い物を済ませることに尽力した。
荷は買ったその場で倉庫に送り、手ぶらで彼はまた発着用ポータルに向けて歩き出す。余程の緊急性がない限り、エンシオ市のような人や魔術師の集まる街では市外へのポータルを経由しない“跳躍”や“接続”は忌避される。市内ならまだしも市外へとなると、術の難易度が三段階ほど上がり、他人との術式混線や場の乱れが危惧されるからであった。
「――おーい、そこの黒いの! ちょっと止まって!」
聞き馴染みのある声に、シーグルは店先から外れたところで立ち止まって、辺りを見回す。
すると、車道を挟んだ向かい側の歩道から、二人の人影が横断してくるのが見えた。背の高い女性と、後ろをついてくるのは少女である。
「リースベット様」
シーグルは会釈する。するとリースベットは垂れ目を細めてからからと笑い、彼の腕を親しげに叩いた。
「元気してたかい、通信の時以来だねえ」
癖っ毛があちこちに跳ねている赤髪は、シーグルの鼻先ほどの位置にある。杖も武器も持たず、彼女は胸元が開いたシャツにパンツスタイルと、一般人と変わらない軽装であった。
「マリス様もお久しぶりです」
「ご機嫌よう、ファルク様!」
リースベットの連れである少女は、真っ直ぐな金茶の揃えられた髪を揺らし、スカートの裾を摘んで礼をする。その服装も良い生地を使ったいかにも神官職らしい白を基調としたローブを着用している。相変わらず育ちの良さが身嗜みにも所作にも現れる娘だな、とシーグルは思った。物臭気味のリースベットとは方向性が違う。
そんなことはおくびにも出さず、彼は頷く。
「私はお陰様で変わりなく。お二方もご健勝でなによりです」
「はっはっは! 相変わらず仰々しい奴だなあ。同僚の前でくらいもっと肩の力抜けい!」
「ム、もう飲んでいらっしゃるのですか?」
ふと漂った黄葡萄酒のにおいに、シーグルは眉間にしわを一本寄せる。まだ日も落ちて間もないのに、リースベットはほんのり赤ら顔でいつもより上機嫌である。
「もちろんよ、昼頃には依頼が終わってね! あんたもちょっと付き合いなよ。奢るよ!」
「しかし、これから帰るところでして」
「おいおい正気かい? この美人師弟と同席する機会を逃すなんて! マリスも話聞きたいよねー?」
「はいっ! 賢者様のお話聞きたいです!」『デス!』
マリスはベルトにチェーンで繋がった手のひらサイズの村娘風の人形を持ち、裏声を使いつつ頷いているように動かした。人形は年季が入っており、刺繍されてできた顔には糸がほつれかけている。リースベットはマリスの肩を抱く。
「ほらほら、あたしのカワイイ弟子とお人形さんもそう言ってるよ」
「もー師匠! この子の名前はミルチッチですってばー!」
「あははははリースベットロウ一生の不覚ぅ」
おどけてそう言うリースベットに、マリスは膨らましていた頬をしぼませ、またにこにことこちらに向き直る。
女性二人の圧と期待を振り切るだけの野暮さは処世に不要であったので、シーグルは一旦は頷くしかなかった。
「……では、少しだけ。しかし本日は飲酒は致しません。家に帰らねばならないので」
「なんだなんだ、折角酌でもしてやろうと思ったのに。つれないねえ。ま、いいや。ヴーズヴィの店まで繋いでおくれよう」
仕方なく三丁ほど先のリースベット行きつけの酒場に目的地を定める。前もって座標を知っていたので、無詠唱でシーグルは例の黒い平面を目の前に開いた。
くぐるとそこは既に店内で、慣れた様子でリースベットは空いているカウンター席に直行する。続いておっかなびっくり顔を出したマリスは、無事に店の中の観葉植物横に出たことに唖然としている様子であった。最後にシーグルが通り抜ける。店内はこれからピークタイムを迎える頃で、賑やかに客も店員も活気にあふれていた。資格職らの御用達だけあって、不意に現れたシーグルらにも驚くことなくそれぞれの話や動きは続いていく。二人は早くも注文を済ませたリースベットの元へ向かう。
途中、マリスはまじまじとシーグルを見上げて、感心したように言う。
「ふはぁ……賢者様ともなると“接続”に詠唱も必要ないのですねえ」
「いえ、大したことでは」
「全然大したことですっ! 文言を覚えるだけでも大変なのに、正確に意味と意図を理解して適切な魔力を通わせてやっとできるのが術式……なんですよね師匠!」
「そうそう。それが分かってても苦手なんだよな~我が弟子マリセラノスは」
「てへへ」
困ったもんだ、と困っていなさそうな笑顔でリースベットは早速来た泡麦酒のジョッキに飛びついた。実にうまそうに口に泡をつけてぷはーっと彼女は一度に半分ほどまで飲む。
「まあ、魔術は属性術から操作やら概念やら、分野が広すぎて苦戦する気持ちはあたしにも分かるよ。あたしなんかも、最高位取ったあとは得意なやつばっか使ってるしね。師匠としてどうなのって感じよ」
「それで事足りるならいいと思いますが……」
「師匠はちゃんと師匠してくれてますよー」
「んふふーありがと。そうだマリス、いい機会だし、その朴念仁から魔術のコツでも聞き出してみたらどうだい? 口が硬くて弟子を取りもしない賢者なんて、勿体ないったらありゃしない」
心外な言葉に、シーグルは首を振る。目の前に出された苦冬瓜の餡掛け煮があっという間に消える。口の中に。
「多忙にて時間がないだけで、隠してなど」
「ならばぜひ! コツの話、聞きとうございます!」
目を輝かせて美少女にずいと迫られ、気まずそうにシーグルは少しだけ身を引いた。だがそちら側にはレニンの酢漬けをつまむリースベットがおり、この師弟に挟まれてしまった時点で黙ってやり過ごすことは不可能なのであった。
「はあ、では少しだけ……例え話ですが、マリス様は、ここからとある目的地にできるだけ早く辿り着きたい時、どのようにされますか?」
「えーと……すっごく急いで走ります!」
リースベットの弟子となったマリスに会うのはこれで三度目くらいだが、この娘は素直だが少し単純すぎるな、と彼は思う。さっぱりして裏表のないリースベットと気が合う訳だ。
こっくりと頷く。
「まあ、それはそうですね。そこは大前提として、最短の道のりを行くという話になってくるかと思います。しかしこの最短というのも、時々によって解釈が異なってくることもあります。例えば山あり谷ありの険しい道でも地図上の最短、つまり直線的に行くか。距離はいくらかあろうとも、安全で整備された道を行くか。これについては、目的地へ向かう用事によって、選択の余地があるでしょう」
出された人参ジュースに手も付けずに少女は聞き入るので、シーグルも次の皿に手を伸ばせずに彼女の方に体を向けてちゃんと話す。
「そうして、目的地への地形や距離、安全性、利便性などを総合して、最善の決まった道のりを移動すること。これが詠唱です」
「……はい」
急にマリスは不安そうな顔をした。ひひひとリースベットが後ろで笑う。
「先人たちが研究と苦労と工夫を重ねて辿り着いた最適解、詠唱とはそういう美しさがあります。これを放棄することは、基本的には褒められたことではありません」
「う……はい」
「ですから、私も他人に対してはきちんと詠唱して術を使います。それでも自分が使う際、急ぐ時、通う頻度の高い目的地の時などは、正規のルートを外れた方が便利なこともあるのです。そこで再び先程の問いですが、いち早く目的地に着くには、どうしますか?」
「……えー……? 最短ルートはもう出てるのに、それ以上って……」
謎掛けをしている訳ではないのだが、例え話が気になりすぎるのか、シーグルは疑問符を浮かべている彼女の回答を藁地鴨のローストを食べながら待った。甘酸っぱいベリー系のソースが旨味の強い肉によく合って実にうまい。
リースベットがおかわり、とオーダーしたのを聞いて話を切り出す。
「様々な答えがあるかと思います。ですので正解が何かというより、私の出した答えとしては……山を超えたり、谷を迂回したり、川を渡ることをしない道を選べばいい、というものでした」
「ほえ?」
ぽかんと少女は口を開ける。その子どもらしい反応はハイノと似通ったところがある、とシーグルは思った。
「とはいえ人間には空は飛べません。一方鳥や竜や魔物などは飛べますので、詠唱もなしに、素早く術が使えます。人間の魔術とは、文字通り『魔』の術。魔物らの術を学問として体系化したものであり、速さや威力において本家には中々敵いません。ならば……さらに別の道を見つければいい」
「……えーと……? じゃあ……」
シーグルは人差し指でカウンターを軽く叩いた。正確には、木製のそれを示したのではなく、さらにその下を指すために。
「地下です。人間には道具と知識、あと根性があります。地下を掘り、障害物や天候などを無視し、目的地まで殆どまっすぐに辿り着く道を作り出した。そこを高速で移動する道具を導入した。これが、私の行う詠唱なしの魔術です」
しばしの沈黙。店の喧騒が遠くなるような気まずさに、シーグルは水を飲んで反応を待った。
マリスは頭を整理しているようで、複雑な表情で何度も瞬きをする。
「えーと……分かるような、分からないような……ぐ、具体的にどういうことなんです?」
「つまり、理論と実績値から立体的に術の成立プロセスを理解して、魔力を通せば発動手順を踏める回路を予め己の記憶領域に組んでおくのです。そこに半自律的に圧縮した、発令明言を奔らせることで発動に至ります」
「…………ししょお〜……助けてください~」
ついに泣き言が飛び出した。こらえきれなくなったリースベットは、腹を抱えて笑った。
「あっはっは! やっぱりね。理屈派のシグと感覚派のマリスじゃそうなるわ!」
予想通り、とばかりの言い草に、マリスは頬を膨らませるが、険悪な様子ではないのでシーグルはほっとする。相手の理解度や特性を知らずにせがまれて話すと大抵こうなる。かと言ってこれ以上噛み砕いた説明も難しい。
一応フォローするように次の根菜のシーオイル和えを食べつつ彼は続ける。
「マリス様も幾つかの分野を修めると、それなりに分かってくると思います」
「そう……でしょうか?」
「だといいねえ。んふふマリスちゃんよ、あっちの立食の皿から適当に取ってきておくれ」
「ふぁーい……」
店の中央には大皿に料理が山盛りになったコーナーがあり、食事をメインに来ている者はそこから好きなだけ盛って食べている。料金は皿ごとに計算するという大胆で太っ腹なこのヴーズヴィの店が繁盛している理由は、腹が減っては戦はできぬ戦士職らの熱い支持があるおかげであった。なお、赤字かと思いきやちゃんと別口で利益を確保しているのが老舗のしたたかさである。
自分もあっちの方がいいな、と思いつつ少女の背を見送ると、リースベットが自分の前に置いていたナッツ類を少しこちらに寄せた。
「あんたが賢者と呼ばれるのは、それらを統合して実践的なレベルで自分のものにしてるからだよ。沢山学べばいいってもんじゃない、できるかどうかもまた別問題。駆け出しにあの話はちょいと荷が重いよ」
「すみません」
「いっひっひ! この辺りは天才サマには分からんかもしれんね」
テペットナッツを一つ口に放ってから、シーグルはゆるゆると首を振る。またしても心外である。
「とんでもない。私には、魔術の才能はそれほどありませんでした。ただ、努力は人一倍したと思います。苦悩する気持ちは分かるつもりです」
「いやいやぁ、あんたの師匠マウリ老は才を見抜く固有能力があったそうじゃないか。謙遜は通じないぞー」
カウンターにもたれるリースベットは、ツンツンと指でシーグルの腕をつつく。酒飲みでだらしなくてスタイルも顔もいい、彼女に何故パートナーがいないのかというと、こういう奔放さにあるのだろうな、とシーグルは思った。妙齢の女性として、あまり褒められた態度ではない。
「いえ、事実です。努力をすること以外に、私には生き残る道はなかった。記憶も血縁も何もない私が、まず老師に拾われたことは幸運でしたが……その先は、人の役に立たなければ、必要とされるほど強くなければ、生きるための居場所を得られなかった。だから死ぬ気で頑張っただけです」
「ふへへ、死なんでよかったねえ」
だが、同僚としてはこういうところが気が楽である。性別も関係なく、団の中堅から幹部としての立ち位置は時に孤独であるが、彼女はずっと変わらない。
カウンターの向こうにある厨房で、威勢のいい男の声が飛ぶ。市井に女性の働く場所は多くなく、家の中で家事や育児をするか家業の手伝いが殆どである。だが魔力があるとなると、女性でも十分に活躍できるとして有資格職者の男女比はやや男性が多い程度と、一般人との乖離が大きい。結婚や子育てにとらわれず、自由で過酷な資格職の世界に女性が多いのは、それだけ抑圧から逃れたい思いもあるのではないか、とシーグルは思っている。リースベットのように、誰もが男とも対等に自由に振る舞えたらと。しかし彼女がそうできるのは、魔術師職の最高位を得る努力と苦難を乗り越えた実力があるからで、やはりこの世界では手をこまねいているだけでは何も得られないのである。
ぐび、とまたジョッキをあおり、リースベットは深く息を吐く。
「……あんたが老師の後を継ぐようにして、この団に来てもう十年か。同期もだいぶ減ったねェ……飲み友がそろそろ後輩しかいなくなっちゃうよ」
その横顔は寂しそうで、色香漂う美しさが確かにあった。いつの間に彼女はこんなに憂いを帯びた大人の女性になったのだろう。出会いより別れがこたえるせいだろうか。もう一緒に飲める同期はこの世にそう多くないことを噛みしめるように、また一口ゆっくりと飲み下す。
彼女の様子を見ていると、これから打ち明ける話の内容を思うと良心が痛んだ。だが、黙っている方が不誠実なのも確かである。シーグルは息を吐いて、腹を決める。
「そのことなんですが。私もこの度退団したいと思っております」
「…………」
今日は本当にこのぽかん顔に出会う日だ、と彼は思った。
一瞬で酔いがさめたかのように、リースベットは椅子から転げ落ちないようにカウンターに突っ伏すようにしてしがみつく。それから、げほごほと気管にナッツが入りかけたのか大きく咳き込んでからがばりと顔を上げる。
「っな、ななんなんなんでェ!? 仕事人間のあんたが!? お客様第一のド糞真面目野郎が!? 年中無休で人々に尽くす系無趣味独身男が!!?」
「……概ね事実ですが、そうはっきりと言われますと困ります」
悪意は多分無いのだろうし腹を立てるほど無自覚でもなかったが、一応突っ込んでおく。バケットの切り身に鶏レバーペーストを塗った一皿に手を伸ばし、二枚ほど口に放り込む。
リースベットは顔色を白や青や赤や、どれにするか決めかねているかのように次々と変わる。
「それラトカにももう言ったわけ!? あのねえ、賢者のホルダーなんておいそれと手放す馬鹿がいるもんか! つーかどうしちゃったのさァ!? た、確かにずいぶん稼いではいるんだろうけど、もう隠居するってこと!? なんで!? 仕事人間がどういう風の吹き回し!? う、うーむ、この前は予定にない休みを取るし、どうも様子がおかしいと思っ……も、もしかして、けっこ……」
「落ち着いてください。少しばかり、自分の時間が必要になったというだけです」
「自分の時間んぅ?」
「はい。私は不器用ですので、仕事の片手間では中途半端になるかと思いまして」
すると、彼女は悔しそうに眉をしかめてぶはーっと息を吐く。
「もう……そう言われると参るねえ。不器用かどうかはさておき、要領よく遊んで学んで仕事して、っていう器用なタイプじゃあないよなあ……だからってさあ! 昔っからそうだよあんたは。線を引いたように、自分のことは話したがらない」
「人様にお話しするほど中身のある人間ではないので」
「そーゆーのだよ! む! か! つ! く!」
「はあ、すみません」
だんだん絡み酒になってきた気がする。気づけばジョッキは二つ空になり、つまみもそこそこに進んでいる。頃合いか、と彼は思った。
シーグルは帽子もコートも取らずに座っていたので、すぐさま立ち上がることができた。なんとなくこの展開を想定できていたおかげでもある。
「そういうわけで、本日はこれで退散致します」
「えー! ちょっと、まだ何も聞き出せてないんだけど! それに今日はあんまり食べてないじゃん! まだ余裕で入るでしょ!?」
「そう言われましても。……ム」
図星だが腕にでもしがみつかれたら人の目もあるし振り払うにも気が引ける。向かいにいる店員に、ふと目についた後ろの大皿にある赤目魚の餡掛け揚げを指さす。以前食べたことがあるが、頭から骨まで丸ごと食べられて、淡白な白身に強めの諸鶏がら出汁の餡と歯ごたえのある葉物が良く絡んで、店の看板メニューと言っていいほどの絶品であった。思い出したら食べたくなってきた。
「すみません、こちらを持ち帰り用に包んでください」
「はーい、お待ちをー」
「やっぱり誰かいるんじゃん!? ねェ!?」
持って帰るくらいなら食ってけよ、とリースベットがコートの裾を掴んでバサバサはためかせる。
それが目立ったのだろう。
「ーーあー!? そこにいるのはシーグルとリースベットじゃねえかァ!?」
入口の扉付近から声が飛んでくる。
思わず裾を取り落としたリースベットは、苦々しい顔をした。後輩にして団の本流筋の男、ヘイスイェルデンである。
「げっヒースだわ」
「てめーら定例会議をこっちに押し付けやがって、ふっざけんなよォ! クソ大変だったんだかんなー!」
一瞬で沸点に達したヘイスイェルデンは、人混みをかき分けてずかずかとこちらへやってくる。これに捕まると本格的にまずい、とシーグルはいよいよ退散の姿勢を取る。持ち帰り用にトトの葉で包んだ薄木箱の袋を受け取り、金をカウンターに二山ほど多めに置く。一つは土産の代金、もう一つはリースベットが頼んだ皿分のそれである。
「挨拶にはまた後日伺います。あとはヒース様と飲んでください。マリス様にもどうぞよろしく」
「勘弁してよぉ! あいつのウザ絡みじゃ酒が不味くなるだけなんだけど! ……って、奢りだって言ってんでしょ、コラー!」
カウンターにいつの間にか置かれていた料理の代金のコインが置いてあるのを見つけて、リースベットはきーっと腕を振り上げた。
あっこら待て、とヘイスイェルデンの声が聞こえたが、シーグルは二階へ続く通路前が人が少ないと見るとひらりと飛び出し、あっという間に“接続”の黒い平面入口を開いてそれを潜った。
瞬時に喧騒は消え、シーグルは夜の帳の裡に静まる東門のポータルのそばに佇んでいた。
「……ふう」
肺に溜まった人の熱気や気配を、この閑散とした広場の冷えた空気と交換するように息を吐いて吸う。
信頼できる上司と同僚たち、離脱を惜しんでくれる人々のありがたみを感じた一日であったが、今こうして一人の静寂に身を浸すと男はどこかほっとしていた。
人の中でも恙無くやってきたこの十年程であったが、居心地の良さを感じるのはいつも一人の時だった。自分の心には他人は必要ないと思えるのはこういう実感からで、それが自分だと受け入れていたつもりでいた。あの不思議な魔物の子に出会うまでは。
公的ポータルでも、個人の秘匿性を付与したポータルへ飛んだ場合は履歴が残らない。シーグルはガス燈の薄明かりに追われる影のようにポータルに寄っていき、その姿を音もなく消すのであった。
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